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命と戦った女(ひと) フローレンス・ナイチンゲール  作者: ぐろわ姉妹
第4章 働くことを許された看護婦団
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9話 思わぬ休息

 先ほど目の前で見せられたフローレンスの鉄壁なる交渉術に、ハンクはすっかり浮かれていた。


その素晴らしさに奮起し、いつも以上の働きでトイレの清掃を行うハンクが、汚物を下水道へと流し座便器の掃除を終える。


デッキブラシで床の汚れをこすりながらバケツの水で洗浄する作業中、規則正しく繰り出していたブラシの音が一瞬、ハンクの耳から遠のいた。


 疑問に思った刹那、足元が水飴のようにぐにゃりと歪み、ハンクはその中に落ちるようにして飲まれていった。


「――っ!!」


 体を突き上げた衝撃に足元を見やると、ハンクの膝は床から立ち上がろうとしているところだった。


数回瞬きをして状況を整理したハンクは、どうやら自分は目眩をおこして床に膝をついたらしいと理解する。


初めて体験した眩暈に戸惑いながらも仕事に戻ろうとしたハンクの目に、割れて飛び出したタイルが見えた。


向こう脛をすっと落ちたぬるい感触に、事態の全てを把握したハンクが声を上げた。


「痛っ!」


 中庭での水汲み作業からバケツをぶら下げて戻ったリタが、ハンクの異変に気が付いて駆け寄り、その傷口を確認して青ざめる。


ハンクの膝には横一文字に数センチの裂傷が開き、向こう脛に幾筋もの赤い流れを作っていた。


「サム! ……これはちょっとまずいわね、手当てしないと」


 一人ではどうにもならないと判断して助けを呼ぼうとするリタを、ハンクは慌てて制止し声を潜めて言い聞かせる。


「ちょっとまってリタ! 

平気だよ、こんな傷。

中庭で洗っているうちに血も止まるから」


 言うがはやいかハンクは髪を覆っていた白い布で膝を押さえ、廊下を飛び出していった。


「……ばっかねぇ、その傷で血が止まるわけないじゃない!」


 リタは残された血痕に改めて顔をしかめると、気張って逃げていったハンクを溜め息と共に追い掛けていく。


 ハンクは中庭の水場に辿り着くと、痛みを堪えながらポンプを漕ぎ、一人で傷口を洗い流した。


「大丈夫だよ、このくらい」


 口に出してはみるものの一向に流血は止まらず、ずきずきとした痛みとともに真っ赤な川はふくらはぎにも這っていく。


後ろから駆けて来たリタの足音に、助けを求めて振り向いたハンクは、その現実に言葉を失ってしまった。


足を止めたリタがその光景に顔を覆い、「あたし知~らない」と踵を返す。


 ハンクは物も言えずに引きずられ、医師の一室に着くや乱暴にソファーへと突き飛ばされ尻餅をついていた。


起き上がって許しを請おうとするハンクを、フローレンスが頭ごなしに怒鳴りつける。


「サマンサ・スミス! 

あなたが怪我をしてどうするというのですか! 

誰が思いきり足手まといになれと言いました! 

この役立たず!」


 ハンクは弁解の余地もなく足を押さえつけられ、部屋の主である大柄な若い医師に膝を縫われ始めていた。


 傷ができた時よりも鋭い痛みが、ハンクの剥き出た赤い肉に何度も何度も襲い掛かる。


ハンクはその悪夢のような痛みのせいで、目の前の医師が状況を瞬時に理解し説明要らずの処置を行っているという不思議さに、思考をめぐらせる余裕を削ぎ取られていた。


足を押さえるフローレンスの細い指を感じながらただひたすらに耐えるハンクはソファーに身を沈め、痛みが訪れるたびに顔を覆う枕へと絶叫していた。


 医師が最後の糸を結び切り、癖毛の頭を上げて小さく息を吐く。


びっしょりと冷や汗をかいたハンクの前でフローレンスが、医師に向かって親切なお礼を伝えていた。


応える医師の雰囲気から後援の意を感じたハンクが力なく首を起こして彼を見やると、若い医師は


「軍医長に見つかると騒動が起きるから、傷は見えないよう気をつけなさい」


と勧告した。


 その言葉を聞いたハンクは、医師の忠誠心がジョン・ホールからフローレンスへと移行している現状に気付き、嬉しそうな顔を浮かべる。


喜びで上げようとしたハンクの顔を待たずして、フローレンスは見上げるのも恐ろしいほどの静かで厳しい声をその場に響かせていた。


「サマンサ、あなたは明日の朝まで一日安静にし、

クラークから出された特別食を必ず食べきりなさい……! 

いいですね、これは婦長命令です!」


  ◇


 午前中に怪我をしてしまったハンクは、看護婦塔でぽつんと一人、小さい窓から差し込む日差しだけを眺めながら自分のベッドで横たわっていた。


 外からかすかに聞こえて来る看護婦たちの声は生き生きとして、皆働けることに喜びを感じているようだった。


ハンクも兵士が兵士として扱われ、誰一人として蔑ろにされていないという現在の看護体制に安心し、自然と顔をほころばせる。


フローレンスが勝ち取っていく功績が日を追って増えるほど、回復していく兵士の姿も目立ち始めていた。


「そろそろ兵士に話を聞きたいなぁ……」


 ハンクは女装してまで兵舎病院へやって来た当初の目的に胸を高鳴らせ、兵士から色々と聞き出す方法を算段する。


ふと空を行く雲に目を止めた彼は、兄ドルスが今頃どうしているのかとまだ見ぬ戦場に思いを馳せていた。





【軍医の黒衣】

 実は当時、医師も黒い服を着ていました。患者の血などがついても目立たないようにという理由から黒い色になったそうですが、これはもちろん不衛生の賜物です。これは今の医療現場が白一色なのに対して、まったく逆の発想ですよね。服の形は軍服とよく似ていて、黒い前掛けをつけることもあったそうです。

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