2話 戦場と兵士
ユーリアは少しの間、ハンクを通り越すように白いついたてを見つめ、答えるべき状況を思い出してから小さく首を振った。
そして意識をハンクに移すと、思いつめたような声色で話し始めた。
「……そんな、かっこいいものではないよ、もっと無様だった」
ユーリアは小さく息を吐き、視線を落として言葉を続ける。
「……クリミアで敵方連合軍との大きな衝突があった十一月の五日、
一個小隊となってしまった僕たち歩兵隊は、
仕方なしにチェルナヤ川近くの雑木林に潜むことにした。
小康状態が続いて二十日間が過ぎた真夜中、
僕と何人かの仲間が上官に呼ばれて
セヴァストポリを囲むイギリス軍の包囲線を視察して来いと命じられた。
仲間が指揮をとり、僕たちは問題なく包囲線へと到着できた。
作戦は、うまく遂行できていたんだ、だが――」
ユーリアはそこまで話すと息を吐き、こちらを食い入るように見つめているハンクの顔を、後悔の漂う蒼い眼で見上げた。
「……僕は、油断していたんだ。
避けるべき水溜りを踏んでしまって……」
徐々に刻まれていく眉間の皺は、ユーリアの強い自責をハンクの心にも感じさせた。
しかしハンクはその感情をあえて排他し、会話の進行を強く望んでいた。
なぜならハンクが胸を高鳴らせて期待するものは、話の先で待っている『戦士の武勇伝』ただそれだけだったからである。
ハンクを支配する高揚感は、ユーリアの視線に見え隠れする真意をも見えなくさせていた。
「仲間が振り返るよりも早く、僕たちは何十発という銃弾の雨を受けたんだ……」
◇
――誰だっ!
――ロシア兵だぞ! 撃て!
イギリス兵の言葉が聞こえるやいなや、辺りは連続した銃声で引き裂かれていた。
クリミアの闇を月が青白く照らすなか、ロシアの視察隊は敵国イギリスからの銃撃をやり過ごそうと、近くの草むらに身を伏せる。
しかしセヴァストポリを死守しようとするイギリス兵の手は一向に緩まず、地に被弾する音は次第に近くなっていった。
視察隊の前列にいた中年のロシア兵が、あまりの抗戦ぶりに危険を感じ、後続兵へと無念の命令を指示する。
「作戦失敗! 退却! 退却せよっ!」
視察隊が後退しようとした瞬間、
命令を下したロシア兵の頭が赤い飛沫を散らして撃ち飛ばされた。
顔面を砕かれた衝撃で浮き上がったロシア兵の体は、重力に従いながら意思のない物体として不気味な動きで崩れ落ち、草むらに転がり落ちた。
視察隊の目の前で横たわった彼は、肉と骨がごちゃ混ぜになった顔面からどす黒い血を滝のように流していた。
恐怖の光景におののいた視察隊は慌てふためき、まるで蜘蛛の子を散らすように八方へと逃げ出した。
視察隊の後列にいたユーリアも、残忍な仲間の死を前に恐慌状態となって逃走する。
追っ手の銃声と自分の肺から押し出される荒い息に包まれながら草の中を駆けていたユーリアの肩と腹に、突然の衝撃と焼けるような痛みが襲い掛かって来た。
体を押さえて呻きを殺したユーリアは、目の前に現れた急斜面に足を滑らせ、数メートルはあろうかというぬかるみを転がり落ちた。
体中を激しく打ったユーリアが、正常な呼吸を奪われて身悶える。
しばらくしてようやく空気を吸い込み、熱く脈打つ頬に顔をしかめて視線を這わせると、彼の周りには異様な光景が広がっていた。
彼の下にあるのは地面ではなく、数十、数百という死体の山だったのである。
「――!!」
目前の悪夢に息を飲み、ユーリアは泥だらけの体を反射的に跳ね上げた。
上ろうとした崖の上からは、無情にも追っ手のイギリス兵が近付いて来る。
追い詰められたユーリアは、咄嗟に軍服の上着を脱ぎ捨てて斜面の隙間に押し込むと、その恐るべき山の中に頭から潜り込んでいった。
追っ手が通り過ぎるのを震えながら待つうち、自分が身を潜めた死体の山はイギリス軍の傷病兵たちであり、すぐそばで聞こえる水音がチェルナヤ川と海が混ざり合うさざ波だということも理解できた。
ユーリアを見失った追っ手はしばらく周囲をうろついていたが、空が白んで来た頃には身を切り刻む寒風に負け、ゆっくりとした足取りで引き上げていった。
身の安全を確認したユーリアが、潜んでいた死体の中から這い出て来る。
ウジの湧く温かい死体から離れた肌寒さに震えた彼は、捨てられていたイギリス軍服を着ると、赤く染まった頬を拭いながらふらふらと歩き始めた。
辺りに満ちるハエの羽音と腐敗臭に顔をしかめたユーリアを、再び突き刺すような激痛が走った。
呻いた彼は糸が切れたように失神し、その先で折り重なっていたイギリス兵の群れをめがけて斜面を転がり落ちていった。
幸か不幸か、彼の落ちた先は各地から集められたイギリス傷病兵たちがセヴァストポリへの輸送を待機する広場であった。
意識のないユーリアはフランス軍の手によりイギリス軍人として運び出され、数百人という傷病兵と共にスクタリに向けて搬送されたのだった。
◇
「……そしてそのまま、ここへ運ばれて来た。
……これが兵士としての、僕の惨めな功績だよ」
大きな溜め息を吐きながら背筋を伸ばしたユーリアは、窓の外に向けていた視線をハンクに戻して自嘲気味に笑って見せる。
ハンクは食い入る表情のまま、困惑の灯った瞳でユーリアを見つめていた。
【正面衝突した弾丸】
クリミア戦争中に、ロシア軍とフランス軍の銃弾が正面衝突して融合した弾丸があるんです。嘘のような本当の話ですが、ちゃんと写真が残っているのです。




