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命と戦った女(ひと) フローレンス・ナイチンゲール  作者: ぐろわ姉妹
第4章 働くことを許された看護婦団
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4話 隠密工作と楽しき労働

 食卓が片づけられた二階の部屋では、シフト姿の団員たちがベッドやテーブルで思い思いに手紙を書いていた。


ハンクは給金のほとんどを封筒に詰め、フローレンスから支給された便箋に伯母への手紙をしたためる。


自分のベッドに腰を掛ける彼は洗いざらしの髪を下ろしたままで、枕元のチェストに置かれたランプの灯りにその端正な横顔を揺らめかせていた。


 部屋にいる全員が黙々と手紙を書くなか、リタだけが自分用の質素なチェストに給金をしまい込み、することもなくただぼんやりとしている。


出す当てもないのに便箋を広げて周りの状況に馴染もうとペンを持つリタは、下ろした濡れ髪をいじくって毛先を弄んでいた。


つまらなそうにいたずら書きを始めたリタを横目に、ハンクはペンを軽快に走らせる。


手紙にはマルセイユからの出来事を書き連ね、リタという傍若無人な看護婦とともにスクタリ入りしたことや、院内の宿泊場所である看護婦塔のおまるトイレ、入浴もばれずに何とかこなしていることを綴った後、レディ・フローレンスは聡明で忍耐強く志の強い人だとも讃した。


 しばし天井に目を走らせたハンクは、ぺろりと唇を舐め、今日行った清掃の苦労話や、明日から本格的に看護ができること、まだ雑用係だがすぐに自分が一番の看護者になるつもりだということを書いた。


「あとはもう一通、だな」


 ハンクは書き終えた伯母への手紙を脇に置き、今度は伯母の持たせてくれたイタリア製の便箋を引っ張り出し、ペンを走らせ始める。


こちらはオーベルト家への手紙であり、これも伯母との約束であった。


伯母が言うには


「イタリア製の便箋なら、あんたの父さんだってそうそう疑わないわよ」


ということだった。


ハンクは伯母の言葉を信じ、元気に工場で働いている旨を書き進め、手紙の最後を


「大人として自立したい気持ちがあるので手紙をあえて入れない月があるかもしれないが、心配はしないで欲しい」


とこれまた約束通りの文面をなぞって締めくくる。


 そして、オーベルト家宛ての手紙を給金とともにイタリア製の封筒に収め、これには封をしないまま、丸ごと伯母宛ての封筒の中に入れる。


こうした形でリッチモンド家に送りつければ、後はカミーラ伯母が何とかしてくれるはずだ。


「いいことハンク、

オーベルト家宛ての手紙は全て、私が目を通してから封をしますからね。

手紙におかしなところがあったら給金だけで渡す事になるのだから、

怪しまれたくなかったら変な事は書かないこと。

私がオーベルト家に封筒を持っていって

『デヴィッドからの小包の中に入っていたわ。

倹約家のデヴィッドらしい知恵だわよ』

なんて言えばぜーったいに誤魔化せるから大丈夫よ」


 ハンクは伯母の頼もしい笑顔と言葉を思い出しながら、言いつけ通りに作った封筒をしっかりと糊づけする。


気がつくとリタはペンを持ったまま、便箋を枕にして眠っていた。


封筒をチェストに置いたハンクは、兄とは比べ物にならないくらい世話の焼けるリタに溜め息し、彼女の手からペンを取ると便箋の代わりに枕を入れ、布団を掛けてから傍のランプを吹き消した。


  ◇


 翌朝、昨夜とは一転して慎ましやかな朝食を取った後、ハンクとリタは団員たちがフローレンスとともに看護方針を検討する座談会をその傍らで見守っていた。


朝早くからの招集にも意気揚々と笑顔を見せる団員に元気を貰えたハンクは、きっと彼女たちの弾ける笑顔が世話を受けた患者の心を充分に癒すことだろうと考えていた。


 患者のもとに向かう団員を見送ったフローレンスから洗濯をするようにと言われた二人は、クラークと共に外にある洗濯小屋へと向かっていた。


小屋は病院として使用している建物よりもずっと小さかったが、れっきとしたトルコ軍兵舎であり、病院との距離もほどよいことから、兵士の妻たちが大勢集まって作業するにはうってつけな場所であった。


洗濯小屋に入ったハンクが兵舎病院と似た作りの天井を見上げていると、前を行くクラークが二人に話し始めた。


「ほうら、あのボイラーもこの大きな煮沸釜も、

フローレンス様が大急ぎで御用意なさった物ですよ」


 彼女はそう言って自慢げにハンクとリタを連れ歩く。


各部屋に一つずつあるボイラーは洗濯湯を沸かすだけでなく暖房としても使われているので、小屋の中はとても暖かかった。


幾つかに分かれた全ての部屋では、兵士の妻たちが既に洗濯をし始めているところだった。


髪を結い上げたりスカーフで巻き抑えたりと、女たちは皆飾り気もなく、薄汚れたスカートの裾をたくし上げ、水仕事をしている。


その中にはわんぱく盛りの子どもを叱りつけている女性や、生まれたての赤ん坊を背負っている女性もいた。


 当時は世話をつとめるため、兵士の妻をはじめとして大量の民間人が軍隊に付いて回る時代であった。


しかもこの頃、戦争は一つの娯楽という要素があり、戦地には戦闘の見物にやって来た者やそこで一儲けしようと付いて来る商人もいた。


妻が付いてくれば兵士との間に子が生まれるのは当然のことで、野戦病院の周辺には常に多くの女性と子供が暮らしていた。


 フローレンスはそんな彼女たちを今日から正式に雇い入れ、日々大量に出る洗濯物を洗わせるよう取り計らった。


百数十人あまりの女たちは監督となる家政婦クラークの指示を受け、昨日洗いきれなかった大量のリネン類や軍服などを洗い進めていく。


「それじゃあリタとサムも洗濯して頂戴。

解らない事は私か、周りの奥さん方に訊ねると良いわ」


 クラークに促されて洗濯仕事の輪に入ったハンクは、近くにいた兵士の妻たちと二言三言交わしながらいそいそとブーツを脱ぎ、頼まれるより先にタライの中で踏み洗いをする大役を買ってでた。


ぬるい洗濯水に足を突っ込み、布から茶色い汚れをこそぎ落とすように何度も足踏みをする。昨日の汚物まみれの作業を思えば、どうということはなかった。


「何か洗濯って、けっこう楽しいかも!」


「はいはい、どうせ初めてやったんでしょ? 

珍しいうちは何でも楽しいでしょうよ」


 リタは隣のタライでつまらなそうに手洗いをしながら、スキップで踏み洗いするハンクを見上げ、溜め息をした。


ハンクの子どもらしい元気な振る舞いに、リタ以外の女たちが活気付いていく。


 女たちによって見違えるほどきれいに洗われた軍服は、小屋の中に張り巡らされたロープに吊るされ、ボイラーの熱でほかほかに乾かされた。


洗い終えたシーツを山のように抱えたハンクが、張りきって白い歯を見せる。


「このシーツ、干してきますね!」


 洗い物がひと段落したということもあり、ハンクは小屋の外に干されていたシーツなどを取り込みながら、すぐさま空いた場所に絞りたてのシーツを干して回る。


彼の後ろでは、恨めしそうな顔をしてお座なりにシーツをたたむリタがいた。


二人が小屋に戻ると、クラークの指揮のもと兵士の持ち物が袋詰めにされているところだった。


「私が袋に文字を書いてもいいですか?」


 汗をかくハンクは頬を紅潮させながらクラークに頼み、袋に兵士の名と入院患者記録の通し番号を間違うことなく書き込んでいく。


「へぇ、シャツってこんな風にたたむんですね!」


 名入れの作業が終わったハンクは、今度は乾いたリネン類を決められた形にたたみ続け、それが済むと兵舎病院内にある何も入っていない倉庫へと洗濯済みの物を運び入れていく。


洗濯小屋と兵舎病院を何度も往復し嬉しそうに働き続けるハンクに、リタは見ているだけで疲れると呆れ果てた。


「ついてけない……何なのあのやる気は」





【スクタリ兵舎病院】

フローレンス・ナイチンゲールが活躍した、野戦病院の一つです。スクタリにある兵舎病院は、ゴールデンホーンと呼ばれる二本の角が突き合ったような入江の東側に建つトルコ軍兵舎を、1854年にイギリス陸軍が野戦病院として収用したものでした。


 少々高い崖の上に建つ兵舎病院は、四隅の塔を回廊でつないだ形をしており、中心には大きな中庭がありました。


 現在その姿は、少々の改築がされているものの、トルコ軍の兵舎として現存しているようです。


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