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命と戦った女(ひと) フローレンス・ナイチンゲール  作者: ぐろわ姉妹
第4章 働くことを許された看護婦団
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2話 完全清掃

 十数分の打ち合わせの後、各作業のチームリーダーによってフローレンスの計画は驚くほど効率的に執り行われていった。


まずは運搬役のトルコ人人夫によって廊下の一番奥から百人程度の患者たちが運び出され、病院内に数箇所ある座浴槽か、外に臨時で設置された簡単な小屋に運ばれる。


そこで患者は看護兵と入浴係のトルコ人人夫たちの手によって軍服やブーツを脱がされ、その痩身を汚している黒い垢と新聞の文字のごとくびっしりとたかる細かなヒトジラミを、何ヶ月ぶりともなる石鹸と温かい湯を掛けながらの入浴でゆっくりと落とされていく。


 兵士の入浴が始まると、脱いだものは全てトルコ人人夫の子である青年たちによって病院の外に運び出され、彼らの母親により海水での粗洗濯と焚き火にかけた大鍋での煮沸が行われる。


下着も、軍服も、ブーツでさえもがその対称とされ、病院の玄関先はまるでどこかの温泉地のように真っ白な蒸気と温かな空気で包まれていた。


 煮沸の終わった物はきちんと個人別にまとめられて、兵士の妻たちが待つ洗濯小屋へと運ばれた。


妻たちは大きなボイラーをフル活動させながら、届いたもの全てを洗剤でしっかりと洗い、小屋の中やその周囲に張り巡らせたロープへと次々に干していく。


寒風にはためく洗濯物の群れには、尊厳を取り戻したとばかりに本来の鮮やかな赤色を放つ、イギリス陸軍の上着が幾つも揺れていた。


 一方、患者のいなくなった病室と廊下では、清掃班による清掃処理が一斉に行われていた。


病室内から廊下へと掃き出された汚れは、そこに満ちていた汚物類と共にスコップでバケツへと溜められ、いっぱいになると外の大穴へと空けられた。


それが終わると、団員はまだ患者のいるエリアとの境を廃棄用のリネンで目止し、汚水を吸ってベトベトだった漆喰の壁を洗剤水とブラシでこすり、たっぷりの熱湯で壁面を流した。


そうして床板に少々の洗剤を落としてデッキブラシを掛け、汚れた水を丁寧にモップで拭き上げると、そこに顔を出すのは正常な木目とさっぱりしたタイル地であった。


仕上げとして床材に防虫剤を擦り込む彼女たちの顔には、汗にまみれた笑顔が見える。


この流れるような労働のおかげで、病院内はみるみるうちに綺麗になっていった。


 藁の詰まった簡易マットレスを担いで運び込んで来たトルコ人人夫が、その驚くべき激変に目を見張り彼女たちを称賛した。


汚物まみれのリネン類を手に病院内外を往復していたハンクが足を止め、絶賛の言葉を表現し続ける彼の晴れやかな顔を見つめる。


それはいつぞやの搬入で兵士を床に振り落としたタンカの男であった。


ハンクは溢れて来た温かさに切なくなり、後悔を胸に呟いた。


「そうだったのか……、

彼らもそうだった、それだけなんだね」


 憂いを秘めた瞳で過去の暴言を詫びたハンクは、今までの環境がどれだけの人間を苛立たせて理不尽にもしてきていたのかを一人静かに痛感していた。


 ハンクの見つめた先では、洗い清められた廊下にマットレスが並べられていく。


隣との間隔は僅かに五十センチほどでワイン樽倉庫のような窮屈さではあったが、誰もそれを不満には感じていなかった。


 その頃、フローレンス率いる看護班は特に活き活きと輝いていた。


医師の指導を受けて入浴を終えた真新しい下着姿の患者から、ふやけたガーゼを解き傷口の汚れやウジなどの異物を除去した後、必要とあれば医師の処置を手伝いつつ薬の塗布をし、清潔なガーゼと包帯で美しく包みあげる。


彼女たちの後ろでは熱心な看護兵が患者の病状を入院患者記録として書面にし、所属部隊や氏名に出身地までもをひたむきに書きとめていた。


 手当てを終えおろしたての病人服を看護婦団に着せて貰った患者は、順繰りに目止めのある場所までトルコ人人夫が運んでいき、そこからマットレスまでは足のきれいな看護兵が運び入れた。


 この一通りの作業を二十回ほど繰り返し、兵舎病院内の完全清掃は夜の帳とともに一旦の終了を迎えることができた。


数ヶ月間兵舎病院を蝕んでいた不衛生さは完全に解消され、深刻だった物資不足は最低限の値まで回復していた。


誰もが舌を巻くフローレンスの人員配備は驚異的に冴え渡り、作業員の不足やだぶつきなどは常時一切見られなかった。


最後の患者が病院内に消えた後、すぐさま彼女は全援軍に約束通りの給金を支給し始めていた。


 フローレンスは彼らに外の後片付けを頼みながら兵士の妻たちには明日の朝また同じように洗濯仕事に来て欲しいとお願いし、病院の中へと帰っていった。


玄関の床に大きく敷かれたブラシ地のエントランスマットで丁寧に靴底の泥を落とした彼女は背を正し、見違えるほど綺麗になった病院内をゆっくりと見回した。


 鼻をつく汚物の山がなくなったことで、既存の鉄製ストーブが腐敗を恐れることなく随所で焚かれ始め、病院内は適正な温度になっていた。


悪臭は随分緩和され、患者の傍らには新品の洗面用具やおまるなどが置かれている。


唸るほどに飛び交っていたハエは外に追い立てられていなくなり、床を這っていた南京虫やネズミなどは根絶的な駆除ができていた。


フローレンスは目を閉じて耳をすまし、以前は轟きのようだった患者の呻き声を思い出す。


いまやそよ風ほども聞こえて来ないその声をしっかりと耳に焼き付けながら天を仰ぎ、控えめに目を開けたフローレンスは小さな声で一人呟いていた。


「今から本当の試練が始まるのです……。

私は、どんな試練がこの身に降り掛かろうとも、決して臆する事なく立ち向かってゆきます……!」




【19世紀当時の、イギリス国の不潔さ】

 これは有名な話でしょうが、当時のヨーロッパ人は、おまるに溜まった糞尿を家の裏や路地にそのままポイ捨てする豪快さを持っていました。イギリス人もその例外ではなく、ロンドンの街だってそりゃあもう、ちょっと端を歩こうものなら確実に人糞踏んじゃう状態だったそうです。


 汚物を介して蔓延するチフスやコレラなどがヨーロッパで爆発的に大流行するのも、こういった習慣が原因の一つになっていたのでした。


 そんな悪循環を断ち切ろうと政府が立ち上がり、1842年ごろに上下水道の整備をしようと動き始めました。


 が、しかし、街の人々は大金を支払ってまで衛生を手に入れる意味が理解できず、怒涛を組んで政府に猛反発しました。「政府に衛生を押し付けられるくらいなら、私たちはコレラにかかって死ぬ方がましだ!」すごい主張ですが、当時の民衆は大真面目です。結果反発は聞き入れられ、イギリスの街から衛生は、しばしの間遠ざかってしまいました。


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