1話 死
十二月も十日ほどが過ぎ、ハンクが兵舎病院で過ごした日々は、丸一ヶ月間経とうとしていた。
その日の昼過ぎ、兵舎病院の玄関では食事を中断した医師と看護婦団員たちが、張り詰めた表情で集結していた。
インカーマンから数百人という傷病兵を詰め込んだ輸送船が、つい数分前クリミアの港に着いたと連絡が入ったからである。
港での騒ぎに耳を澄ませていたハンクたちのもとに、突如唸るような足音が駆け上がって来た。
次の瞬間、弩涛のごとくタンカが流れ込み、辺りは一瞬で喧騒に包まれた。
「どいてくれ!」
患者の手足を持って駆け運ぶ看護兵の裂くような怒号が、搬入の邪魔にならぬよう廊下にへばりつくハンクの前を嵐のように通り過ぎていく。
座浴室に直行する患者の軍服からは水溶便がだらだらと滴り落ち、タイル地の床に汚物の道を作っていた。
ハンクは搬入患者の症状を見つめるうちに、ある共通点に気づき始めていた。
それは、看護兵に抱えられる重症患者も玄関で診断を待つ軽症患者も、皆同じように軍服の尻を下痢で汚しているということだった。
そして多くの者が辺り構わず嘔吐をし、それができなくなると干からびた体を激しく痙攣させて便まみれのまま命を落としていくのである。
思い描いていた『名誉の負傷』とは明らかに違う彼らの姿に、ハンクは腑に落ちない違和感を噛みしめていた。
そんな彼の様子を見つけたフローレンスが、人混みの隙間から叱咤の大声をかける。
「何をしているのですサマンサ! 早く床を拭きなさい!」
ハンクは飛び上がり、辺りの看護婦たちが皆忙しなく床を拭いていることに気がつくと、呆然と掴んでいるだけだったモップを改めて握りなおした。
そして座浴室へと続いていく汚物の道筋を、大急ぎで拭き辿っていく。
膝に抜糸した傷跡がまだ痛々しく残るものの、ハンクは怪我をする前と変わらぬほどの機敏な動きを見せていた。
数分で吸収力の落ちてしまうモップを、何本も取り替えながら掃除を進める団員たち。
その脇に転がった使用済みモップの束を拾い集め、汚水が滴らぬよう掃除用バケツに突き入れたハンクが、バケツを抱えて広い中庭へと走り出る。
ぬかるむ地面を越えて、石の敷かれた水場にバケツを下ろしたハンクは力一杯ポンプを漕ぐと、数十本はあろうかというモップを手洗いで流し始めた。
染み込んでいた吐瀉物や糞尿が溜め水を濁らせ、その臭いは中庭の悪臭と相成ってハンクの鼻を射すように突き上げる。
ゴミ捨て場となっていた中庭は、彼が初めてここに来た日と同様、汚物やゴミ、果ては死んだ軍馬までもが捨てられていた。
ハエの羽音が騒がしいなか、額に汗したハンクは白い息を吐きながら洗いの済んだモップを冷えきった手で強く絞る。
窓の向こうに見える回廊では、やっと乾いたばかりの病人服やシーツなどを抱えたシスター・バーサたちも走り回っていた。
絞りたてのモップを抱えて院内へと戻ったハンクが、汚れたモップを回収しながら患者たちをよくよく見直し、やっぱりそうだと言いたげに声を漏らす。
「なぜみんな『病人』なんだろう。
戦争なら普通は『怪我人』であるべきなのに……」
病人の山を見回すハンクの背に、田舎仕込みの豪快な呼び声がかかった。
「サム、ここにいたのかい!
あんたじゃなきゃダメなの、早くこっちに来ておくれ!」
「ど、どうしたのですか?」
血相を変えて飛んで来た長身のジェインは、分厚い手でハンクの腕を掴み、説明もしないまま彼を急かして引っぱっていく。
慌てたハンクは汚れたモップをその場に投げるように置き、もつれながら駆けていった。
◇
引かれていった先には、彼の父親ほどの年代である患者が、今にも死にそうなか細い息で床に横たわっていた。
「ほら連れて来たよ、この子なら年のころでしょう?」
ジェインは虚ろな患者にそう声をかけると、毛布一枚で寝かされている彼の冷えきった手を、無理やりハンクに握らせた。
ハンクの上げた困惑の表情に彼女はそっと肩を叩く。
「この人にはね、あんたくらいの娘がいるそうだよ。
死ぬ前に、娘に会いたい会いたいと言ってね。
だからサマンサ、あんたが看取るんだよ」
看取るという言葉にハンクは思わず身を強張らせた。
反射的に『名誉の戦死』と思い直して患者に目を落としたものの、今の彼からは戦地の勇敢な姿を想像することなど到底できなかった。
ハンクの前に差し出されたのは、病に衰弱するただの中年男性が今まさに死の淵にいるという生々しい光景であり、それはハンクの底知れぬ恐怖心を強烈にあおっていた。
「で、でも――」
「患者を一人で死なせない。それが婦長の信念じゃないか」
言い聞かせるように緑眼を頷かせたジェインは、もう一度ハンクの肩を叩いた後、別の患者のもとへと駆けていった。
一人残されてしまったハンクは、掌中の冷たい手を気味悪く思い、死に掛けている者の体を今すぐにでも離したい気持ちになっていた。
彼を見るだけで心臓が打ち震え、口の中が一気に渇いていく。
視線の先にいる患者は顔中が落ち窪んでどす黒く、皮膚は皺だらけで一切の血の気は感じられなかった。
ハンクは微動だにしない彼を恐る恐る覗き込みながら、爆発しそうな胸を抑え、どうにか声をかけてみる。
「だいじょうぶ……ですか」
死に逝く者の不気味さに、やっと出て来たハンクの言葉は乾いた喉に張りつくようだった。
しばし待っても返らぬ反応に焦れたハンクがもう一度呼びかけようと息を吸った時、男性の濁った眼球が突然ぴくっと動いた。
そして、ゆっくりとハンクの姿を探し当てると、生気のない口中から消え入るような声を絞り出した。
「…………いまま……で……すまなかっ……た……」
どこからそんな力を出したのかと思うほど、ハンクの手は強く握られていた。
男性は気管を鳴らして息を吸った後、淀んだ土色の目でハンクを見据え、震える声を押し出した。
「……ゆる……し、て…………くれ……」
ひび割れた唇で言葉を紡ぐ男の眼球が、乾ききっているはずの結膜に僅かながらの滲みを見せる。
死を間際にしながら己の娘へ詫びの言葉を口にする彼を、ハンクはどうしていいか解らぬ思いで見つめていた。
流れ込む恐ろしさ、しかしそれをしのぐほど、家族に看取られない者の無念さというものがハンクの中をかき乱す。
悲しく眉を寄せたハンクは、自分を娘と信じて疑わない男の手を、戸惑いながらもそっと握り返した。
「……もう、気にはしてないから……大丈夫」
その声が届いたのか、懇願するようだった男の表情が一瞬の緩みを見せた。
そう、彼は恐らく笑おうとしていたのだ。
だが強張る筋肉と、乾燥した皮膚がそれをさせず、戦場へ赴いたころは逞しかったであろう肉体も今や衰弱しきっていた。
もうハンクの目には、廊下で横たわるこの患者が、イギリスでごく普通に生活していた『娘を持つ一人の父親』にしか見えなくなっていた。
これが兵士として戦った男の死に様だろうかという思いを湧き上がらせたハンクは、悲惨でしかない彼の最期に、速くなる鼓動を抑えられなかった。
イギリスのどこかで彼なりの暮らしをしていただろうこの男は、兵士として赴いた戦場で疫病に侵され、その命の灯火を今、ハンクの目の前で終えようとしている。
(これは兵士の『名誉ある死』ではない。
これはある男の、哀れな最期なのだ)
ハンクが重たすぎる役目に逃げ出したいほどの戦慄を感じた時、
男はそんな彼を見つめたまま、
徐々に焦点だけを失い、
ぷっつり、と動かなくなった。
(――死んだ――!)
そう理解した瞬間、ハンクの背骨に冷たいものが走った。
「!」
息を飲み、物質となった男の手をはねのけるようにして離したハンクが、彼の存在が残る手を一心にスカートで拭い続ける。
彼の魂を奪い去った災いが、次の標的を見つけて這いずり上がって来たように思えたのだ。
ハンクは収まらない息を荒らげ、勝手に震えてしまう全身と『患者であり、兵士だった男』に対して不道徳な行いをしてしまったという罪悪感に、見開いた目を湧きあがる涙でいっぱいにしていった。
【患者の死】
我らがフローレンス・ナイチンゲール女史は、患者の臨終には常に立ち会っていました。とは言え、それは無事に「入院患者」となれた人のこと。大半の傷病兵は戦地や輸送船、スクタリ病院のベッドに運ばれる間にも亡くなっていたようです。
戦地に近ければ近いほど、亡くなった方の遺体は海に流されたり、野にさらされたりしていました。戦争の光景は、やはりどこでも悲しいものです。




