10話 漂う心
全患者のシーツと包帯の交換を行った日から、ハンクとリタの二人には『婦長の補佐』が毎日命じられた。
この異例な抜擢とも言える状況は、看護の勉強になる反面、常時の強い緊張を精神に強いていた。
気の抜けない日中を過ごすと外はもう夜となり、唯一の団欒である食事の時間を逃した三人は看護婦塔の一階で食事を摂り、各部屋へと戻っていく。
フローレンスと就寝の挨拶を交わして二階の看護婦部屋に入ったハンクとリタは、三階の扉が閉まる音を耳にしてようやく緊張を解くことができた。
しかしやっと訪れた解放感に浸る間もなく、二人は疲弊しきった心身をベッドへと投げ出すのであった。
そんな毎日が七日目を迎えた十二月二十三日の朝。
シフトの上に黒い制服を着込んだ二人が、同じように身支度をする団員たちをぼんやりと見渡しながら、今日も当然『婦長の補佐』であろうと予想する。
そんな矢先、異常な急ぎようの足音が最上階まで駆け上がり、少しして二人の足音が駆け下りて来た。
三階で止まったその足音が何かを叫んだ瞬間、頭上の階では団員たちが四方八方に駆け始める。
頭上でおきている異様な状況にシスター・エリザベスがバビットを整える手を止め修道女たちと顔を見合わせていると、二階へと駆け下りて来たブーツ音が勢いよく飛び込んで来た。
「皆さん!
あと三十分ほどで、傷病兵三百四十名の乗った輸送船が港に到着します!」
鬼気迫る表情で声を張り上げたクラークの言葉に続き、息を切らせたブレースブリッジ夫人がほつれる赤毛をなでつけながら上の階でも告げたであろう内容を大きな声で繰り返す。
「婦長の御命令でございます!
予定されていた朝食と午前の看護は完全に中止。
本日は早朝より、患者さんの受け入れを全員でいたします!
時間がございませんので、朝食が必要な方はスープかミルクをお取り下さい!
十分後には看護婦塔を出られますよう、どうぞお急ぎなさいませ!」
それを聞いた看護婦団員たちは、返事もそこそこに駆け回り始め、慌ただしく準備を進めていく。
ハンクとリタも例に漏れず髪を整え、ベッドサイドのチェストから白いエプロンを引きずり出していた。
◇
傷病兵を搬入する嵐のような光景は、実に二週間ぶりだった。
めまぐるしく人々が行き交う病院の玄関前では、兵士の妻やトルコ人人夫の家族も総出となって傷病兵の受け入れ作業に奔走していた。
受け入れの手順は前回よりも細かく分業化され、ハンクとリタは病院の玄関に立ち、前を通過するタンカに向かうべき座浴槽がどこにあるのかを口頭で指示し続けていた。
てきぱきと働く兵士の妻やトルコ人たちを見渡した一人の若い医師が、明らかに高くなった搬入作業の能率に驚き小さい声で呟く。
「何という事だ……。
医療の何たるかも知らぬ素人が、
自分のするべき事を理解して的確に行動している……。
いったい看護婦長は、どれほどの指導力を持っているのだ……」
一貫してジョン・ホール側にあぐらをかいていた軍医たちは、ただ呆然と『フローレンスの教育性ある指導結果』を眺めていた。
次から次へと押し寄せるタンカの先陣を活舌良く捌いていたリタが、一瞬訪れた波間にふっと息を付き、数メートル後ろで声を張るハンクに視線を移す。
ハンクは指示を終えたのち、呻きを上げる患者に声をかけながら、一人一人の顔を懸命になって確認していた。
その視線は紛れもなく、たった一人の人物を探し出そうとしているものであった。
驚きに目を開いたリタが、自嘲的な笑みを小さく漏らす。
なぜなら気が付かぬうちに、ハンクよりも自分のほうが何十倍も夢中になって『彼』の姿を探していたからである。
リタは搬送のタンカがしばらく来ないことを確かめると、後ろを向きハンクのもとへと駆け寄った。
そして落ち着きなく視線を走らせるハンクの肩をそっとなで、寂しげな声で呟いた。
「……サム、大丈夫よ。
ユーリアはいない」
リタの声にはっと顔を上げたハンクは、すがるような瞳でリタを見上げ、不安にわななく唇から細く声を絞り出した。
「……解っているんだ、この中にユーリアがいないってこと……。
でも、怪我人を見るたび、ユーリアのような気がして……。
今どこかでユーリアが、怪我をしているような気がして……!!」
二人は向き合ったまま立ち尽くし、ラバのカコレに乗せられた負傷兵が通り過ぎるたび色濃くなる血の臭いに眉をひそめていた。
不幸をまとうそれに頭を振ったリタが、優しい声でハンクに言う。
「サムったら、そんなこと気にしてどうするの?
あれだけ元気に出ていったのよ?
今ごろもっと元気にやってるわ……。
それより、早く戦争が終ることを祈りましょう。
そうしたら、また会えるじゃない」
リタはハンクの頭をなでて、包み込むような笑顔を向ける。
その母のごとき温かさで花開いた笑顔は、不安に満ちていたハンクの胸を違和感なく落ち着かせてくれた。
初めて出会った時からは想像もつかないほど優しいリタの姿は、口の悪さと下品さの裏に隠されていた彼女本来の姿であった。
もし自分に姉がいたら彼女のように優しいのだろうと想像したハンクが、ふと悲しげな思いでリタの心情を想像する。
(……心配しているのは、俺よりもリタのほうなのに)
今こそ男である自分が彼女を支えなければならない、そう考えたハンクは、垂れ込める不安要素を振り払って笑顔を作り、ぎこちなさの残る動きで頷きを返した。
そうしながら、彼女の言った言葉の通りになるだろうと、納得しようともしていた。
ユーリアを戦場へ帰したのは、きっとどこも間違っていなかった。
そう思うよりほかに、落ち着ける場所はどこにもなかった。
【ラバ】
スクタリ野戦病院では、港からの患者搬入にラバを使っていました。ラバとは、父がロバで母が馬の種間雑種のこと。ライガーやレオポンと同じですね。体が大きく粗食に耐え力が強い、性格も温厚であるという特徴を持つ彼らは、物を運ぶ家畜として非常に重宝されました。飼育がしやすかった事も理由の一つです。
ちなみにこのラバ、父が馬で母がロバになるとケッテイという種間雑種になり、大食らいの怠け者になるそうです^^。




