10話 無知と弱さ
看護婦塔に一人寝かされているハンクは、既に考えつくだけの雑念を全て使い果たしたとばかりに溜め息を吐き、寝返りを打っていた。
一階の倉庫からは、クラークが作っているだろう病人食のいい香りが、二階にまで漂って来ている。
心配された怪我による発熱もなく、至って良好な彼は、まだ昼食には早いというのに腹の虫を鳴かせていた。
そこへ「暇そうねぇ」などと言いながら、リタが暖気な様子でやって来る。
彼女は意味深な笑いを投げ掛けると、自分のチェストから小さな紙袋を取り出し、寝ているハンクの腹の上にその中身をまき散らした。
色とりどりのドロップに驚いて身を起こすハンクに、リタは「十時のおやつよ」と舌を出しながら彼のベッドに腰掛ける。
いつの間に町へ繰り出したのか、先日の給金でリタが買い込んでいたというドロップを舐めながら、二人はしばらく他愛もない会話をした。
話はフローレンスの作らせた昇降機に及び、ハンクはその時彼女に問い掛けた質問に肩をすくめた。
「でも婦長にははぐらかされちゃったんだ……。
リタはなんで看護婦になったの?」
ハンクの沈んだような声とは対照的に、リタは楽しそうにあっけらかんと答える。
「あたし? あたしはそれしか働ける場所がなかったからよ。
前にも言ったけど九歳で親いなくなっちゃったし、
寝泊りする場所もどっかの軒下だったからね。
食べ物はたまにくるレディがくれたりしてたっけ」
ハンクは相槌を打ちながらリタの過ごして来た幼少期を思った。
同じ九歳の頃を振り返ってみても、自分のそれとは真反対である。
ハンクの両親も他のジェントリと同様、貴族の義務としてリタのような子どもたちに物を与えて回る習慣があり、彼はそれに付いていった時のことを思い出していた。
ああして物乞いしてくる子どもたちの中にリタもいたのだと思うと、複雑な心持ちになる。
「売春婦には、卑しい看護婦があってるのよ」
リタの言葉に、ハンクは顔を上げた。
今やハンクも、売春という言葉が何を指すのかを知っていた。
兵舎病院に入ってから病院内の完全清掃の日までの二週間、リタの出身を嗅ぎつけた嫌味な医師たちが、ハンクのいる前でも遠慮なく露骨な言葉を吐き捨てていたからだ。
リタが知らなくていいと配慮してくれたことを、ハンクは一番心無い方法で教わることになっていた。
ハンクは自分では想像もつかないリタの生活を思い、悲しそうに眉を寄せた。
「……自分のことそんな風に言わなくても」
けれどもリタは三つめになるドロップを口に放り込み、投げやりに両腕を広げてから「何馬鹿げたことを」と言いたそうに言葉を綴る。
「売春婦が自分を売春婦といって何がおかしいの?
あたしは売春するしか稼げる方法がなかったんだもの。
道端で手当たり次第身体を売るより、看護婦として働く方が効率がよかったの、
だから看護婦になっただけよ」
ふんと鼻を鳴らして彼女は言い捨てた。
「看護婦って仕事はね、ちょっと患者の相手してやれば、賃金とは別に金が入るの。
そっちのほうが稼げる日だってあるんだから、あたしにとってはおいしい仕事よ。
言っとくけど、あんたがこないだ食べたビスケットだって、その金で買ったんだからね?
お貴族様のガキんちょが一端な文句言わないでよ」
まずくて臭い、卑しいビスケットよ、と付け加え、リタは大層なことなど言ってないとばかりに笑った。
それが自嘲的な笑みに見え、ハンクは彼女の大きな瞳を悲しげに見つめた。
リタがその視線から逃れるようにぷいと横を向き、がりがりと音を立てて口中のドロップを噛み砕く。
世間や本人さえも当然として使うリタへの評価を、ハンクはどうしても受け入れられなかった。
共に過ごして知り得るほどに、リタの人となりと「それ」との合致は遠くなる一方だったからである。
リタから得た一つの確信を、ハンクはぽつりと呟いてみる。
「リタは卑しくなんかないよ」
だがその言葉は思いがけずリタを逆上させた。
「卑しいわよ!」
声を荒らげキッと振り向いたリタが、野性味を帯びた恐ろしい視線をハンクに突き刺す。
「捨てられてすぐに強姦された女のどこが清いって言うの?
その日からあたしは卑しいことなら何でもしたわ!
盗みをしたって売春したって、怖いものなんか何もない!
懺悔なんかしたいとも思わない女よ!」
「……でもリタは文句を言いながらだって仕事はちゃんとやるし、優しいし……」
リタが布団の上で花を咲かせていたドロップを鷲掴み、うわべだけの同情などいらないと叫ぶ代わりにハンク目がけて思いきり投げつけた。
憤怒の形相でベッドから立ち上がった彼女は、看護婦塔の外にまで届きそうな大声で怒鳴り散らした。
「それだって金のためだと思うからやるのよ!
あたしが汚い人間だからやるの!
あんたたちみたいに善意からだと思ったら大間違いよ!
あたしはどうせ悪意の固まり!
あんたにあたしの何がわかるのよ、犯されて、馬鹿にされて、死ぬほど絶望する気持ちがあんたに解る!?
あたしはもともと卑しい身分だからこうなったの、あんたみたいに高貴な身分だったら、あたしだってこんな目には――!」
一度に散らばったドロップは床を転がり、ベッドやチェストの下に消えていった。
最後にハンクの胸から落ちたドロップが数粒、悲しげな音を立てて床を打つ。
ハンクはまずかったビスケットの味を思い出しながら、強く布団を握りしめた。
彼女の口にした『絶望』という言葉は、ハンクの胸の中で渦を巻いた。
その渦中から引き出されるように、あの時のトルコ人人夫が浮かび上がる。
悲惨で救いのない混乱の中では、情け容赦なくタンカを反転させた彼も、病院の環境が改善されるとともに別人のような笑顔で善人となった。
初めは彼をひどい人間だと思ったが、ハンクは今、彼をひどい人間にしたのは、彼を執拗に取り巻いていたこの病院の環境だったのだと気付いていた。
彼もまた、『絶望』していたのだ。
「私だって、リタと同じ目にあってたらきっと……」
リタにさえ聞こえないほどの呟きを、ハンクは口の中で声にした。
絶望が元凶なら、卑しい身分なんてないという思いが湧き上がる。
布団を握りしめてうつむく憂いの表情は、年頃の娘であるリタでさえハッとさせるほど美しかった。
――絶望が人を落とすなら、希望が人を救うかもしれない。
ハンクはふいに開いた光射す扉を、さらに自らの手で押し開けた。
顔を上げたハンクが努めて明るい表情を作る。
「戦争が終ったらうちにおいでよ、リタ。
それで、私の伯母さんと一緒にビスケットを作るんだ。
そしたらビスケットを買う金なんかいらなくなるよね」
リタは一瞬言葉を失った後、侮蔑に引きつる笑顔を浮かべた。
「馬鹿じゃないの。
あんた、あたしに騙されたり利用されたこと忘れたの?」
リタの言葉を受け止めながら、ハンクは伯母の家で失敗しながらも楽しそうにビスケットを焼くドレス姿のリタを思い浮かべ、嬉しそうな笑顔を見せる。
「ハニービスケットだよ?
とってもおいしいんだ!
私ね、リタの作ったビスケットはきっとおいしいと思う。
だからおいでよ」
リタは幾度となく傷つけられ、裏切られて来た『優しそうな人の笑顔』を思い出し、ハンクに重なる過去の恐怖や悲しみに向かって疑心の叫びをあげた。
「ふざけんじゃないよ!
みんなそうやって騙して、最後はあたしを笑い者にするんだ!
もう騙されない、どんなにあたしが望んだってそんなこと絶対にできっこないんだっ!
もうそんなの解りきってることなんだから!」
今にも殴り掛かって来そうなリタの大声をそのアッシュグレーの瞳で臆すことなく受け止めたハンクは、真っ直ぐに見上げていた目を無理に細め、襲い来る絶望に飲まれまいと懸命に堪える。
ハンクはリタから流れ込んだ悲愴感に胸を痛めながら、希望を頼りに明るく振舞った。
「リタ。
私は絶対リタを笑い者になんかしないよ?
だって、リタと一緒に笑うほうがどれだけ楽しいか知っているんだもの。
だからもう、自分のことそんなふうに言わないで欲しいんだ」
嫌悪も嫌味もなく、ただ単純に存在する想い。
肉親の愛情にも似たそれに、リタは睨むようだった視線を緩め、見る見るうちに表情を崩れさせていった。
立ちすくんだままで大粒の涙をぽろぽろとこぼしたリタが、ハンクのベッドに腰を落とし心の支えを必要とするかのように、彼の小さな体を抱き寄せる。
「……あたし、妹が欲しかったの。
あんたみたいな妹がいたらきっとさ、そしたらあたしだってもっとさぁ――」
ハンクは兄と同い年であるリタが、あまりにももろいことに驚いていた。
大人だと思っていても、自分と同じように泣くこともあるのだ。
小さく、決して頼りがいのあるとは言えないハンクの肩に、リタは顔を埋め、声を殺して泣いている。
首に巻きついて来た細い腕を、ハンクは慰めになでると瞳を閉じて思った。
(俺は何も知らないまま、労働者は卑しいとか、
看護婦は卑しいって言葉を単純に信じていた。
そういうものなんだろうと疑問もなく思っていたんだ)
泣きやもうとするリタを肌に感じながら、ハンクは何も知らずわがままに暮らしていた自分をひっそりと恥じていた。
【冬のトルコ】
本編の季節が冬ということで、どのくらい寒くすればいいものかとコンスタンティノープル(現イスタンブール)の気候についても少し調べました。どうやら、そんなに寒い地域じゃないみたいなんですね。雪だって年に一度振るか降らないかといったところだそうです。




