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4話 幼い信念

 オーベルト郷紳の屋敷から彼の姉カミーラの屋敷へは、馬車で二時間少々かかる距離にあった。


通い慣れたその道をハンクが愛馬と共に西へ西へと駆け抜ける。


月明かりだけが頼りの夜道は彼の乗る馬体を溶かすほどに暗かった。


闇夜にはたいして困らないハンクであっても、部屋着のまま飛び出した迂闊さにはものの数分で後悔した。


昼間の微かな温もりすら完全に消失した風は、耳や鼻を引きちぎるほどに痛めつけてくる。


強靭な騎士を目指すハンクは根性だけでこの局面を乗り越え、歯の根も合わぬ体で伯母の屋敷へと辿り着いた。


 庭先に入ったところで伯母の屋敷からは下男が飛び出し、寒さで強張るハンクの代わりに馬の手綱を引いてくれた。


普段より急かされた愛馬は体中から汗を滴らせ、泡を噴いたまま呼吸を荒らげて白いもやを立ち上らせていた。


  ◇


 ラウンジで暖かく燃える暖炉のなか、くべられた薪が音を立てて弾ける。


 頭から毛布を巻きつけたハンクは背もたれのない籐細工の椅子に腰を掛け、やっとぬくもりを取り戻した両手で伯母が差し出すティーカップを受け取り、不満げな声をあげた。


「女が戦争行けるのに、男の俺が行っちゃいけないなんて、そんなのおかしいよ!!」


 薄い背中を暖炉に向けて温めるハンクの目の前で、紺色のドレスをまとう伯母はその丸くて豊満な体を小さな給仕用ワゴンに向かわせていた。


自分用のミルクティーを淹れ終えてソーサーの上にカップを乗せた伯母が、柔らかくて頼りがいのある話し方でハンクに言った。


「そういえば、私のところにも来てたわその手紙」


 ティーセットと軽食が乗る小さなワゴンをハンクのもとへと残したまま、ソーサーを手にしたカミーラは近くのソファーへと腰を下ろす。


上品にミルクティーを飲む彼女の、うなじからしっかりとアップされたブラウンのポンパドールが、燭台で揺らぐ蝋燭によって髪の表面に細い光の輪を作っていた。


 ハンクは熱いミルクの入ったティーカップを両手で包み、温かさを掌へと移した後、その手を交互に両頬へと当てる。


「女が俺よりも戦地に近いとこにいるなんて、ずるいよ! 

俺は子供だけど、女よりは男なんだよ!?」


 そう子供っぽく愚痴をこぼす甥を温かい視線で容認していた伯母が、ワゴンを指してハンクを促した。


「はいはい。

ほら、早くお食べなさい。

お夕食を食べてないのでしょう? 

もう少しすれば伯母さん自慢のハニービスケットが焼けるからね」


 怒りを伝える欲求よりも迫り来る食欲のほうに負けたハンクは、傍らのワゴンに手を伸ばし、幾つかある皿の上から一口サイズのサンドウィッチを手にして食べ始めた。


 春の日差しのようにそれを見つめていた伯母が、メイドに持ってこさせた『支援願い』の手紙を受け取り、首に下げていた小さな眼鏡を掛けてその内容へと視線を落とす。


 熱いミルクを飲み干したハンクが、温まった体で幸せそうな一息を吐いた。


 真ん丸い顔を手紙から上げた伯母は、ジャムとクロテッドクリームをスコーンに塗りたくっている甥の姿に目尻を下げる。


「……まったく。世の男は少し女を馬鹿にしすぎね。

私が思うに、女はもっと社会進出していいはずよ。

決して多くはないけれど、賢い女性はちゃんといるんだから」


 口いっぱいにスコーンを頬張ったハンクが、一端の論者のような大人びた口調で伯母に言った。


「女性が社会進出してよいのであれば、我々子供も同じように社会進出してよいはずだっ! 

いつでも女と子供はいっしょくたにされてきたのだからな」


 椅子の下で足首を組み足の裏を暖炉の炎に向けているハンクは、気強い口ぶりのわりに子供らしく、アップルパイのフィリングをそっちのけにして一番上のパイ部分だけを剥がして食べている。


伯母は掛けていた眼鏡を外し、ソファーの肘掛に片肘を預けてから誇らしそうに言った。


「それでも、大人と子供は相反するものでしょう? 

フローレンス・ナイチンゲールというレディは、先々週、ロンドンの港から戦地のスクタリへと公務で看護婦団を率いて行った女性よ? 

かのシドニー・ハーバート大臣から直接に頼まれるなんて凄いわよねぇ。

戦地での現状が新聞に書かれてから、たったの八日間でクリミア派遣看護婦団を結成して出発できるなんて素晴らしい手腕じゃない! 

国民の願いを背負って出航した彼女は、今や『イギリス国民の英雄』と称賛されてるのよ。

私は同じ女として鼻が高いわ」


「はぁ? 何言ってんだよカミーラ伯母さん、その人が連れてったのって看護婦だよ? 看護婦!」


 ハンクの脳裏にオーベルト家の主治医から聞かされた言葉が思い出される。


  ◇


 六十歳を超えている主治医はハンクの怪我の手当てを終えた後、言い含めるようにして喋りだした。


「よいですかハンク様、外出時どんなに具合が悪くなりましても町の病院に入ってはなりません。

町の病院は生活に苦しむ貧しい者が行き着くところです。

秩序も無く不衛生な病院では看護者の品性が欠けているため、少しの金を欲するあまり神に背く大罪を犯してしまいます。

そうでない者もいるのでしょうが、大方は酒におぼれたならず者なのですから……」


それを聞いた頃、病院から出て来た看護婦を町の男たちが「最低な売春婦!」と罵っている光景を目撃し、ハンクはその時一緒にいた友人たちから


「看護婦は生活苦の卑しい未亡人ばかり」

「品行の悪い女たちの集団」

「たいした働きもせず今にも死にそうな病人から金品をまきあげる」


と聞かされていたのだった。

 

  ◇


 甥の反応から世間一般が持つ看護婦像を彼もまた持っているのだと見て取った伯母は、その愛らしい頬を盛り上げて笑顔を見せる。


そして、ハンクの反感めいた感情の腰を折るほどの大仰な声をかけた。


「あ! だめよぉ~、ハンク! 

ハンクの顔にはおしとやかな表情が似合うの、そんな険悪な顔しちゃもったいないわ。

……まったくハンクが女に生まれていたらねぇ、どんなにチヤホヤされて周りをメロメロにしていたかわからないのに。

しかも十二歳でだって看護婦になれば戦争に行けるのよ? 

つくづく残念ねぇ~?」


 大袈裟な素振りで溜め息を吐いて見せた伯母にハンクは呆れ果て、拗ねたような顔を見せる。


「母さんみたいなこと言わないでよ、カミーラ伯母さん。

俺は戦場で悪い敵をたくさん倒す兵士になりたいんだ! 

看護婦なんかじゃなくて、現代の騎士である勇敢な兵士になりたいの! 

……ああもう、いやだ! 

俺は女に、それも看護婦なんかに先を越されてる!」


 駄々をこねるハンクのもとに楚々として現れたメイドが、皿の乗った銀のトレイを彼の前にあるワゴンへとそっと置いた。


メイドが温かいミルクのお代わりを注ぐよりも前に、ハンクは皿に並べられた伯母特製のハニービスケットを口いっぱいに頬張ってカリカリと小気味よい音を立てていた。


甘く香ばしい伯母手作りの味を堪能しているハンクを一瞥し、伯母がさっぱりとした口調で事実を告げる。


「ま、こればっかりはいくら伯母さんでも意見できないわね。

あなたのお父さんが相手ではないもの。

イギリス国家の取り決めた志願兵の年齢制限を引き下げる事なんて、カミーラ伯母さんには無理よ」


 普段ならこれで引き下がれたであろうハンクだったが、今日はどうしてもそうはできなかった。


ハンクは温かいミルクを一気に飲み干すと、どんとワゴンを叩き、被っていた毛布を引きはらいながら乱暴に立ち上がる。


「もう決めたっ! 俺は勝手に戦争に行く! 

父さんの許しも母さんの許しもいらない! 

だから伯母さん――」


「駄目よ、それは駄目。許しだけは貰いなさい」


 あっさりと甥の決意をいなした伯母が、手にしていた手紙に再び視線を落とす。


義援金の金額を思案しながら顔を上げた彼女の瞳が、立ち上がったままでうなだれるハンクの姿を見るともなく見つめる。


 ハンクが見せる悲愴な表情に、伯母は突然片眉をひょいと上げて見定めるような素振りを見せ、失意漂うハンクの姿を隅から隅までねめ回した。


そして、悪戯を始める時のような声色を、ハンクに向けて囁き放つ。


「……ねぇハンク、そんなに戦場へ行きたいのなら……、

行けそうな方法がたった一つだけあるわよ?」


「えっ! ……それ本当なの? カミーラ伯母さん!」


 不意打ちの朗報に驚いたハンクが瞳を輝かせて駆け寄り、まるで神々しいものを拝むかのように両膝をついて伯母の顔を見上げた。


 伯母は自分の顎に悪戯っぽく人差し指を当てると、愛する甥に含みのある視線を流す。


「ちょっと変装しないと駄目なのだけれど……、

どう? この作戦、乗っちゃう?」


 ハンクが身を乗り出して拳を握り、決意のこもった表情で伯母を見つめて言った。


「うん俺、乗る! 戦場に行けるんなら、どんな作戦でも乗るよっ!!」





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