8話 恐怖
「水……水を……」
金銭を取られた兵士は、まだあの看護兵が近くにいると思っているのか、虚ろな目でずっと「水を」と懇願し続けていた。
廊下の奥へと進んでいた看護婦が大きく欠けた柱の前に差し掛かってそれに気がつくと、先へ進もうとする歩みをためらいがちに狭めた。
彼の周辺で同じように寝転がる兵士たちは、誰もが動かず、皆死んでいるように見える。
そんな中から聞こえて来た悲痛な訴えに、看護婦は銀色のスープ皿を見つめた。
そして落ち着きのない様子で辺りをうかがったかと思うと、急いで兵士の傍らにしゃがみ込んだ。
リタがハンク越しに看護婦を見据えながら、彼女がしようとしていることに小さく首を振って言った。
「バカね、どうせ死ぬのに」
リタの嘲りを、責めなじりたい思いでハンクが振り向く。
するとリタは視線だけをハンクに移し、抑揚も、感情すらないような声で言葉を続けた。
「ねぇサム、私たちが医者を考え直させようなんて無理なの。
看護したいなら、あんたもあの娘みたいに勝手するしかないのよ」
ハンクはそう突きつけてくるリタと、背後の看護婦との間で板ばさみとなりながら、対照的な存在の二人を交互に見つめた。
混迷する視線の先では皿を傾けつつ静かに声をかける看護婦が、兵士を見つめながら一箇所に集まった僅かなスープをスプーンですくっている。
ハンクは迷った末にとうとう堪えきれなくなり、床に捨てられていた汚い毛布を手に取って走り出した。
そして両足のない兵士の傍らで立ち止まり、彼と看護婦との光景を、広げた毛布の後ろに隠してやった。
「!?」
驚いてハンクを見上げた看護婦は、目の前でゆっくりと畳まれていく毛布にハンクの意図を理解して、すぐさま兵士の口に鉄製のスプーンを近づける。
もう少しでスープの掻き入れられた小さなスプーンが傾けられる、というところで、彼女の背後からは厳酷で聞きなれた足音が無情にも近付いて来た。
ハンクが足早に駆けて来るそれに気が付き振り向いた視線の先では、飛んで来たフローレンスが看護婦のスプーンを荒々しく掴み止め、素早く取り上げる場面が映っていた。
怯えて見上げて来る看護婦の隣に立ち、フローレンスはスプーンの皿部分を力強く握りしめながら、怒りの形相と静かな声で威圧した。
「何をしているのです、勝手は許しませんと、いつも言っているでしょう!」
握った手を憎々しげに震わせるフローレンスの様子に、涙を溜めた看護婦は恐れと悲しみから顔を歪めて乱れる息に喘いでいた。
握った掌中から固そうにスプーンを引き抜いたフローレンスが、看護婦に向かって無言のままそれを差し返す。
その強い目は、早く持ち場へ戻るよう看護婦に要請していた。
その間も水が欲しいと繰り返していた兵士を悔しそうに見つめた後、看護婦は震える体でスプーンを受け取り、逃げるように看護婦塔へと駆けていった。
落胆を背に去っていく看護婦の姿を、歯を食いしばったハンクの悲しげな瞳が見送る。
フローレンスが頑固になる理由は解るものの、息も絶え絶えの兵士が力を振り絞って要求する言葉は、こんなにも軽んじられてよいのだろうか、ハンクはもうそれしか考えられなくなって、いまだ拳を解かないフローレンスに意見した。
「婦長……、ここにいる全員が、名誉の負傷なんです……。
早く、早く……助けてあげてください……」
ハンクの大きく見開かれたアッシュグレーの瞳から、透き通るような白い頬へと一筋の思いが伝って落ちていた。
ハンクの言葉に冷淡な表情を上げたフローレンスは、怒りのこもった声をハンクに向ける。
「言ったはずですよ、サマンサ。
絶対的な成功以外、成功ではないと。
万が一あのような場面を軍医長に見られたら、
あなたたち看護婦団はどうなります!
私たちを送り出してくれた政治と国民はどうなります!
……あなたなら、理解できると思っていたのですが」
兵士の横に跪いたままこちらを見上げて来るフローレンスを、ハンクは初めて心から憎く思っていた。
(本当はこの人、ジョン・ホールと結託して看護婦団員に嫌がらせをしているのでは……?
婦長の規則はここまでして守らなきゃならないのか……?
そうだよ、何でこの人は医者と戦って看護の自由を勝ち取らないんだ!)
自分が無力なのではなく戦うことすら許されない、というこの状況にハンクが爆発しそうになった時、突然尋常ではない咆哮が院内の喧騒を吹き飛ばした。
「!!」
飛び上がったハンクが振り向くと、そこには驚くべき光景が繰り広げられていた。
数人の医師たちが、糞尿だらけの廊下に寝かされたままの患者を押さえつけ、麻酔もなしに片腕の切断を行なっていたのである。
力任せに押さえつけられ弓鋸で腕を切られていく患者からは、更なる断末魔の叫び声と大量の血しぶきが噴き上がっていた。
想像を絶するであろう兵士の痛みは、健全なハンクの手足をも蝕んでいく。
憧れの戦士が家畜以下の扱いを受ける現実に、ハンクの呼吸は加速度的に乱れていった。
もしも兄ドルスが同じような目に、と思った瞬間、ハンクは遂に堪えきれず、とめどない涙を溢れさせていた。
(どうして……!
一体どうすればいいんだ!
兄さん! 兄さんっ!)
頭の中を切り刻みながら駆け巡る思いに、ハンクは激しくしゃくり上げていた。
(こんなところにいたって何にもならないじゃないか!
できることもないなら、俺はもう――)
むき出した目から涙を流し、がちがちと歯を鳴らすハンクが、まさにこの空間から飛び出そうとした刹那、
フローレンスの後ろから、喉の鳴る微かな音が聞こえて来た。
「――?」
この騒がしさの中でなぜ聞こえたのか説明できないほどの小さい音に、身を貫かれたハンクがフローレンスを見やる。
するとフローレンスの体からはごくかすかな強張りが昇華され、表面上何も変わらぬ彼女の表情からは慈悲深い患者への愛が溢れ出ていた。
フローレンスは患者を振り返りその心臓の辺りに優しく手を乗せると、優しい声色でそっと声をかける。
「大丈夫ですよ。
もう少しの間、辛抱していて下さいね」
フローレンスが見せた僅かな豹変にハンクは取り乱していたことも忘れ、一瞬にして彼女の全てを理解させられていた。
握られ続けていたフローレンスの拳と今濡れている兵士の唇とが、それを一層深いものにさせる。
フローレンスが気品高く立ち上り、身を固めたままのハンクに言った。
「サマンサ、忍耐の先にこそ、私たちの成功があるのです。
規則を守りなさい」
彼女の表情には一つの非難もなく、ただ「自分も悔しいのだ」と語っているようだった。
玄関へと去っていくフローレンスと入れ替わるようにしてやって来たリタが、呆然とするハンクの肩を抱いて訊ねる。
「怒られたみたいね。
やるならもっとこっそりやらないとダメよ。
……大丈夫? サム」
「………………うん……、ちょっと部屋に戻る……」
ハンクは弱々しくリタに返事をしながら、看護婦塔へと走り出した。
(……レディがこんなに頑張っているのに、
男の俺が何もしないまま逃げ帰ろうとしたなんて
……そんなの許されるものか!
俺だって何としても、ここで立派に看護しなくちゃ!
どの団員よりもたくさんの兵士を救って、すぐに俺も立派な兵士になるんだ!)
そう決意しながらハンクは、フローレンスが誰よりもこの状況に義憤し、それを押し殺しているということを感じていた。
そしてその怒りと悲しみたるや、取り乱した自分のものより数十倍強くあることも。
レディ・フローレンスは不平を愚痴ることも、隠れて泣くことすら、自らの身に許してはいない。
苦しみで彩られた彼女の強さを理解したハンクは部屋の奥にうずくまり、自分の弱さと浅はかさに声を上げて泣くことしかできなかった。
【フローレンス・ナイチンゲール(34)】
彼女はジェントリの家に生まれ、父の教えによって膨大なる勉強を吸収し大きくなりました。そのためか彼女は男以上の知識を持ってしまい、優雅に暮らす事だけが求められていた「レディ」とは合う話も合わなくなってしまうのでした。
レディの生活に嫌気がさしていたフローレンスは、素晴らしい女性が働ける良い職業を求めていました。結婚して家庭に入り、男家族の奴隷よろしく華やかに過ごすのは、彼女にとってぞっとする未来だったのです。
彼女はふとしたきっかけで訪れた「病人の世話をすること」に、ただならぬやる気を自覚していました。レディとして抑圧された生活の中、全家族の反対をかわしながら部屋にこもっては独学で看護のことを勉強していたのです。いつか訪れるであろう「小さなチャンス」のために。
そして何十年もの間我慢し通した彼女に、友人であったハーバート大臣から「スクタリ派遣看護団」の話が舞い込むのでした。




