9話 思いやる心
大きな螺旋を描く長い階段を最上階まで上がりきると、そこには各階と同様に古い木製の扉があった。
前を行くフローレンスがそれをゆっくりと押し開け、躊躇するハンクを視線で促しながら部屋の中へと入っていく。
おずおずと薄暗い部屋の中に一歩入ったハンクは、目前の光景に息を飲んだ。
普段出入りする病室よりやや小さめであろう部屋は、大きなついたてで室内を分断されており、手前の空間が『英国陸軍病院の女性看護要員の総監督』の仕事部屋に、奥には三人分の寝室を配していた。
フローレンスの仕事部屋を占めるのは、どう褒めても丈夫さだけが取り得としか言いようのない大きな机であり、そのどっしりと部屋を埋め尽くす風貌の机上には、手紙やら書類の山やらがうず高く積み上げられている。
ハンクは扉から二歩も進めば机の主と目前に対峙できる空間の狭さに、多少呆然としていた。
彼の背後で扉を閉め終えたフローレンスが、部屋の右側を指し小さな声で言う。
「サマンサ、
ストーブの前にあるハイバックチェアにお掛けなさい。
私はすぐにカモミールティーを淹れますから」
ハンクの隣を静かな足取りで通り過ぎたフローレンスは、持っていたトルコランプを音も無く机に置き、ストーブの上でコロコロと鳴き始めたばかりの小さなポットを手に部屋の左側へと歩いていった。
黒い皮製のハイバックチェアに座ったハンクが身をひねって彼女を見守るなか、フローレンスは隙間なく壁を埋めるチェストの一番低い設えのカップボードからティーセットとドライハーブを取り出し、手元が薄暗いにも関わらず慣れた手つきでハーブをポットへと入れていく。
小気味良い音と共に湧きたてのお湯を注ぎ入れた後は、滞らぬ手順でカップやソーサーの準備をし、見事なまでの手際でカモミールティーを淹れて見せた。
そして無駄のない足運びでやって来ると、ストーブを向いて座り直したハンクの前にカップの乗ったソーサーを差し出しながら、潜めた声で言い聞かせる。
「体が温まるよう、ゆっくりとお飲みなさい。
それで良く眠れます」
ハンクがソーサーを受け取り、カモミールの良い香りに目を細めて言った。
「ありがとうございます。婦長」
彼の笑顔に僅かな笑顔を返したフローレンスはくるりと背を向けて歩き、仕事机に備え付けられた飾り気のない木椅子に腰を下ろした。
熱いカモミールティーを吹き冷ますハンクの耳に、薪の燃える音とは違う小さな物音が聞こえて来た。
背もたれ越しに聞こえる物音にそっと振り返ると、ランプの灯りに照らされたフローレンスが机に向かって何やら忙しなくペンを走らせている。
そのせせらぎにも似た音の中でハーブティーを飲み進めたハンクは、不思議と父の書斎でくつろいでいるような安心感を覚えていた。
静寂の地を流れゆく川面の音に聞き惚れながらカモミールティーを飲み終えたハンクは、ティーカップをソーサーに戻して傍らのサイドテーブルに乗せる。
そしてハイバックチェアから立ち上がり毛布を巻きなおすと、淀みなく仕事を消化するフローレンスに向かって遠慮がちな一歩を寄せて質問をした。
「……婦長、こんな時間に何を書いているんですか?」
「手紙です。
友人でもあり、私がここで働けるよう手を貸して下さった戦時大臣の財政監督の方に
スクタリ兵舎病院の現状をできる限り報告するためにね。
今や病院が見違えるほど清潔になった事、
患者も清潔なものに包まれて管理された病人食を食べている事、
そして兵士たちの妻を労働者として雇い入れた事、などを記しているのです」
便箋から顔を上げずに答えた彼女のペン先は、素早くしゃらしゃらと文字を綴っている。
その勤勉な様子に圧倒されたハンクは、率直な感想をぽつりと漏らした。
「手紙というより……、仕事……みたいですね。
今日くらい、報告は誰かに書かせればいいのに……」
ハンクが今日一日でこなした目の回る看護内容を思い出しながら、患者の包帯を換えるために十時間近く跪き通したフローレンスの細い膝を案じる。
しかし彼女は先程と変わらぬ素振りで返答した。
「いいえ、完璧なる物以外は失敗ですから、
私が書かなければ私の言いたい事は伝わりません。
特にこういった報告は人に任せて良い物ではありませんし、
また小まめに発信するのが理想なのです」
フローレンスが丁寧に書き埋めた便箋を左手で横に置くと、そこにはもう既に十数枚近くの便箋が積み重なっていた。
ハンクは彼女の筆記速度とその正確さに目を丸くした。
少しの沈黙の後、フローレンスは報告を書き綴りながら小さな声で言った。
「あれで、良かったのです」
主語のない彼女の言葉に、疑問の表情を貼り付けたハンクが首を傾げる。
「今日の昼前、ジョン・ホール軍医長が突然に病室を訪れました。
この数日間で二階の衛生環境が良くなった事を耳にしてね。
何か企みがあるとでも疑ったのでしょう、
手当たり次第に病室内を捜索したそうです。
……今朝おきた、彼とあなたたちの行動は、結果的に正しかったと言えます」
その真実に、ハンクは息を飲んだ。
今まで暖気に構えていた『ユーリアの看護』という日々の持つ、とてつもない恐ろしさを現実的に理解したからである。
隠れて敵兵を看護するなど、発覚すれば四十人近い看護婦団員のイギリス送還だけでは済まないはずだった。
そんな危険すぎる橋を自分の我侭で渡り、なおかつ大志を抱いているフローレンスをも道連れにしていたことを、改めて恐怖する。
小さく体を震わせ始めたハンクに、フローレンスは変わらぬ態度のまま愛想の薄い口調で言葉を放った。
「もう良いのです、済んだ事ですから。
それよりあなた、疲れているのでしょう?
早く戻って眠りなさい。
あなたが疲れたままでは明日の看護をこなす事もできませんよ。
看護婦にとって、休む事も大変重要な仕事なのです」
こちらを横目見たフローレンスの戒めるような視線に貫かれたハンクは、脳内で増幅する自責の重圧に、細い髪が乱れる小さな頭をうつむかせた。
彼は蚊の鳴くような声で返事をし、消沈の足取りで扉までやってくると、退室の礼を告げるべく後ろを振り向いた。
トルコランプの灯りが、机に向かう彼女の姿を幻想的なまでに浮かび上がらせている。
止まることを知らないかのように動き続けるペン先に目を落とすフローレンスの、深く窪んだ二重瞼が彼女の多忙とそれに伴う疲労の度合いとを雄弁に物語っていた。
ふっと湧いた感情を、ハンクはそのまま声に出した。
「婦長。
ミルク入りの葛湯を、お飲みになりませんか」
その提案に返答はなかった。
だがハンクはひるまずに、もう一度訊ねた。
「葛湯、飲んでください。
蜂蜜も入れます。
だって私よりも疲れてはならないのは、婦長、あなただと思うのです」
フローレンスのペンが、ふいに止まった。
しばし浮いたままだったそれは、またゆっくりと紙の上に報告を連ねていく。
彼女はペン先を見つめたまま、普段と変わらぬ口調で答えた。
「……サマンサ、あなたは葛湯を作れるの?」
「はい。クラークさんを手伝って覚えました」
「そう。では頂くわ。
ただし、水以外の内容物は患者に与える時の半分にして頂戴」
自責の面持ちの中に僅かながらの嬉しさを見せたハンクがゆっくりとお辞儀をしてから退室し、急ぎながらも物音は立てぬよう暗い階段を降りていった。
少しして、台所から漏れ聞こえる僅かな物音に目を上げたフローレンスは、葛湯を作るハンクの姿を想像して柔らかな笑みを浮かべていた。
【メモ魔】
フローレンスは恐ろしくメモ魔でした。子供のころ旅行先で親戚宛に書いた手紙から、もうその片鱗が見えます。体感したことを、とにかく細かく執拗なまでに書き込むのだそうです。長文な日記を毎日書いていた彼女にとって、文章を書くことは歩くことと同じくらいに慣れたことでした。
現在も彼女の直筆で綴られた資料は大量に残っています。それらはこの小説を書くにあたり、大変な助けとなり、大変な足かせにもなりました^^。




