3話 希望に満ちる看護婦団
「今日というこの日、助けを必要とする者のために働けた事を、心より感謝いたします」
修道女たちは夕食の前にそのような祈りをし、二階に集められた看護婦団全員は、丸く連ねたテーブルで手狭ながらも食事を摂り始める。
いまだに上気する団員たちの濡れ髪からは、先ほどまで快適な入浴をしていたことが語られていた。
彼女たちは皆、昼間一緒に働いていたトルコの女性たちに誘われ、ハマムというこの地域特有の公衆浴場に行っていたのだ。
確かに糞尿で汚れた体を流したいと思ってはいたものの、ハマムが他の者と一緒に布切れ一枚で入るスチームバスで、更には風呂屋の従業女が懇切丁寧に体を洗ってくれるのだと聞いた時、ハンクは一人違った意味でぎょっとして青ざめた。
修道女はもちろん、看護婦たちでさえ初めはその明らかに受け入れにくい異国文化に眉をひそめたが
「心地いいマッサージ付きで、疲れも吹っ飛ぶわよ」
との紹介に、看護婦たちは心そそられたようである。
彼女たちの輝いた目を見て、フローレンスは労をねぎらいハマムへ行く許可を出したのであった。
公衆浴場を拒む修道女たちにも
「今日は誰もが恐ろしく汚れました。
明日から清らかな看護ができるよう、シスター方もどうかハマムへ。
これは婦長としての命令ですよ。
それに、今日ばかりは教会も入浴を退廃的とは思わないでしょう。
思う存分こちらの習慣に身をゆだねていらっしゃい」
と言って、看護婦団全員を町へと送り出す。
これに困ったのは、当然として同行させられそうになるハンクであった。
彼が大慌てで断る理由を探し始めていた時、その場に女神とも思える声が響いた。
「サマンサ、あなたは私と一緒に残って頂戴」
「あら、婦長は行かないんですか?」
看護婦たちの気兼ねしたような問いに「後から行きます」と笑顔で答え、フローレンスはハンクを従え看護婦団を見送った。
自分だけはまだ雑用があるのかとそっと胸をなで下ろすハンクに、フローレンスが肩をすくめる。
「私までが病院をあけるわけにはいかないもの。
つきあわせて悪いわね、サマンサ。
あなたも行きたかったでしょう?」
「いえ私は! 疲れていませんから!」
「一番若いからとあなたを残してしまったのだけれど、本当に疲れてない?
団員はあの通り、みんな若くはないものね。
明日からの事を思うと今晩ハマムに行かせてあげられて、良かったかもしれないわ。
疲れを取って貰いたいもの」
その後フローレンスはハンクに簡単な書類の整理を命じ、院内で何かあったらすぐに私を呼ぶようにと告げてから昼間患者たちを洗い流した座浴室へと向かっていった。
ハンクは戻ったフローレンスと交代して入浴に挑んだのだが、それでもつい誰かが来るのではとびくびくしてしまい、自然と入浴は大急ぎになっていた。
人生一スリリングな入浴を問題なく終え、何食わぬ様子で団員と合流したハンクは食事の合間にふと、見違えるほどきれいになった院内を思い出して満足の笑みを浮かべた。
「今日は婦長の補佐もできて、すごく役立ったって感じっ!」
「何がそんなに楽しいの、サム……」
せっかくハマムに行ったというのにリタはぎこちない体を引きずり、ハンクの笑みを一瞥する。
だがハンクは、クラークの計らいでいつもより豪華になったスープをすすりながら、アッシュグレーの瞳を麻色の髪に負けないくらい輝かせる。
団員たちは皆たしなむ程度の赤ワインとエールを口にしながら、今日の成果を揚々として語り合い、起きた出来事などを楽しそうにさえずっている。
テーブルにはサーモンのパティやチップス、牛肉と野菜のスープなどが並び、このささやかな勝利の宴を盛り上げていた。
好物の赤ワインを飲みながら四角いそばかす顔を御機嫌に染めるマーサ・クラフを見て、リタが痛む腰をさすりながら言う。
「ほんっとに……、みんな体がでっかいだけあって力あるわよね。
マーサなんてあの満杯のバケツ、四つもぶら下げて往復して……、
あたしには到底できっこないわ」
ハンクは昼間に見た、バケツを両手に持ってふらふらするリタと、その倍の量を抱えてずんずん歩くマーサとの対比を思い出して大笑いした。
リタが毛を逆立てる猫のように牙をむく。
「笑いごとじゃない! おかげで今から腰が痛いのよっ!」
「ええ? でもハマムではマッサージしてもらったんでしょ?」
「だから痛いんじゃないの!」
ハマムでの強烈なマッサージに一人だけ泣きそうになったと言うリタを、マーサが太い眉をひょいと上げてから豪快に笑う。
「あのくらいで痛いだなんて、まだまだ若い証拠だよ!
気持ち良かったじゃないか」
「言われなくてもあたしは若いのよっ!」
リタに「あんた来なくて正解だったわ」と言われながら、ハンクは昨日まで愚痴ばかりで反抗的だった看護婦団員が、蓋を開けてみれば有能な看護者たちだったのだと見直した。
「婦長もどうして来なかったのか」
と問う団員たちに、フローレンスは
「残念な事に、仕事が思ったよりも長引いたのです。
けれど次の機会には是非にも行きたいわ。
……私にもそのマッサージが合うといいのだけれど」
と笑っていた。
食事もそろそろ終わるという頃、終始にこやかに食事をしていたフローレンスが、金属製の皿をフォークで叩いて注目を促した。
全員の視線を受け、立ち上がった彼女は誇らしげに背筋を伸ばして話し始める。
「皆さん、今日は本当にお疲れ様でした。
明日からは本格的な看護が我々を待っています。
医者から治療計画書が届いたので、明日は早朝からこの計画に従って、
私たちの看護方針を決める座談会を設けましょう」
やっと念願の看護ができると意気込み、今までの確執を溶かした団員たちが一斉に沸きあがる。
フローレンスはそんな彼女たちを優しく見つめ、穏やかな口調のまま続けた。
「とはいえ、まだ勝手に看護する事は許しません。
必ず医者の指示を仰ぎなさい。
けれど医者が『できない』と言っても簡単に引き下がるのではなく、
きちんと理由を聞き、不服があればその場で医者に伝える事。
そうでなければ後で私に言いなさい」
団員一背の高いジェイン・ショー・スチュアートという看護婦が面長の顎に垂らした肉垂れを揺らし田舎臭く笑うと、自慢の厚い大きな手で長い腕を叩く。
「なぁに、今までの事がたっぷりあるんだ、
婦長の手をわずらわせたんじゃもったいないよ!」
ジェインの割れるような大笑いに、団員たちもどっと沸いた。
いつもは控えめの修道女たちも「私もそうしちゃうわ」などと笑い合って、部屋中に和やかな雰囲気が溢れていく。
自身もくすくすと笑っていたフローレンスが、この温かな空気を遮るわけでもなく手を叩き、全員の注目を自分に戻す。
「これからは皆さんが患者の傷の手当てから入浴介助、
床ずれ防止の寝返り補助まで一切を行う事になるでしょう。
必要なもの、足りないものがあったら必ずリストを作って申請しなさい。
医務官に出した申請書と同じ書類を私にも出すように。
届いた品物がきちんと合っているかを確認してから、看護の現場に回します」
フローレンスの話を聞く団員たちは、一片の迷いもなく瞳を輝かせていた。
明日からのやりがいに満ちた仕事を思い、互いが微笑み合う。
フローレンスは彼女たちの意気込みに溢れた表情を満足そうに眺め、さっと肩の力を抜いて言った。
「さぁ、今日はこの辺で仕事の話はお終いです。
これからミセス・ブレースブリッジと家政婦のクラークが皆さんにお給金を配りますから、きちんと管理するように。
送金する者は封筒に入れて封印をし、
名前と金額を書いたメモを添付してから私に預けて下さい。
私の名で一まとめにしてイギリスに送ったほうが、郵便事故にあわずにすみますからね」
送金という言葉にハンクはカミーラ伯母との約束を思い出す。
給金は必ず伯母のもとへ送るよう言われていたからだ。
フローレンスの説明はなおも続く。
「送金の封筒はいったん私の叔父の家に着き、そこからそれぞれの宛先へと送り出されます。
送料は私が負担しますから、中身が一ポンドであっても気兼ねなく送金して下さい。
封筒内に、たった一言でも手紙を入れると尚よろしいですよ」
フローレンスの説明とともに、ブレースブリッジ夫人とクラークから丁寧に給金が配られていく。
手にした一人一人が、それぞれの思いを胸に喜んでいた。
疲れた疲れたと言っていたリタも給金を手にした途端、飛び跳ねるほど元気になった。
彼女はまだ封を開けてもいないのにその厚さに興奮し、ハンクを遠慮なく叩いて叫ぶ。
「ちょっと! サムこんな!
どうしよサムっ、やっぱあたしってツイてるっ!
人生ところどころツイてるぅぅっ!
きゃーーーっ♪」
誰よりも大騒ぎするリタに閉口しながらも、ハンクは確かに分厚い封筒に驚いた。
給金が行き渡ったことを見届けたフローレンスが、自室へ帰る支度をしながら席を離れる。
「では、私は部屋に戻って今日の記録を作成します。
皆さん、明日からは看護が中心です。
新たな気持ちで頑張りましょう」
鼓舞された団員たちは、部屋を出ていくフローレンスに揃って快活な返事をした。
あれほど嫌がっていたリタすらも、実に調子良くその中に紛れていた。
【ハマム】
いわゆるトルコ風呂です。日本でのイメージでそう言うと、トルコの方々がお怒りになりますので要注意。
御当地では、サウナでふやけた客の体を店の従業員が洗ってくれるという大衆浴場なのですが、これがかなり強めのマッサージつきだそうです。店によっては客の性別に関係なく、おっさんが洗ってくれるところもあるとか。なんてフリーダム。
当時のヨーロッパ人は、街では黒いベールで顔の半分以上を隠して、肌だって露出してないイスラム系の女性が、ハマムでは恥らうこともなくみんなで素っ裸!ということに、何とも言えない衝撃を受けたそうです。これは日本人にも言えそうですよね。奥ゆかしい日本人だって、江戸時代の銭湯は男女混浴だったわけですし。
男女が裸になる公衆浴場が御淫ら交流の温床になるというのは、ヨーロッパでは特に強く懸念されていたようです。御淫らを大罪の一つとするキリスト教では、数回入浴というものを取り入れてはみたものの度重なる御淫ら事件に、とうとう教会が禁忌の方向へ持っていってしまったのだとか。「入浴なんて…神に背く不道徳です!」っていうことにしちゃったらしいのです。
だから入浴しないのが普通であり、健全であったのです。(確かヨーロッパの内陸あたりでは、湯につかる入浴は人生のうちに3回だけだったとか。生まれた時の産湯、結婚初夜の禊、死んだ時の湯灌だけ!)
それ以降、シャワーが発明されるまでは、なかなか入浴しようとしなかったみたいです。シャワーは一人で入るので不道徳じゃないと見なしたのかな。なのでキリスト教徒の多いアメリカなんかでは、今でもシャワーが主流なんだとか。




