6話 レディ・ウィズ・ア・ランプ
夕方フローレンスは、弱っている患者への食事介助を終えた団員を引き連れ、医師のもとを訪れていた。
夜に行う看護の計画を立てるべく、医師の指示を仰ぎに来ていたのだ。
だがそこには運悪くジョン・ホール軍医長の姿があった。
彼は椅子にふんぞり返ったまま挨拶もそこそこに、フローレンスの考えた夜間看護の計画に食って掛かって来た。
「ほぉ、それはつまり、
医師たちと同じように夜も働きたいから夜間看護をさせろと言う事かの?
なるほど、お嬢様方の徒為とも言える熱意にだけは脱帽だが……」
そこまで言うとジョン・ホールは突然腕を上げ、当り散らすように机を叩いた。
団員を鋭く睨みつけ、抑えていた声を爆発させる。
「しかしものには限度がある!
二日前に病院を掃除したくらいで自分たちが医師と同等だと思いあがるのは、止めて貰えんかな!」
突き出た腹で鼻息を荒らげる軍医長がハンクにはどうしようもないブタのように思え、団員も皆腹立たしい様子を浮かべていた。
体格のよい看護婦の群れから一際背の高い体を一歩前に出したジェインが、緑色の瞳で禿げ上がった軍医長の頭頂部を見下げながら、小さな顎と太い首を繋ぐなだらかな肉垂れを見せつけるかのように顎を上げる。
背に自信のないジョン・ホールを態度で嘲ったジェインは、物怖じしない口ぶりで不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「ずいぶん御立派な言いぶりじゃないか、医者が病院をクソまみれにしたくせに!
おかげでどれだけの人間が死んだか!」
ジョン・ホールは粗悪な態度と男にも勝る長身でつっかかって来る女を見上げ、その顔の造作と同様に『田舎臭く』て権限の上下も理解していない言いがかりを正してやるとばかりに椅子を倒して立ち上がる。
「悪いが医師は医療を行うために来ているのだ!
掃除をするために来ているのではないわっ!」
明言はせずとも軍医長のだみ声は、
「だから看護婦は汚物掃除だけをすればよいのだ」
と、馬鹿にした調子が含まれていた。
これには看護婦団の誰もが神経を逆なでされた。
ぐっと奥歯を噛むジェインの「この禿げ頭!」と下品に怒鳴りそうな空気が一瞬にして色濃くなる。
怒号が飛ぶと誰もが確信した時、
静かに、だがきっぱりとフローレンスが発言した。
「ではお分かり頂けますわね。
看護婦も看護をしに来ているのです」
彼女の毅然とした微笑に揚げ足を取られたジョン・ホールは、ぼうぼうの赤眉をひくつかせて返す言葉に詰まっていた。
間髪入れずフローレンスは、彼の後ろにいる医師全員ににこやかな視線を向ける。
「夜間の看護がまかりならぬと言うならば、看護は控えましょう。
ですが医療道具の物持ちや治療の手元を照らすランプ持ちなど、
必要とあればいつでもお声をかけて下さいませね」
ジョン・ホールに無茶な要求ばかりされていた医師たちからは、控えめながらも安堵したような表情が漏れ、彼らの雰囲気からは肯定の意が感じ取れた。
フローレンスは確かな手ごたえに頷き「看護婦塔に戻りましょう」と団員たちを促す。
そして自分も一歩踏み出したところで振り返り、まだ何か文句を言って来そうな軍医長に追い討ちする。
「あぁ、そういえばジョン・ホール軍医長。
今までに兵舎病院内で亡くなった正確な人数と、
その一人一人の氏名や病状、
亡くなった原因やその状況と日時など、
詳細がわかる書類はどちらにあるのでしょうか?
昨日イギリスから私のもとに届いた戦時大臣からの手紙には、
ニューカースル公爵がそれらを気にしているという文章がありましたので……」
突然聞こえて来た戦時大臣という言葉に、ジョン・ホールは舌の根すら失ったかのように喉を詰めてしまった。
彼は今まで軍からの閲覧要請が来ないのをいいことに、日々医師から届く病院内部の書類には目を通すどころか触れてすらいなかったのだ。
冷や汗をかくジョン・ホールの目の奥で、溜まりに溜まった医師からの報告書が嵐のごとく吹き荒れる様が見て取れる。
彼の不審な表情からは、恐らくサインをしたり判をついたりすべきものが山積みで放置されているだろうことが、誰の目にも明らかだった。
フローレンスがすかさず声をかける。
「もしよろしければ、
昨日こちらで作成した入院患者記録を、私に管理させて頂けないでしょうか」
「……し、仕方がないな、そんなにまで言うならば管理は任そうじゃないか」
「まぁ、ありがとうございます。
ではそれに伴い、病状把握に必要な夜間の見回りを許して下さいますわね?
そのほうが、軍医長の『貴重な朝のお時間』を取らせずに済むというものですわ」
ジョン・ホールが口ひげをわななかせて見つめるフローレンスはいつも以上に背筋を伸ばしており、彼女の獲物を逃さぬ鋭利な目からは、
『こちらに夜間の見回りを許さないのであれば、毎朝欠かさず軍医長室を訪問し、
あなたに今までにないほど詳細なデータを膨大に求めます』
ということがはっきりと突きつけられていた。
ハンクにも理解できた言葉の応酬にジョン・ホールは奥歯を噛み、してやられたという顔を無理に作りなおして強がってみせた。
「……良かろう。しかし、見回りはあなた一人でやって貰うぞ!」
ハンクは美しくしとやかに微笑むフローレンスと、足を打ち鳴らしてその場を去っていくジョン・ホールを見比べ、男を言い負かしてしまうほど巧みな彼女の交渉に諸手を挙げて感服していた。
◇
その夜、寒風が窓を揺らす看護婦塔で、ハンクはベッドの中からたなびく雲を見上げていた。
同室の団員はもう全員がシフト姿でベッドに入っている。
差し込む月明かりのなか、天井に視線を這わせていた看護婦が呟いた。
「婦長、今どの辺を回ってるのかしら」
誰に聞くでもない言葉に、ハンクがたった一人で病院の回廊を見回りに出掛けたフローレンスを思う。
同じ頃、フローレンスは広い建物の端から端まで、永遠に続くようなマットレスの間を念入りに縫い歩いていた。
一切明かりのない廊下は暗く、小さな窓からの月明かりだけが、患者たちの拠り所であった。
彼らは廊下の両壁にそれぞれ頭を向けて寝かされており、その向き合った足先の間は僅か一メートルほどしか離れていなかった。
本来は広いはずの廊下に生まれた通用路を、フローレンスはトルコランプを片手に掲げ、一人一人の様子を確認していく。
この寂しい回廊で人知れず昏睡している者はいないか、痛みで寝つけぬ者はいないか……。
フローレンスはうなされている患者を見つけると、彼が眩しくないようランプを足元まで下げてから近寄った。
そして隣のマットレスと五十センチほどしかない間にしゃがみ込み、そっと彼の手を握って言う。
「大丈夫ですよ。
いつでも近くにおります、安心してお眠りなさい」
すると患者は決まって、その言葉に誘われるようにすうっと深い眠りに落ちていくのだった。
同時にその言葉は、投げ掛けられた患者以外にも周囲で聞き及ぶ多くの患者たちに、彼女の深い愛情を感じさせていた。
フローレンスは苦しむ患者を、決して見逃すことをしない。
それを敏感にも感じ取っていた患者たちは彼女の慈悲深さに感涙し、見回りをするフローレンスが足の向こうを通り過ぎていく僅かな時間を感謝の気持ちでじっと待っていた。
彼らは彼女の負担にならぬよう話もせず、死んだように寝たふりをして、頭にかぶった布団を通してその愛すべき後ろ姿を見送る。
彼らの中にはフローレンスの存在に女神や天使を思い、更には故郷に残した母や妻、娘の姿を思い起こしている者もいた。
フローレンスは患者たちの潜めた心情を受けながら、七百三十二メートルもある回廊をぐるりと一周し、上の階に移動してはまた同じ距離を一人で見回るのであった。
この日から毎晩続けられた夜の見回りには、死の淵で喘ぐ重傷患者までもがフローレンスの情け深さに心を打たれ、生きる気力を取り戻していた。
【ランプの貴婦人】
今回のサブタイトルでもあります、ランプの貴婦人。フローレンス・ナイチンゲールを象徴する言葉として伝えられています。
昼の激務を行いながら夜は一人で病院中も見回るなんて、すごいパワフルな女性だと思います。資料によると、彼女が一晩で歩く距離は6km前後あったとか。願い続けた仕事ができるようになった時、人はとてつもない力を発揮するのかもしれませんね。




