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5話 リタの恋

 ロシア兵の名はユーリアと言った。


痛みに耐えることで体力を消耗してしまった彼は、縫った銃創の消毒を受けながらベッドに身を横たえていた。


いつの間にか寝息を立て始めたユーリアに、消毒を終えたフローレンスがそっと微笑みを浮かべる。


 医師の去った病室の扉が静かに開き、新しい包帯や着替えなどを小脇に抱えたリタが、奥のついたてに向かって声をかけた。


「婦長、いらっしゃいますか? 

言われた物を持ってきました」


 フローレンスはベッド脇の椅子から立ち上がると、ついたての外に顔を出してリタを手招く。


「御苦労様。

リタ、こちらに運んで」


 リタが声を潜めるフローレンスに頷き、ためらいながらも病室に足を踏み入れる。


来るたびに必ず誰かが死体に変わっているこの病室を、リタは特に嫌っていた。


なるべくフローレンスだけを見つめながら、病室内を奥へと進む。


ついたての中に入り、フローレンスが示したベッドの端に抱えたものをそっと下ろしたリタは、差し出してくるフローレンスの右手に持って来たばかりの新しい包帯を乗せて言った。


「あの……サムから婦長に伝言です。

『兄を助けてくれて、ありがとうございました』って。

けど婦長、サムのお兄さんって何のことですか……?」


 混迷した顔で訊ねて来るリタにフローレンスは小さく笑い、リタが努めて見ようとしないユーリアを指す。


リタが恐る恐る枕元に目を伸ばすと、そこには暮れてきた日に照らされる、若々しいロシア人青年の姿があった。


疫病に苦しむ他の患者とは違う、干からびのないぴんと張った素肌にリタの目が釘付けとなる。


彼の角張った目鼻立ちは陽光の陰影を美しく落とし、チャコール色のもみ上げから延びた顎は男らしく逞しかった。


緩やかに閉じられた平たい唇は、誘うような知性さえ漂わせている。


思わずリタは息を飲み、頬を染めていた。


 フローレンスがユーリアを見たままで囁く。


「サマンサは実兄を思うあまり、彼を兄だと思い込んだのよ。

彼とサマンサの兄が似ているかどうかは判りませんが、

彼とサマンサ自身はまったく似ていません。

どう思います? リタ」


 そう言ってリタに目をやったフローレンスは、ユーリアに見入ったまま呆けている彼女に気づき、少々の驚きとともに柔らかく眉を上げた。


そして、娘が青年に恋をした瞬間を傍目に見ながら、何事もないかのようにベッド脇の椅子に腰を掛ける。


「御覧なさい彼の頬。

傷は縫うほど深くはなかったけど、炎症がひどくて化膿もしている。

現状で出せる分の膿は全て取り除いたので、これ以上化膿が広がる事はないでしょう。

事情が事情なだけに、巻く包帯は多めにして顔全体を隠す事にします。

そうすれば入院中、誰も彼の顔を判断できませんからね」


 返事のないリタにそう言いながら、フローレンスはユーリアの体を起こして器用にも一人で包帯を巻き始める。


その後計画通りに顔の包帯を巻きつけ、作業を終えて小さく息を吐いたフローレンスが、未だにユーリアばかりを見つめて上気するリタの肩を叩き、ひっそりと囁いた。


「彼に毎日必要な包帯交換と消毒は、あなたが請け負うこと。いいわね」


「あっ、あたしが!?」


 すっかりユーリアに見とれていたリタは飛び上がって驚き、背後のついたてをがたつかせるほどに狼狽した。


  ◇


 翌朝、重病患者で溢れかえる二階北回廊の隅には、病室の扉をそっと押し開けて細い隙間に顔をねじ込んでいるリタの姿があった。


うっとりと溜め息するリタの目には、部屋で眠る末期患者などは一切目に入らず、病室の奥でただ一人小さな窓を見つめているユーリアの横顔が、春色のもやと星の輝きに包まれた姿で映っていた。


「はあぁぁぁ~…………。

かっっっこいいぃ……」


 恍惚とした表情で呟くリタの遥か後ろから、交換用のリネン類を詰んだワゴンを押すハンクが足早に近づいて来る。


不満そうな足音を回廊に響かせやって来たハンクが、朝の勤務に入るやいなや必要物品の準備もせずに飛び出したリタを不機嫌な声で戒めた。


「ちょっとリタ! 

何で私に全部押しつけてボーっと待っているの! 

準備だって大事な看護だってことを忘れたの? 

私だって暇じゃない、婦長に聞きたいことがあるんだから、こんなことで時間を使わせないで!」


 昨日ハンクは兄がどこへ連れていかれたのかも解らないままやっとの思いで看護婦塔に這い戻り、フローレンスから呼び出されたというリタに伝言を頼んでいた。


しかし伝言ついでに兄の居場所を聞いてきてくれるよう頼んだその答えは、なぜか不自然にぼんやりとして食事も会話も上の空なリタからは何一つ聞けずじまいであった。


昨夜と変わらずほわほわしているリタは、今もハンクの存在に気づいてない様子で扉の隙間に張り付いている。


「さっきから何見てるの! 聞いてないの?」


 一貫して質問を無視するリタに痺れを切らし、ハンクは彼女が覗き続ける病室の様子をうかがった。


 その途端、リタが突如振り向き、ハンクの肩をがっしりと掴み揺らす。


「ああん、サム! あたしのかわいい妹! 

聞いて、恋よ、恋よ、恋! 恋したわあたし! 

信じらんない何この気持ち! 

ほら見て! たまんないわあの哀愁っ!」


 リタから力任せに抱きしめられ、上へ下へと頬ずりを繰り返されたハンクは、きゃあきゃあ言いながら示されたユーリアという患者を見て、我が目を疑った。


ベッドに横たわっている彼は顔中が包帯だらけで、「全身火傷?」という疑問以外浮かばなかったからである。


これと言って特別な動きをするわけでもない、むしろ停止しているだけの包帯人間にリタの言う哀愁などは微塵も感じられなかった。


ハンクは、リタの前衛的過ぎる恋愛感情に眉を寄せる。


 切なげに眉根を上げたリタが遠くのユーリアへと思いを込め、酔いに酔った夢見がちな投げキッスをする。


リタは厚ぼったい唇と指先の間で発生したピンク色の愛情を、まるで指先に止めた蝶でも飛ばすかのように放っていた。


「もうだめ……、あたしあなたの虜よ……ユーリア♪」






【ユーリア(17)】

 リタと同様、歴史的には実在しない人物です。雪芳さんのプロットに当初から存在していたキャラクターだったのですが、勢い余ったぐろわがロシア兵にしてしまいました。ロシア兵にしたことで寡黙なキャラになりましたので、リタに対する味気ない態度を楽しんでやってくださいませ。

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