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命と戦った女(ひと) フローレンス・ナイチンゲール  作者: ぐろわ姉妹
第6章 看護とは無駄なものなのか
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7話 喪失

 表情を緩めたユーリアが下を向き、未だ離れようとしない小さな看護婦の頭を優しくなでながら、妹に語るかのように呟いた。


「サマンサ……

君にも、世話になった」


 ユーリアの胴体にがっちりとしがみ付いたままのハンクは、止めどなく溢れる感情を拗ね黙る駄々っ子のような歪み顔でしか堪えることができないでいた。


ハンクはその表情を見られまいとしていたが、見ずともそれを理解していた二人は、優しさのこもった困り顔を見合わせる。


ゆっくりと歩み寄ったリタの手が、ハンクの細かく震える腕をユーリアから静かに解き離した。


ユーリアは意外なほどおとなしく腕を放した少女の、黙り込んで俯く頭を見つめた。


落ち着いた声色に深い慈愛と感謝を込めたユーリアが、静かに言葉を綴る。


「僕は、君たちの優しさを……一生忘れない」


 ユーリアの言葉に、ハンクはっとしてアッシュグレーの両目を大きく見開いた。


引き止める言葉を抑止するかのように発せられたユーリアの言葉が、ハンクの胸中を諭す。


「サマンサ。

……患者を看護するのが君たち看護婦の仕事なら、

兵士である僕の仕事は戦場で戦う事なんだ。

……解るね?」


 その言葉は、ハンクの脳内を瞬時に澄み渡らせた。


 大英帝国の躍進する正義の戦争という夢物語を、跡形もなく砕け散らして。


(――戦争は、忠と義がぶつかり合う崇高な戦いではないのか……。

名誉に満ちた騎士道など、子供の甘い夢でしかなかった――?)


 兵舎病院で哀れな最後を迎えていった兵士たちの壮絶さや、目の前で息途絶えた中年兵士の乾いた瞳の恐ろしさ。


それらを押し殺していた記憶から噴出させたハンクは、ユーリアにかけたかった言葉を失い、すがるように頭を振った。


 言葉のないまま今まで以上に強く訴え掛けてくるハンクの様子に、ユーリアが何かを手渡せる物はないかとポケットの中を弄る。


それを見たリタは、笑いながらハンクの体を抱き寄せ、明るい声でユーリアに言った。


「やめてよユーリア。

私たちには要らないわ。

……それに、そんなことしたら何だか最後みたいじゃない? 

……また会ってくれるでしょ? 

戦争さえ終ったら」


 ハンクの頭を胸に抱き、母のような面持ちで焦げ色の髪をそよがせたリタが、同意を求めて細い両眉を引き上げる。


包帯の下で微笑を返したであろうユーリアは、帽子をポケットに挟み込むと、おもむろに顔面を覆う包帯を解き始めた。


するすると地面に落ちてとぐろを巻いた包帯の、最後となる白い布端が潮風を受けて美しく翻る。


明るさを増して輝く白い日光を正面から受け、眩しそうにこちらを見つめてくるユーリアの顔を、ハンクはリタの痩せた胸にもたれながら力なく見つめ返していた。


ユーリアはまだ赤みの残る生々しい頬の傷に触れ、二人に向かって自分の素顔を対峙させた。


「この顔を、覚えておいてくれるね?」


「忘れるわけないわ……。

ねぇ、サム?」


 リタは猫でも抱いているかのように、ハンクの頭をかき抱いた。


 ふっと安堵の表情を見せたユーリアが、リタの作った帽子を目深に被ると、照れ臭そうに笑顔して見せる。


大きく前に張り出すつば越しではあったが、ユーリアの笑顔はあまりにも清々しく輝いていた。


 残された時間は短い、なのに交わせる言葉は一つとてないという現状が、ハンクの心を辛辣なまでに貫いていく。


人間の誇りも尊厳すら生まぬ虫けらのような死を確信し、それでも不毛の戦地に戻ろうとするユーリアの意志、そして全てを理解してもなお取り乱しもせず笑顔をもって送り出すリタの信念に、ハンクは顔を歪めて涙を流していた。


二人に比べてあまりに脆弱な己の存在に不甲斐なさを感じたハンクは、感情の爆発と共にリタの腕から飛び出していた。


「――サム!」


 呼び止めるリタを振り切り、ハンクは泣きながら乾いた泥の丘を駆け上がっていく。


いつの間にか港の連絡船は荷下ろしを終え、ハンクの駆ける坂道には退院した兵士の姿がちらほらと現れていた。


何度もバランスを崩して辿り着いた丘の頂点でハンクが咽びながら坂の下を振り返ると、港では連絡船に乗り込む兵士たちの波に混じってユーリアが桟橋を歩いているところだった。


表情も読み取れぬほど小さな人影になったユーリアの赤い背中が、一歩一歩甲板を歩いていく。


ハンクはエプロンを握りしめていた両拳を一つほどき、流れる涙を手の甲で拭っていた。


 滲む世界の中で、ユーリアの姿が船内に消えてしまうという間際。


 ユーリアは、振り返ってハンクを見上げると、


 大きく、大きく手を振った。


「――!!」


 それを見たハンクは、大きな嗚咽を上げて赤子のように泣きじゃくった。


 ユーリアを戦場に返したくない切望に、その身を引き裂かれながら。


(――英雄も、名誉の戦死も、この世には存在しないのだ。

それを知って、解っていながらユーリアは――!)


 戦場へ発つ兄を嬉々として見送った過去の自分が愚かしくも妄信的だったことを思い知り、ハンクは罪深い気持ちと共に己の無知さを羞恥していた。


 悲しみに崩れ落ちて制御できない呼吸の乱れに抗うハンクが眼下を見下ろすと、港では朝日に照らされた連絡船が青い海へと離岸し始め、ユーリアを見送ったリタは遠ざかっていく船を波打ち際で見つめているようだった。


海風になぶられる長い前髪を手でかきあげたリタが大きく息を吸い、遠ざかる船に向かって声を限りに叫んでいる。


その言葉は風に乗って、ハンクの鼓膜をかすかに揺らした。


「……ユー……リア! 

あたし……、あな……には……もう…………二度と会いたくな……いの……よ! 

解るでしょ……? 

病院なんかで……は、もう二……度と会わないわ…………!」


 最後まで伝えることのできなかった気持ちを、聞こえるはずもないユーリアに向かって伝えたリタは、連絡船を見つめながら両手で顔を覆い背中を震わせて泣いていた。






【ベアスキン帽】

 イギリスのバッキンガム宮殿やロンドン塔などにいる、赤い服の兵隊さんがかぶっているアレです。黒くて背の高いあの帽子は、黒熊の毛皮でできています。多分、冬はあったかいのではないでしょうか。


 ちなみに、上記の彼らは微動だにしないことが勤務の一つです。笑うことも許されていないとか。なので遭遇した際に、変な顔とかおかしな動きなんかを披露して、彼らを笑わせてやろうなどという無粋な考えをおこさないようにしましょう。


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