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命と戦った女(ひと) フローレンス・ナイチンゲール  作者: ぐろわ姉妹
第6章 看護とは無駄なものなのか
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8話 降り注ぐ忙しさに

 柔和な朝日が照らし出すハンクの背後に、枯れ草を踏む静かな足音が立ち止まった。


そして平たい二つの掌が、うずくまる彼の体を魔法のようにすんなりと立ち上がらせる。


力強く引き上げられたはずなのに不思議と負荷を感じぬ妙技にハンクが泣き顔を上げると、そこには海原を見つめるフローレンスの姿があった。


視線をハンクに移した彼女は彼の言葉を聞くよりも先に、いさめるでもなく平常な口調で冷静に話し始めた。


「彼は自分の脚で歩いていったのですね? 

ならばそれは誠実な医師の手術とあなたたちの懸命な看護で、

彼が元気を取り戻したという事です。

看護婦であるならば、

患者に体力が戻った事を、ただ喜べば良いのです」


 ハンクを見つめるグレーの瞳は、もうすでに全ての事態を把握しているようだった。


それなのに全く咎めて来ない様子を、ハンクはとても意外に思っていた。


フローレンスの親指がハンクの頬をさっと拭い、その戸惑い顔を優しく両手で包み込むと、言い聞かせるように頷いて見せる。


 手を離した彼女は凛とした足取りで、港への長い坂道を下りていった。


  ◇


 この日、ハンクとリタはフローレンスの指示により最も忙しいと囁かれる『婦長の補佐』に参加することとなった。


突然の任命に驚く看護婦団員を前に、フローレンスは眉を上げ


「新人の特訓です」


と前置いてから言葉を続ける。


「今朝やっと、私がイギリスに発注しておいた包帯とシーツが届きました。

本日私は、患者全員の包帯交換とシーツ交換を行うつもりです。

そのため、動きの速いリタとサマンサを補佐につけます。

二人がしっかりと仕事をこなせば、他の皆さんの手を煩わせる事にはならないでしょう」


 看護婦団が見せた驚愕の表情の意味を理解するよりも先に、ハンクとリタはフローレンスの声に急かされて看護の準備に向かわされた。


事の重大さが理解できたのは、物品で埋め尽くされた倉庫の中でフローレンスの口から看護計画を聞かされた時であった。


「今日は私たち三人で二千二百七十三名全員の包帯とシーツ交換を行います。

私が全ての包帯を交換しますから、

サマンサは私よりも先に患者のもとへ行き

血で張り付いた包帯にお湯を含ませて

交換時の痛みが軽減できるよう措置を取ること。

お湯は外で御婦人方が用意して下さいます。

リタは私の後に付き、使用済みの包帯回収とシーツの交換。

そしてそれらを玄関先に用意された台車まで運搬すること。

今日はひたすらこの作業を繰り返します。

休憩と昼食は取れないものと思って行うように」


 二人は一瞬の眩暈を覚えたものの、とにかくがむしゃらに動かなければこの仕事は絶対に終わらないと覚悟した。


その後二人は、記憶に留められぬほどの忙しさで働き通し、気が付いた頃にはもう夜になっていた。


  ◇


 幾人もの寝息が響く看護婦塔の二階部屋。


 暗闇の中でハンクは、ベッドに体を横たえていた。


淡い眠気をまといながら開いた目が僅かに歪み、鉛のように重たい体をゆっくりと起こす。


細い喉をさすりながら室内履きに足を通したハンクが、夜気で冷えた体を包むようにして毛布を羽織った。


闇の中、ハンクは足音を潜めて部屋を出ると、老人のようなもたつきで暗い階段を下りていく。


月明かりを頼りに辿り着いた一階の水場で、ハンクは汲み置きの井戸水を飲み、小窓から覗く雪のように白い月を見上げていた。


カップを置いたハンクが、溜め息めいた呟きを落とす。


「……ユーリア……」


 戦場に行くユーリアを止められずに見送ってから、ようやく訪れた静寂。


その中に心身をたゆたわせながら、ハンクは心に影を落とす自責の念に胸を痛めていた。


敵の船に潜んで黒海を渡るユーリアを心配し、そっと祈りをささげる。


その祈りが終わるよりも早く、背後から鍵穴をかき回す棒鍵の音が聞こえて来た。


ハンクがゆっくりと振り返ると、開いた扉の先にはトルコランプを持ったフローレンスの姿が闇に浮かび上がっていた。


フローレンスがハンクの立てた物音に気付き、ランプをかざして暗がりに目を向ける。


「あら、サマンサ。

こんなところでどうしました、

目が覚めてしまったのですか?」


 ずり落ちた毛布を引き上げながら身を整えたハンクが、寝相で絡まった髪も気にせずこくりと頷いて答えた。


「はい……。

それで、水を一杯飲みました」


 そう、と返事をしたフローレンスは扉を閉め、しっかりと鍵をかけてからハンクを振り向き、その覚醒した瞳を見つめる。


「冷えていた水を飲んだのですね。

それではかえって眠れなくなるというのに。

……仕方がありません、私の部屋にお上がりなさい。

温かいカモミールティーを淹れてあげます」


 愛想の薄い口調でそう言ったフローレンスは、ハンクの答えを聞かずに早々と看護婦塔の階段を上がっていった。


壁に沿う形で螺旋を描く狭い階段は、フローレンスの足音を低く響かせていく。


ハンクが少々困惑しながらも小走りになって階段を駆け上がると、フローレンスは少し振り向いてひそやかに囁いた。


「最上階の部屋には、

ミセス・ブレースブリッジと家政婦クラークが眠っています。

努めて静かにするように」


「は……はい」


 彼女の戒めに足音を抑えたハンクが、胸を騒がせた困惑の落ち着きに安堵の溜め息を吐く。


いくらこんな状況とはいえ、男である自分が一対一でレディの寝室へ夜中赴くなど、禁忌を破るようでうろたえていたのだ。





【婦長の激務】

 フローレンス・ナイチンゲールは、とにかく沢山の行動ができた人でした。何をするにも正確で素早くこなす能力と情熱がありました。その様はまるで、神が彼女のために時間を多く与えているようだったと言われたそうです。


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