3話 失望と絶望
ハンクは切望していたような『豪傑で痛快な、英雄の武勇伝』がユーリアの口から語られなかったことに、高めていた興奮を強く挫かれていた。
しんと静まり返る重々しい空気を振り払うように、ハンクは気を取り直して別の質問を投げ掛ける。
「じゃあ! 一騎打ちは見たことある?
聞いたことくらいはあるでしょう?」
ハンクの問い掛けに『騎士道への憧れ』を感じ取ったユーリアは、女の子にしては珍しい対象だと思いながら、今や幻想に近いその光景を現実に当てはめてから笑みを浮かべた。
「いや、残念だが聞いた事もない。
今の戦争で名乗りなんて上げていたら絶好の標的でしかないだろうし、次の瞬間には蜂の巣なってしまう。
銃のなかった騎士の時代とは戦争の様式も変わっているからね」
「えぇーーー!」
ハンクはがっかりした顔で残念がると、色濃い落胆で肩を落とした。
そしてベッドから垂らした足をぶらつかせながら、拗ねたような顔で呟く。
「……そんなの嘘だい、
ユーリアは誇り高き英雄に会ったことがないだけだよ。
本物の英雄は、いつ何時も礼節があって義を重んじ、
計算高くて情が深いんだ、
一騎打ちだってやってるはずだよ。
それに英雄は前線じゃなくて、
軍の後方にいるからユーリアが会えなかっただけだもん!」
ぷうと頬を膨らませたハンクの負け惜しみに、ユーリアは優しげな微笑を湛えると楽しそうに言った。
「君は女の子なのによっぽど騎士が好きらしい。
本当に変わっているね、サマンサ。
お兄さんがいるからかな」
その言葉にびくりと飛び上がったハンクは、無難な笑顔を見せながらリタの様子を横目見る。
斜め前に座るリタはハンクに背中を向けたまま、ユーリアの笑顔だけを見つめていた。
ほっと胸をなで下ろしてユーリアへと視線を戻したハンクの心に、ふと懐かしい思いが湧き上がって来た。
それは、素顔で笑うユーリアが時折見せる表情の中に、なぜかドルスを思わせる要素があったからである。
どこも似てはいないと解りながらも、目前に兄がいるような感覚に包まれたハンクは、『捕虜のロシア兵』という前提などすっかり忘れ、ユーリアに向かって屈託のない笑顔を咲かせていた。
笑顔しあう二人が随分と興味の持てない話題で打ち解けあう事態に、リタはつまらなそうに呆れて見せると、嫉妬の漂う口調で二人の間に割って入った。
「もう。
戦争の話なんて止してよ二人とも。
そんな話は気が滅入るからいやだわ。
……話すなら、もっと幸せな話をしましょうよ。
輝かしい未来を想像できるような話がいいわ。
ねぇ?」
同意を求める笑顔をユーリアに向けたリタが、綿球やピンセットの乗った膿盆を傍らに置き、新しい包帯を手に取って立ち上がる。
はおっていた病人服を脱ぐユーリアの足先でベッドから飛び降りたハンクは、いたずらっぽく鼻を鳴らしてリタの背中に言い放った。
「さっきの話で気なんか全然滅入ってないくせに。
どうせ話をしているユーリアばっかり見て、
私の言葉なんか全然聞いてなかったでしょう?」
見事に図星であったリタが、顔を真っ赤にして振り返る。
「サっ……、サァアアアーーームッ!」
リタの怒声をかわして白いついたてを飛び出したハンクは、茶化した笑い声を残し、廊下へと一目散に逃げていった。
軽やかに遠ざかるブーツの足音を擁護するかのように、病室のドアがゆっくりと閉まっていく。
ついたてから半身を出したリタは、それを最後まで見届けながらさも憎らしそうに口をもごつかせた。
だがすぐに気を取りなおし、模範的な看護婦像も被りなおした彼女は、さっさとついたての中へ戻っていく。
何気なく顔を上げたリタは、ベッド上で窓を見つめるユーリアの姿に息を止めた。
冬の陽光に照らされたユーリアは、窓ガラスに映った自分の治療痕を見て、それぞれの傷に愛国心の翳る苦しげな視線を落としていた。
引きつる傷口をそっと指先でなぞったユーリアが、自分の手術をしたイギリス人医師が、術中に見せていた困惑の表情を思いおこして溜め息をする。
その思いつめた吐息に全てを理解したリタは、近い未来に訪れるであろう愁いごとに体を強張らせ、緊張した笑顔で話しかけた。
「ユーリア、そんな顔して……。
自分は敵なのに――って思っているのね?
それは、いけないことよ」
傍らに歩み寄り、ベッドの上で転がっていた包帯を手にしたリタは、いつもと変わらぬ所作でユーリアの顔へと包帯を巻きあげていく。
彼女の看護に身を任せて目を伏せたユーリアが、僅かに聞こえる包帯の摩擦音のなか、空しげに呟いた。
「……すまない。
でも考えてしまうんだ、
僕を手術した医師は、僕が助かるなんて絶対に――」
ユーリアの顔に包帯を巻いていた手がぴたりと止まり、リタの大きな二重瞼の中にあるヘーゼル色の瞳が『患者』を諭すように覗き込んで来る。
「ユーリア?
それ以上言うなら、婦長に言いつけますよ?」
昨夜、見回りに来たフローレンスにこの心中を透かし見られ、厳格なる母のようにとくとくと怒られていたユーリアは、話してもいない昨日の状況がなぜリタの口から語られたのかと思い唖然としてしまった。
目の前で満足気に笑顔を見せるリタをしばし見つめたのち、フローレンスが普段からあの気質で、臆するところの全くない異端な人間なのだと合点がいったユーリアは、思わず吹き出してしまっていた。
「やっぱり!
もう怒られていると思ったわ!」
リタもそう言って笑い声をあげる。
涙が滲むほどに笑った二人は、爽快な疲労感に乱れる息をやっとのことで整えた。
楽しそうに息を吐いたリタが、笑顔の残るユーリアを見つめて、戯れ言でも付け足すように言葉を連ねた。
「ねぇユーリア、完治までいてね。
それがだめなら、戻る先はせめて戦場以外がいいわ」
ほんの一瞬笑みの止まったユーリアは、ゆっくり柔らく微笑み直すと、リタの瞳を真っ直ぐ見据えた。
彼女を見つめる蒼い瞳の奥には、リタの思いを受けても尚、戦場に戻る意志が冷徹なほどに光っていた。
それは、敵国の人間に情を移して湧き始めた『戦争は無意味である』という正しい感情さえも、容赦なく凌駕してしまっていた。
軍人としてのユーリアを垣間見たリタは、突風に駆逐される浮雲のような切なさを覚えて僅かに眉を寄せる。
そしてその後は、黙って彼の体に包帯を当てることしかできなかった。
【電信による軍事報道】
民間の従軍記者によって、戦争のニュースが初めて報道されたのがクリミア戦争です。イギリスのタイムズ誌は戦争状況を取材し、当時発明されていた電信技術を使って、翌日の新聞に書いたばかりの原稿を載せていたそうです。そのため、クリミア戦争は非常に多くの国民から注目を集めました。
戦争を扱った新聞は売り上げが十数倍に跳ね上がるという状況で、各新聞の記者たちはスクープを狙うようになりました。しかしこの行動は、イギリス軍の重要な作戦や機密情報を漏洩させてしまい、そのため敵国はイギリスの新聞を読むだけで正確な攻撃ができるようになってしまったのです。
すぐさま取材に規制がかけられ、政府よる新聞の検閲が始まったことは、いうまでもありません。




