8話 道理を盾に
十二月の七日、ハンクとリタは回復傾向にある患者の包帯交換と朝食の介助を、
「今日は人手が足りないから特別に」
と釘を刺されつつフローレンスから指示されていた。
割り当てられた病室の一角では、一番奥となるベッドの上で座位となった痩せ型の中年男性が、傍らに座るハンクから包帯の交換を受けていた。
汚れた包帯を嬉しそうに交換し終えたハンクが、得意げな顔を上げて患者に笑いかける。
「どう? 上手く巻けたでしょ!」
患者は「どれどれ」と腕を上げ、凍傷で失った肘の先を覗き込んだ。
「これは上手だ、きつくもなくて丁度いいよ」
まるで愛娘を前にしているかのようにハンクを誉めた中年は、均等に巻かれた包帯とその丁寧な仕事ぶりに傷の痛みなどすっかり忘れて満面の笑みを浮かべていた。
後ろで朝食の配膳していたリタから金属のスープ皿を受け取ったハンクが、その中でおいしそうに湯気を上げる看護婦団特製の病人食を示しながら中年の患者に話しかけた。
「これ、私も作るのを手伝ったの、飲ませてあげる。
牛肉入りの野菜スープだよ」
スープの美味しそうな香りを充分に堪能した患者が視線を上げたところで、ハンクはスプーンを手に湯気の立つ温かいスープを患者の口元へと運んだ。
彼はスープを一口飲むと、伸びてぼうぼうの顎ひげを優しく緩ませる。
「おぉ、まるでうちの娘が作ってくれたみたいだ。
飲めば体も温まるねぇ」
ハンクは患者の速度に合わせ、時折会話を挟みながら穏やかに食事を進めていった。
患者の介助を終えた帰り道で、ハンクは看護中ふと目にした患者の毛布を思い出して心を痛めていた。
相変わらずの物資不足で、病院内の患者には薄くてよれた毛布がたった一枚しか支給されていなかったのである。
いくら兵舎病院内が適温に保たれているとはいえ、所々にしかない鉄製のストーブは部屋の隅にいる患者に対して、その暖かさを供給してはくれなかった。
日々私財によって大量の物資を購入するフローレンスの手腕に驚愕したハンクではあったが、極端に物品が枯渇してしまったこの状況を完全に回復することは、やはり彼女でも相当に難しいのだろうと想像していた。
◇
今日も一人で朝の昇降機操縦を済ませたハンクは、僅かに空いた時間で軍の管理する備品庫に向かっていた。
大きな扉の横に置かれた小さな机では、監査役の青年が一人で暇そうに本を読んでいた。
ハンクがおずおずと先の不満を訪ねてみると、彼は困った顔を見せ
「予備の毛布は、この間の嵐で沈没した輸送船に積まれていたから一枚もないのだ」
と申し訳なさそうに説明してくれた。
疲れを押してまで赴いていった結果に肩を落としたものの、彼らも恐らく同じ苦労を感じているのだろうと思ったハンクは溜め息をこぼした。
通常通りの清掃に戻ったハンクは、洗ったおまるを患者の傍らに戻しながらその出来事をリタに元気なく話していた。
モップで廊下を拭いていたリタが、しょんぼりを絵に描いたようなハンクに唸って手を止め、彼の垂れた頭を軽快になでる。
「船が沈んだんじゃ、仕方ないわよ。
サムが悪いわけじゃないし」
ハンクは回廊の小さな窓から見える中庭に目をやり、木枯らしの吹く遠い冬空を眺めた。
ハンクからはそれに負けぬほどの溜め息が、途切れることなく漏れていく。
視線を戻した回廊の先に看護婦塔へと戻るフローレンスを見つけたハンクは、思わず仕事を中断して看護婦団一細い黒衣姿に駆け寄っていた。
ハンクからその出来事を聞いたフローレンスは、書類の束を持ったまま腕を組んできっぱりと言い切った。
「子供と見くびられて嘘をつかれたようね、サマンサ。
付いていらっしゃい、備品庫を調べさせて貰いましょう」
きゅっと踵を返しドレスの裾を翻したフローレンスは、肩で風を切り二人を従えて備品庫へと歩き出す。
そして備品庫に着くやいなや、監査役の青年に対して単刀直入に切り出した。
「毛布が足りません。
庫内にある毛布を、全て出して頂けますかしら?」
青年は読んでいた本を机に伏せることもなく、顔だけを上げ、すまなそうな表情を作ってみせる。
「いや婦長さん。
毛布はですね、この間の嵐で――」
フローレンスはあからさまな咳払いをして会話を遮り、抱えていた書類の束から細かい計算が記された一冊のノートと、綴じられたたくさんの書類を机に並べ、すらすらと説明し始めた。
「私、昨夜一晩かけて港での受渡し帳と、当病院の備品納入帳簿、
そして認可された備品類の申請書を昨日付けの物まで全部照会いたしました。
きちんとサインのある正式な書類ばかりです。
それによりますと、この備品庫の中には現在
八百三十七枚の毛布が収められているはずです」
その驚くべき内容にハンクとリタは、備品庫の前で思わず顔を見合わせた。
目の前の監査役に対してフローレンスは、瞳に冷たい光を漂わせながらにっこりと笑って見せる。
それは言葉にせずとも「こんなもので私をだませると思ったのか」と語っていた。
張り詰めた空気にぎこちなく笑った青年が、しどろもどろに言い訳めいた言葉を連ねる。
「い、いやきっと……それは、あぁ!
認可した申請書が、まだそちらに届いていないんで――」
「そうですか、ならば責任者をここへ呼んでは下さいませんか?
申請書は即日提出が原則となっているはずですから、
一体どこで申請書が止まっているのかを調べて政府へと報告しなければなりません。
問題点を浮き彫りにするのは今後のためにも重要な事項ですわ」
青年はフローレンスの執拗な追求にこれ以上の誤魔化しは効かぬと観念したのか、突然青ざめるとどっと冷や汗をかきはじめた。
監査役は彼以外にも十数人いたが、その全員が備品を私物化して勝手に売り払い、金銭に変えては着服しているという証拠を、フローレンスは既に突き止めていた。
青年は彼女の放つ圧倒的な迫力に震えながら、自分たちが組織化してきた不正の発覚を明らかに感じ取っていた。
すっかり脅えきった彼に、フローレンスは氷のようだった微笑みをほんの少しだけ溶き、書類を片づけながら戒めを含んだ口調で言葉を続ける。
「……と、本来は言いたいのですけれど、今は時間がありません。
毛布を二百枚、至急用意して下さい。
申請書は用意してございますので、どうぞ宜しく」
フローレンスが彼の前にさっと申請書を滑らせた。
血の気の引いた青年は返事すら返せずに脅えた目だけを上げて用紙を受け入れると、力の抜けた足取りで扉の奥へと消えていった。
それを見届けたフローレンスが、満足げにハンクを振り返って笑顔する。
「これでとりあえず二百枚の毛布は手に入ります。
あなたたちはここでそれを受け取って頂戴。
私がこれから他の団員を数人向かわせますから、彼女たちから配布の指示を仰ぎなさい。
いいですね?」
ハンクとリタが呆然としながらも返事をすると、フローレンスはいつものように背筋を伸ばし早々にその場を立ち去っていった。
回廊の角に消えていく彼女の姿に、ハンクは掃除疲れも忘れて見入るように目を輝かせる。
傍らではリタが呆れとも取れる尊敬を込めて呟いた。
「あんな量の書類、いつ読んでんのよ……。すごい人……」
【看護婦の制服、黒衣のドレス】
当時揃いの制服といえば、警察や軍隊、聖職者や修道女などの限られた人間が着用していました。そのため制服から受けるイメージは、厳しい戒律と抑圧という堅苦しいものでした。
働く女性に、そして看護婦という仕事に、有意義で誇り高い功績と尊敬に値する活躍を望んでいたフローレンス・ナイチンゲールは、女性労働者のために揃えた黒一色の制服を与えました。
女性労働者の制服ができたのは、これが初めてだと言われています。それまでの女性は労働する場合でも、自身の普段着であったり、勤め先の女主人から下げられたドレスであったりしたそうです。
スクタリの看護婦たちの活躍が英国に広がる中、働く女性にとって制服という存在が一つの憧れとなり、女性の大きな職場であった看護婦と女給に、黒いドレスで白いエプロンという服装が一大ブームになったのだそうです。今現在メイド服が黒いのも、フローレンス・ナイチンゲールの影響なのかも知れませんね。




