10話 愛の逆鱗
いつの間に病室に入って来ていたのか、ついたてから飛び出したハンクは、はしゃぎながらベッドのフットフレームにしがみつき、すっかりその場に陣取っていた。
せっかく訪れた甘い雰囲気を土足で踏み散らされたリタは、ハンクをぎらりと振り返る。
しかし嬉々とするハンクは滑るように怒気をかわし、ユーリアに向かって話しかけた。
「ねぇねぇ、ユーリア! ユーリアはどうしてそんなに英語が上手なの?」
「……父が貿易をしていた。その手伝いでね」
舌の上で音を転がす独特のロシア訛りが僅かに残るものの、ユーリアの話し方は片田舎の方言に比べれば断然に聞き取りやすかった。
「へぇ、だから話せるの!」
「ほんの少しさ」
妙に仲の良い調子で会話を弾ませる二人に、リタはそっと立ち上がって当たり障りのない笑顔を作ると、心に怒りを潜ませてハンクに訊ねる。
「嫌だわサマンサちゃん、
他の患者さんのお世話は……?」
燃えるような怒気をうねらせながら「出ていけ」と威嚇して来るリタを、ハンクはちらりと一瞥し、しれっとした口調で答えた。
「終わったよ、午前中の仕事は全部ね。
リタがするはずだったここの患者さんたちの分も」
ハンクのしたり顔に、ぐっと言葉を飲んだリタが現在の時間を悟る。
午前中の看護を終えて、次の仕事である昼食配膳までに許されている数分の小休止、今は間違いなくその時間帯であった。
得意げな笑顔を見せたハンクがベッドの脇に移動して、横たわるユーリアの足の隣に腰を下ろすと、包帯だらけの顔に向かって前のめりに話し出す。
「いいよね?
私だってユーリアと話しがしたいんだもん!
ユーリアはこの病院で一番元気だから、
毎日元気になっていくのを見るだけで嬉しいんだ!
ねぇユーリア! きょうの具合はどう?」
二人の看護婦が繰り出す喜劇の掛け合いめいた会話を微笑んで見ていたユーリアが、ハンクの問い掛けに愉快そうな表情で答えた。
「君たちのおかげで快調だ、ありがとう」
ハンクは名目上捕虜としたユーリアからもっと色々な事柄を聞き出そうと、今まで以上に意気込んで鼻息を全開にする。
前へ前へと身を乗り出して更なる質問を繰り出そうとしたハンクの後ろ襟を、無難な笑顔のリタがぐいと引き上げた。
「あらいけない、私たちったらつい長居をしてしまって。
おほほほほ」
そのまま無理やりハンクを立ち上がらせた後、空いた片手で器用にもついたてを戻したリタが、ハンクの手にユーリア消毒セットを押し付けると、お上品な笑い声を振りまきながらワゴンを押して、ハンクを引きずるように強制退去させていった。
◇
後ろ襟を引っ張ったまま、ずんずんと廊下を突き進んでいたリタが突然に立ち止まり、彼の手から消毒セットを取り上げると、その体を床目がけてぞんざいに放り投げた。
またも顔から床に落ちたハンクは、上半身を起こしながらリタを振り返って叫んだ。
「痛ったいな! 何するの、リタ!」
手に持った消毒セットをワゴンに載せ、足音も高らかに歩み寄って来たリタが、ハンクの黒い制服の胸ぐらを両手で掴み力強く持ち上げる。
勢い良く引き上げられたハンクの目の前には、リタの無念極まりない顔が突き合わされ、その顔は容赦なく彼をまくしたててきた。
「サァムゥゥゥ!
何であんたは邪魔ばっかりするのよ!
せっかくあたしが丁寧に、優しく、ユーリアの頑なな男心を数日かけて解きほぐしたって時に!
さっきユーリアが呟いた
『僕が言ったんだ、君に感謝を伝えたくて』
は明らかに愛が生まれる瞬間だったじゃない!
それをあんたがぶち壊してーーー!
もぉぉぉぉーーーー! バカバカバカバカッ!」
ハンクから手を放したリタは、まるで子供がする喧嘩のように、両拳の小指側を憎き邪魔者の体に乱れ打つ。
肩やら腕やら背中やらを連打されたハンクは、その場で身をよじりながら逃げ回った。
「痛たた痛い痛い!!」
小柄なハンクの体を何十発も殴り続けて息の上がったリタが、肩を上下させながらも人差し指を突き出し、ハンクの目の前に指し示す。
「今度あんな真似したら中庭に穴掘って首から下全部埋めてやるからね!
絶対に埋めてやるわよっ!
わかったわね!?」
ふんと気の強い鼻息を残し、ワゴンすらも残して身を翻したリタは、怒りの足音を響かせながらすぐ先の階段を下りていった。
一歩一歩下がっていくリタの後ろ姿に、悲観顔のハンクがすがるように意見する。
「ひどい! あんまりだよ!
私だって話したいのにーーー!」
「あたしのいない時にしなっ!」
リタは階段を下りながら、振り向きもせずに言い捨てた。




