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3話 嫉妬からの家出

 父親から「夕食までの間、自室で反省しなさい」と怒られたハンクは、着替えもせずに小一時間ほど自室でふてくされた後、反骨心に身を任せ父親の仕事場である書斎へと忍び込んでいた。


 何をするでもなく夜の闇に侵食された書斎を歩き回っていたハンクが、チッペンデール製の机に置かれた兄の写真立てに視線を落とす。


紺色の闇に浮かび上がるのは、軍服を着た兄ドルスの笑顔だった。


軍人であることを見せつける肩章がハンクの心に爪を立てる。


「……俺だって、……戦争行きたいよ! 

何でそうやって、兄さんだけがいつもかっこいいんだよ……」


 わだかまりを握りしめ、拳に力を入れるハンク。


その脳裏には数ヶ月前のある日のことが思い出されていた。


  ◇


 まだ暑気の残る秋口の昼下がり、兄と一緒に街へと買い物に出たハンクが商店で会計を済ませると、店員が


「カゴいっぱいの商品は重いから気をつけてね」


と言ってアーモンドトフィーのおまけを数粒渡してくれた。


大好物のトフィーを見たハンクは、同じくそれを愛して止まない兄とこの幸せを分かち合うべく戻る足を速めた。


人ごみの先に買い物をするドルスの姿を見つけたハンクは、トフィーを握りしめたまま大好きな兄の背中へと勢い良くしがみついた。


笑顔で振り向く兄にトフィーを差し出そうとして、いったん勿体ぶって見せた彼の目に、どきんとするような美女の姿が映り込む。


店番をしながら親しげな微笑みでこちらを見つめてくる美女に戸惑い、はにかんだ時、ハンクは兄の片手にビールグラスが握られていることに気が付いた。


兄はそのグラスに入ったビールをさっと飲み干してから美女に差し戻し、「ごちそうさま」と告げる。


グラスを受け取った美女の好意に満ちた視線は、ドルスの逞しい体を見つめていた。


 二人の間に瑞々しい男女の交流を感じ取ったハンクは、自分の手にあるアーモンドトフィーが急に子供じみた代物のように思えてならなかった。


ハンクは何とも言えぬ失意のなか、大好物だったはずのトフィーをズボンのポケットにしまい込む。


 男として扱われる兄と、子供として扱われる自分。


 ハンクはその現実が憎くて帰り道にトフィーを放り捨てると、その日兄とは口もきかなかった。


  ◇


 月の光が差し込む書斎の中でハンクは袖をまくりあげ、細い両腕を窓に向かってさらしていた。


指の隙間から見える白い月の輝きに縁取られるか細い腕。


しばらくそれを眺めていたハンクが諦めたように溜め息を吐き、腕を下ろす。


「……今、なんだよ……。

……今俺は、男らしく戦いたいんだ……」


 そう呟いたハンクは書斎の壁に掛けられた肖像画を見やり、雄々しく描かれた父親を見つめた。


「父さん! どうして貿易ばっかりしてるんだよ! 

そんなの商人のやることじゃないかっ! 

一度くらいは男らしく戦争に行って戦ってきたらどうなんだよ!」


 物言わぬ肖像画に大声を上げたハンクの手が、机上で山を成す書類を薙ぐように払う。


無機質に積まれていたそれが音を立てて崩壊し、滑るがごとく床へと広がった。


雲翳うんえいの暗闇を舞う幾枚かの白い紙を、怒りに満ちたハンクの目がゆっくりと追う。


「つぶれればいいんだ……、父さんの貿易会社なんか……。

父さんも母さんも、本当は俺より兄さんを愛してるんだ!!」


 そう叫んだ自分の声ではっとしたハンクが、あまりに愚かな自分の行いに顔を歪めた。


力なく床に膝と両手をついたハンクは、そこら中に散らかった書類を見つめながら真一文字に口を結ぶ。


 再び雲間から覗いたそよ風のような月光が、涙を堪える彼を慈しみ、その頬を優しくなでた。


僅かに潤むまつ毛を瞬かせたハンクが、手の下で皺を成す一枚の手紙に赤い瞳を走らせる。


「フローレンス・ナイチンゲールを……支援しませんか……?」


 ハンクは両親の会話で何度か聞いたことのある、その名前に首を傾げた。


 確かそれは、二つ隣の州にある大きな屋敷に冬になるとやって来る家族の名前、そう思い出したハンクの脳裏に、幾月か前に母親から聞かされた話が甦る。


「ハンクの生まれた年はねぇ、そりゃもう大変な凶作だったの。

農民は食べるものがなくて何人も死んでしまったわ。

いくら私たちが彼らに食べ物を施してあげてもまったく足らなくてね……。

でもそんな時現れたのがレディ・フローレンスよ。

空腹に喘ぐ人たちのところに足しげく通いつめ、信じられないくらいたくさんの人々に施しをなさったの。

若いのに感心だと近所で評判になったけれど、彼女の御両親は恐ろしく手痛い出費になったみたい」


と気の毒そうに笑った母親に続き、父親が話し始める。


「しかし今思えば、あの頃から彼女は看護に興味を持っていたのだろうな。

素晴らしい婚約者からのプロポーズを断った挙句に、ハーレー街のサナトリウムで働いていたそうじゃないか。

給料も貰わずに進んで病人の看護をするなんて、自分を落とすようで私には到底共感できんがね」


叱罵しつばを含んだ父親の声色が思い出される。


 フローレンス・ナイチンゲールという女性を好んでいなかった父親のもとで、捨てられずに残るこの手紙。


そもそもなぜ彼女の名前が踊る『支援願い』の手紙が父親宛てに届いているのだろうか。


ハンクは改めて手紙を手に取り床に腰を下ろすと、文字を読むのに事足りる月明かりの下で眉間に皺を寄せ、小難しい単語が連なる文面を読み進めていく。


左から右へと拙い行き来を繰り返していた目が、その内容を理解するにつれ嫌悪をはらんだ驚きに見開かれていった。


 父親と仲のよい社交界の友人から差し出された手紙には、こう書かれていた。


「オーベルト郷紳様へ、突然のお手紙でさぞ驚かれた事でしょう。

失礼を承知でペンを走らせる私をどうか御容赦下さい。

このような手紙を送るに至った理由は、すでにあなた様も御存知の事かと思います。

去る十月九日、十二日、十三日に発刊されたタイムズ紙で、従軍記者ウィリアム・H・ラッセルによる我が英国軍の惨憺たる戦況報告を目にしたからです。


あの記事を読んだ途端、我々は戦地スクタリで傷付いた兵士がどのように扱われていたのかを知りました。

イギリス中が地獄めいたその現状に震撼し、彼の義憤を我が事として受け入れたはずです。

英国軍の野戦病院にバケツもコップも包帯すらないと言うのなら、本国にいる我々が送りましょう! 

傷病兵を看護する女性がいないと言うのなら、適任者を任命して看護婦団を送りましょう! 


残念ながら我が国にはフランスのような愛徳修道会がありません。

しかし、それよりも聡明で知識があり実力と使命感に満ちた女性がイギリスにはいるのです。


彼女の名は、フローレンス・ナイチンゲール。


良家出身の若くて美しい、希望に満ちた女性です。彼女ならきっと、スクタリでの惨状を改善できるに違いありません! 

どうか彼女のために、惜しみない義援金を下記団体に送って下さいますよう宜しくお願い申し上げます。


一八五四年十月十八日 

あなたの友人ロビン・リチャーズより」


 そこまで読み終えたハンクは文字を追っていた目を止め、真一文字に結んでいた唇から、さも憎らしげに声をもらした。


「不公平だ。

俺が行けない戦場に……、女が行くっていうのかよっ!」


 湧き上がる怒りにわななくハンクの耳に、それ以上の怒りをはらんだ足音が廊下から迫り来る。


憤怒の襲来に慌てて立ち上がったハンクは、月光の注ぎ込む窓に駆け寄ると、一階である書斎から勢い良く飛び出した。


 屋敷を背にして、枯れあがった芝生の上を脱兎のごとく駆け、広い庭を突っ切り、速度を落とすことなく厩舎へと転がり込むと、暗中の小屋から愛馬を出して大急ぎで鞍をつけ始める。


馬の胴にベルトを締めながら振り向き、開け放たれたままの扉からちらちらと小さく光る追っ手のランプを確かめた。


鐙に足を掛け馬の背に飛び乗ったところで、厩舎に隣接された小さな住居の扉が開き、驚きの声と共に飛び出して来たマッシュキンスが叫ぶ。


「ぼっちゃん! 

こんな時間にいけません! お止め下さい!」


 ハンクの目に映ったマッシュキンスの胸元はナプキンで覆われ手にはスプーンが握られていた。


その気取った姿が不謹慎にもこの場の緊迫感を滑稽なものに変えてしまい、ハンクは笑いを堪えながらも馬の腹を蹴って言った。


「家出するっ! 

父さんの石頭にはもううんざりだ!」


 いななきと共に駆け抜けたハンクの馬は瞬く間に夜の闇へと消え、後には颯爽と遠ざかるギャロップだけが聞こえていた。


「こらーっ戻って来い! ハーーーンク!!」


 息を切らす父親の怒号も虚しく、蹄の音は迷いなく暗闇へと溶けていく。


 苦しそうに息継ぎをする主人のランプに照らされたマッシュキンスが、がっちりとした肩をすくめ短い首を左右に振った。


「また家出だそうですよ……、だんな様」


 痛恨の表情で天を仰いだオーベルト郷紳が頭を抱えて苦悶する。


「ハンクめ! 

またカミーラ姉さんの屋敷に逃げ込むつもりだな! 

あああ、また小言を聞かされる……」


 家出と言ってもハンクの場合、完全擁護派であるカミーラ伯母さんの屋敷に上がり込んだ後、気が済むまで愚痴や鬱憤を聞いて貰い、次の日の夕食後、馬車で迎えに来た父親を伯母に叱りつけて貰うことを示していた。


オーベルト郷紳は夜通しその小言を聞かされ、夜が明ける頃になってようやく息子を帰して貰えるのである。


 普段は毅然としているオーベルト郷紳が唯一頭の上がらぬ存在。


それが彼の姉カミーラなのだった。


 明日の今頃から始まるであろう受難の時を思い、オーベルト郷紳は真っ白な溜め息を吹きすさぶ木枯らしにのせ、頭を抱えていた。





【チッペンデール】

チッペンデールというブランドは実在します。

ブランドって言っていいのか解りませんが、チッペンデールという家具職人がいたそうです。

かの「チップ&デール」の名づけ元ネタになったという、なんじゃらほいな逸話アリ。

あまり多くの家具を作ったわけではないそうなので、それを持っているオーベルト家のスゴさを地味に表現してみました。

遊びがてらの裏設定では、ハンクの爺さんが生前入手し、ハンクの父さんに引き継がれた品だという設定です。

そんな設定を微塵も感じさせないスルー具合をご覧下さい。

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