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命と戦った女(ひと) フローレンス・ナイチンゲール  作者: ぐろわ姉妹
第4章 働くことを許された看護婦団
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5話 使命にも似た思い

 夕方になる頃、ハンクとリタは兵舎病院の倉庫に最後の洗濯済み用品を運び入れ、看護婦塔へ戻ろうと回廊を歩いていた。


きれいになった回廊で患者が左右に整然と横になる通用路を通り抜けながら、ハンクはふと辺りの汚物臭が再び強くなっていることに気が付いた。


歩きながら覗いて回ると悪臭の原因はすぐに発見できた。


きれいな病人服やシーツに囲まれ清潔になった患者たちだったが、おまるを支給された者の中には、不自由ながらそれで用を足すものの、溜まった汚物を廊下の片隅にあるバケツやトイレまでは持っていけない者がいたのである。


「うーん、これじゃよくないよなぁー」


 足を止め考え込むハンクの後ろにいたリタは、彼の頭の中を垣間見たかのようにぎょっとして青ざめると、素早くその場から逃げ出して物陰に身を隠した。


 ハンクが良案とばかりにぱっと顔を明るくし、振り向きながら言った。


「ねぇリタ! 

…………え、いない?」


 忽然と消えていたリタにハンクは目を丸くするが、すぐに失踪の真意を理解して口を尖らせる。


「まったく! リタって意外と根性ないなぁ。

いーもんね、一人でだってやるから」


 ハンクは上機嫌で駆け出すと、指示を仰ぐべくフローレンスを探し始めた。


意外にも近くの病室内に彼女を見つけ、声をかけようと様子をうかがう。


フローレンスは街から仕入れて来た手術用のついたてを広げ、腕の切断手術に立ち会っているところだった。


ついたての中では患者がいつも通りの悲鳴を上げていたが、その悲惨な様子が見えない分、周囲へのストレスは幾分軽減しているように思えた。


ハンクが痛みを誘う患者の悲鳴にも負けず、少しだけ近付いていてついたての先に声をかけてみると、すぐにフローレンスが半身を外へと出した。


額に汗を滲ませる彼女の緊迫した表情に、ハンクは時間を取らせまいと急いで問う。


「婦長、おまるが一杯になっています。

明日、私が掃除をしてもいいでしょうか?」


 しばし考え込んだフローレンスが、幾つかの計算を終えた様子で頷いた。


「……手が空いているのなら仕方がないでしょう、

あなたとリタだけで行うなら許可します。

けれども、衣類の洗濯や物資の搬入、誰かの手伝いに呼ばれた時は、掃除を中断する事。

今掃除よりも優先すべきは、患者への看護とそれに必要な物資を備蓄し使える状態にしておく事なのですから」


 フローレンスはついたての中の患者を気にしながらも的確に指示を告げ、ハンクはそれを聞き逃すまいとしっかり彼女を見上げる。


「はい、解りました」


 ついたての中から慌てた様子の医師がフローレンスを呼び、痛みに耐えている患者からも彼女は助けを求められた。


フローレンスは患者の手を取って励ましながら、踵を返すハンクを呼び止め言い聞かせる。


「昨日の清掃は看護を行うために行ったのです。

これからは看護に重点を置くつもりなので、少々の衛生悪化には目をつぶります。

問題は一つ一つ、優先に従って解決していくべきなのです。

私たちに失敗は許されないのですから」


「はい。承知しております、婦長」


 まるで兵士のような口ぶりで返事をしたハンクが、くるりと後ろを向いて病室を後にする。


回廊に戻ったハンクは決意に満ちた大きな瞳を上げ、見つからぬよう看護婦塔へ這い戻ろうとしていたリタを難なく見つけて誘う。


「リタ、明日はおまるの掃除をしよう!」


 嫌な予想が的中したと顔中で表現するリタが、往生際も悪く柱にしがみついたままふてくされて見せる。


「……あたしはイヤですー。

指示されたことだけすればいいじゃんさー」


 リタが力いっぱいに声をしゃがれさせ嫌悪を刻むと、ハンクはそれをなじる素振りもなく、さっぱりと回れ右した。


「わかった、じゃあ私だけでもする」


 黒いスカートを翻しすたすたと廊下を進むハンクに、リタは唖然とした表情を浮かべる。


だが躊躇し迷った挙句、「わかったわよ」と首を振り、彼女はハンクの後を追った。


  ◇


 次の日の朝、二人はトイレの前にいた。


二日前に団員たちが掃除したばかりだったが、汲み水を注ぐことでは流しきれなかったものたちが配管で詰まり、座便器の中で折り重なっては遠慮のない汚物臭を放っていた。


初めて見た時のようなどうしようもない不潔さにまでは至ってないことや、まだハエがたかって来てないことが救いであったが、顔を引きつらせるリタとは対照的に、笑顔でやる気満々のハンクが楽しそうに宣言する。


「リタ! 今日はおまるをきれいにするために、まずここを掃除するんだっ!」


「いやーーーっ! 指示されたことだけす、っていうか、もうあたし故郷くにに帰りたいんですけどっ!?」


 二日前の影もなくこんもりと山を成す汚物に、リタが悲鳴を上げながらトイレを飛び出していく。


「リター、大丈夫だよ。ほら、馬のだと思えばさ」


 かわいい顔をして農婦のような逞しさを見せつけるハンクに、リタはこれだからと頭を抱えて地団駄した。


「もういやっ! 

あたし、あんたらレディの考えることなんか全然解んないからっ! 

馬だろうが人だろうが、出してるモノは一緒でしょうよ!」


 こういうことをやらずにすむと思ったから追っ掛けてきたのにと騒ぎ立て、リタは大暴れして嘆いた。





【19世紀の四肢切断手術】

 当時の切断手術は「単純にばっさりとを」モットーとした、スピード重視の世界だったそうです。そのため外科医師たちの体は筋骨隆々、道具もまるで大工のそれでした。現代のように繊細でほっそりとした外科医という人物像とは、まるで正反対ですね。


 なぜこのようにスピード重視で単純な手術が常になったのかというと、過去に複雑な工程を踏んで美しく処置した患者はほとんど死んでしまっていたからです。


 なぜかというと、当時はまだ手術においての衛生が家庭料理以下のレベルであったため、医師は手も洗わずに手術を行っていたからでした。しかも続けて数人の手術を行う際は、手術道具も洗わず次の患者を施術するような習慣だったのです。


 これではなるほど、医師と道具が触れる面積が多ければ多いほど患者の感染症の危険は高くなり、生存率は下がってしまいます。


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