8話 猪突する欲望
ハンクが病室で一人妄想を繰り広げていた頃、リタはというとハンクの存在などすっかり忘れ、ユーリアの傷口がふやけそうなほど消毒をしていた。
ハンクが他の同室患者を全て世話している現実を気にも留めず、リタは可愛らしい瞬きを無闇に繰り返して長いまつ毛をアピールする。
そんな看護婦を、ユーリアは警戒心も露わに横目見ていた。
「さぁユーリアさん、頬の消毒が終わりましたわ。
次は肩と、腹部の縫い傷に移りましょう。
――あの……ごめんなさいね、私も女として気が進まないのだけれど、
……その……上着を脱いで頂かなくてはなりませんの。失礼しますわね」
リタがしおらしく病人服のボタンをゆっくりと外し、上がらない彼の肩を気づかいながら袖を脱がせていく。
脱いだ上着をベッドの端に置いたリタは、包帯越しでも見てとれるユーリアの逞しい体つきに、思わず小鼻を膨らませた。
努めて抑えてはいたものの隠しきれなくなった興奮で素早くなる手際が、まるで飢えた賊のように包帯をかすめ取っていく。
リタは巻き取った包帯をベッドの足元に置き、半裸となったユーリアのがっちりとした肉体を隅々まで眺めては、恍惚とした表情で頬を染め上げ乙女のように恥らった。
両手で頬を包み、目を逸らしながら撓をつくるリタが、声にもならない囁きを漏らす。
「理想的過ぎる体……!!
これをあたしだけが見られるなんて……、もぉぉぉう!
あたしったらこの幸せ者ぉーーーっ♪」
看護婦としての模範を保つために背を向けた形で身悶えるリタが、人生において新発見をした「うぶな自分」に酔う間、ユーリアは血の滲む右脇腹の整った縫い痕を右や左からじっくりと確かめていた。
前日に比べ随分と炎症の治まった傷の中心部には、銃創を縫い止めた数針の硬い糸が見てとれる。
ユーリアが赤く腫れの残る傷口近くをそっと指先で押してみると、強い痛みと共にしっかりとした感触がかえって来た。
昨日までの脈打つような痛みも消え、はらんだ熱も穏やかになり、高熱や寒気もほとんどなくなっていることからしても、体の傷が着実に回復していることが理解できた。
物憂げな視線を傷口から逸らしたユーリアが、思いつめたように虚空を見つめる。
身悶えを堪えて何とか自制心を取り戻したリタが颯爽と向き直るが、ユーリアの姿を見た途端に再び沸き上がった恋心と切なさから、厚い下唇を噛みしめる。
(ちょ……! 憂いた顔が色香ぷんぷん!
もうあたし、どうしよう!!)
心の芯を摘み上げられたような甘い軋みが、リタの全身を駆け巡る。
交換用の新しい包帯を握ったまま椅子に腰を下ろし、隠しようもなくうっとりとした瞳で愛しげにユーリアを見つめるリタ。
彼女が模範な看護婦像を脱ぎ捨て胸中の思いを綴り出そうと息を吸った時、
突如がたついたついたてから、空気を読まぬハンクが満面の笑みをひっさげ、私利私欲丸出しで突入して来た。
「ねぇっ、ユーリアさん!
戦場で弾が当たった時、どんな状態だったの?
どのくらい痛かった?
弾は避けきれずに当たったの?
その時敵は何人くらいいた?」
驚きで目をむくリタの隣に滑り込んだハンクは、期待でシーツをわし掴むと目を輝かせて言葉を続ける。
「まず敵が来たら名乗りをあげるんでしょ?
それで一番強い騎士同士が一騎打ちするんだよね!」
急な質問攻めに唖然としたユーリアを気にも留めず、ハンクはようやく訪れた好機を逃すまいとして邪魔な前髪をかき上げては矢継ぎ早に質問を羅列した。
そして落ち着きなく前のめりになり、興奮した表情で更なる質問をユーリアにぶつける。
「あ、やっぱり嫌な奴は汚い手を使ってでも勝とうとした?
そんな奴はどういうやり方で成敗するの?
剣? それとも銃? まさか拳とか!?」
その「嫌な奴」が概ねイギリス兵を指すことも忘れ、騎士道に憧れる少年は勇敢なる戦士を前にして、長く募らせた羨望を解放せずにはいられなかった。
興奮に突き動かされるハンクは次第にリタを椅子から押しのけ、ずいずいとユーリアに迫りながら、最後には自分が変わって椅子に腰を下ろしてしまった。
ついに兵士の武勇伝を垣間見られるという嬉しさから、隠そうともしない興奮で彼は鼻息を荒らげていた。
◇
勢い良く病室の扉が開き、いかにも軽そうな少女がぞんざいに投げ出された。
廊下に顔を着地させ、天を仰いだ哀れな尻に、リタの潜めた怒声が飛ぶ。
「何考えてんのよサム!
体力のない病人を質問攻めにするなんて頭どうかしてんじゃないっ!?
あたしのユーリアを弱らせたいのっ!」
声量は小声程度に抑えられているものの、リタの顔は恐ろしいほどの怒りに満ちていた。
ハンクはその形相に父を思い出しながらも、めげずに立ち上がる。
「ごめん! ほんとごめんなさい!
リタお願い! ユーリアさんの看護、私にも手伝わせて!」
リタの手を両手で握りしめ懇願すると、彼女は寒風吹きすさぶ表情で大きな目を据わらせた。
「はぁ? 何言ってんの。
また頭突きされたいっての? 今度は割るわよ?
あたしにようやく訪れた、至福の時を奪う気?」
無慈悲すぎる警告に強張ったハンクが、思わず両手で額を隠す。
リタは有名な物語の継母よろしく、これ見よがしに鼻を鳴らしてハンクにワゴンを滑らせた。
「ほぉら、ここはもういいから次は隣!」
かなりの速さで突進してくるワゴンを、ハンクが慌てて受け止める。
その強い衝撃に小さく悲鳴をあげた彼をじろりと睨んだリタが、仕事の続行をきつく促した後、ユーリアだけを気遣った丁寧さで音も立てずに扉を閉めた。
ハンクは人差し指を唇に寄せ寂しがる子犬のように鼻で鳴くと、リタの消えた扉を物欲しげに上目見る。
「ずるいんだー……、リタの意地悪ぅ……」
【目出し帽】
犯罪者御用達の目出し帽、この不思議な防寒着の発祥もクリミア戦争です。寒冷地パラグラヴァで少しでも寒さをしのげるようにと、イギリス兵士の母や妻たちがこぞって編み上げ出兵時に持たせたようです。
この目出し帽を被れば頭頂部から鎖骨程度までの範囲が毛糸で覆われるため、効果的に冷たい外気が防げます。(見た目は忍者のようですが)
当時随分と重宝していたため、目出し帽の名称が戦地である「パラグラヴァ」と呼ばれるようになりました。目元だけが正方形に開いたこの帽子は、現代でも軍隊やアウトドアなどで使用されています。




