7話 どん底を照らす、一閃の邪ま
事の重大さにおののきながら、重心の定まらぬ足取りでついたての外に出たハンクは、混乱する頭を垂れて入り口近くのワゴンへと手をついた。
卒倒を誘う目眩に苦悩の表情を見せると、その幼い顔を両手で覆って悲観する。
(俺は何てことをしでかしたのだ!
あいつは憎きロシア兵じゃないか!
どうしよう、どうしよう、今すぐにでも放り出さなきゃ!)
困惑を体現する取りとめのない動きでワゴンの周囲をうろつき、殺風景な病室内に無意味なブーツ音を敷き詰めていく。
(……でもいまさら放り出すなんて、婦長の手前できないし……。
けれど、あいつを助けたら、絶対に大英帝国の陸軍兵を殺しに……。
やっぱりあいつを助けるなんてだめだ!
我が大英帝国軍に不利益なことなど、絶対にしてはならないのだ!)
決意のこもった眼球をキッと上げたハンクは、己の頭上に戦士としての精神をかざすと、決心も新たに両の拳を力強く握った。
そして邪まな視線をちらりと落とし、敵が潜むついたての奥を想像する。
(いっそのこと……今ここで、俺がとどめを……)
恐ろしい感情の赴くままに周囲を見回したハンクの目に、一本のモップが留まった。
ワゴンに立て掛けられていたモップを掴み、ヘッド部分を上にして構えたハンクは、足音を殺しながら白いついたてに忍び寄る。
高鳴る鼓動と掌に感じる汗が、ハンクの緊張を物語っていた。
(ついたてを蹴り倒して、飛び込んで、ロシア兵の足に一撃。
痛みにひるんだ頭に、最後の一撃!)
彼の脳内では奇襲攻撃の段取りが、野戦兵士よろしく計画されていた。
呼吸を整え、飛び込むための助走距離をとり、敵の様子に目を凝らすハンクは、全身の感覚を研ぎ澄ませて突撃の機会をうかがっていた。
「何してるの? サム? モップ逆さまに持ったりなんかして」
その声に跳び退いたハンクが、いつの間にか真横に立っていたリタに狼狽して、絡まる舌で返答する。
「ななな何で? 何でもないよ! 掃除、掃除しようと!」
誤魔化しの鼻歌を歌いながらモップを掛け始めるハンクにリタは「ふうん」と興味もなく鼻を鳴らすと、リネンの積まれたワゴンからトレイを取り出して消毒液の入った細口共栓瓶と鉄製の膿盆を乗せる。
こなれた手つきでピンセットと幾つかの綿球を手にした彼女は、ハンクの狼狽をよそにさっさとついたての中へと帰っていった。
リタの不意打ちに敵兵討伐の意をそがれたハンクは、機が熟すのを待ちながら、今しばらく自身の仕事を進めることにした。
普段通りに患者の着替えを済ませ、おまる交換に差し掛かった時、彼の頭にふと一つの考えが去来した。
その考えに身を震わせたハンクは、洗いたてのおまるを握りしめたままアッシュグレーの瞳を急激に輝かせた。
(あいつが兄さんじゃなかったってことは――、
兄さんは今も無事戦場にいるってことじゃないか!
そうだよ、兄さんが敵にやられるわけがないじゃないか!
だって兄さんは英雄なんだぞ!
きっと今ごろ戦場でかっこよく敵を倒して……)
ハンクの脳内では、黒いベアスキン帽を被り赤い詰襟のフロックと黒いトラウザーズを身にまとった歩兵連隊の兄が、銃剣の付いたマスケット銃を素早く構えて迫り来るロシア兵を次から次へと撃ち倒していく姿が想像された。
兄の着る赤いフロックに走る金色のボタンが威容を放ち、否応にもハンクの思考を陶酔させていく。
妄想の戦場で華麗に舞う兄ドルスの、硝煙で霞む鋭い眼光が海のように蒼く輝く。
敵兵を壊滅させた兄が撃ち終わったマスケット銃から頬を離し、その力強い輪郭とチャコール色のもみあげを――
(!?)
はっと妄想が解け、ハンクの意識は無機質な病室内へと戻って来ていた。
妄想内の英雄ドルスが、なぜ敵国兵ユーリアへと変化し同調してしまったのか。
ハンクはどんよりと漂う動揺を噛みしめながら、その事実に言いえぬ戸惑いを感じていた。
彼がうろたえる視線を病室内にさまよわせていると、痩せた体をベッドに横たえたイギリス兵士の姿に行き着いた。
いくらハンクが英雄に飢えているとはいえ、弱りきった彼らからその存在を感じることなどは皆無に等しかった。
ハンクにとって彼らの英雄的価値は、夜空に散りばめられた星のごとく微弱なものであり、反対にユーリアという敵兵は、力強い生命力と燃え滾る躍動を、太陽のように放射しているのだった。
混乱した表情で頭を振ったハンクは、敵兵の英雄ぶりを肯定してしまった自分の思考に、後ろめたさを感じながらもその魅力に抗えないでいた。
(しっかりしろハンク!
敵兵なんかを英雄と崇めてどうすると言うのだ!
なだめすかして何か聞き出すとでも?)
嘲るように自身を叱咤していたハンクが、その言葉にはっと顔を上げる。
「…………そうだよ。もしかして、『戦場』のことが聞けるかも!」
積年の願いから興奮気味についたてを振り返ったハンクだったが、すぐさま振り戻って冷静に考え直した。
しかし英雄に戦場の様子を訊ね、その教えを糧にして強い兵士になりたいという焦慮と衝動は、どうして抑えることができようかというほど強くなっていた。
スクタリの地にやって来てから五週間、兵舎病院に運ばれてくる傷病兵とは今日の今日まで戦況はおろか自由に会話も交わせなかったのだから、当然といえば当然な心境である。
ひたすらに苦悶するハンクの脳裏に突然、神の救いともとれる一線の閃光が差し込み、悩める彼の心に解決の芽をほころばせる。
(そうだよ!
敵兵なんて、利用し尽くしてやるものじゃないか!
俺があの敵兵から戦況を聞きだし、我が大英帝国軍に有益な情報を得るのだ!
こ、……これは利用だ! そう、あいつは捕虜なのだからなっ!)
と、誰に論ずるでもない大義名分を心中で叫んだハンクが、嬉々としておまる交換を再開する。
その論理を見つけた喜びは、自身の信じる英雄と戦況について会話できる期待に心を膨らませるだけでなく
「実際にユーリアを襲撃すれば大差で失敗に終わる確信と、
争い合う物音でロシア人収容の事実が誰かに露見する予感と、
そしてそれを知った婦長の怒りと、
リタの計り知れない激怒」
という困難を前にして、今まで一途であった「イギリスへの愛国心」を回れ右させた羞恥を隠して余りあるほどの高揚感であった。
【戦場の記録写真】
初めて戦場を撮影したのは、クリミア戦争だそうです。しかしその写真はあまりに衝撃的で、悲惨でした。
戦場を写した写真には、沢山の戦死者が野原に倒れている、まさに「戦闘が終わったばかり」と言うような写真。それは母国で「正義なる戦争」を妄信的に掲げて興奮する人間たちに、痛々しく辛い現実を叩き付けました。
人々はそれを見るまで、意図的に華々しく描かれた過剰な油絵でしか「戦争」というものを知ることができなかったのです。夢のような輝かしい戦争。その幻想が打ち破られたのが、たった150年前でしかないなんて、なんだか悲しいものです。




