7話 嵐の日
患者数が二千人にもなろうかというこの状況であっても、看護婦団員は患者を運ぶことさえ許されなかった。
できるのは励ましの声をかけることだけである。
玄関から暴風雨に霞む外を覗けば、急なぬかるみの坂を様々な方法で運ばれて来る傷病兵たちの長い列が、途切れることなく続いていた。
ハンクも他の看護婦にならい、ロバやらタンカから下ろされたばかりの患者に声をかける。
「大丈夫ですよ!
病院に着きましたからね。
助かりますよ!」
病院内の喧騒に負けぬよう大きな声で呼びかけるが、患者の大半は意識も朦朧としていて返事は期待できなかった。
もう当然のごとく冷たい廊下の上に並べられていく傷病兵たちは不気味に増え続け、雨に濡れた彼らからはいつもより大量の血が流れ出てしまっていた。
素焼きタイルの上はみるみるうちに赤色の水溜りができ、その上をトルコ人人夫が泥に浸かった足で配慮もなく通っていく。
ハンクの呼びかける患者の隣に新たな患者が寝かされ、その首が絶命したかのようにこちらに転がった。
湿った獣臭のなか、彼のむき出しの傷口が黄色く膿み、腐った肉にはミチミチと音を立てて這いずり回るウジの群れが見える。
生気なく半開きになった目は乾燥し、表面の粘膜には皺が寄っていた。
こちらを向く虚ろな視線に射抜かれたハンクは、強烈な吐き気を催して思わず目を逸らす。
「……うっ……!」
ハンクのえづく背後で、病院の看護兵たちが傷病兵の両手足を持って回廊の奥へと運んでいく。
トルコ人人夫はその空いたばかりの隙間を見つけてやって来ると無頓着にタンカを反転し、患者を廊下に振り落とした。
患者が廊下に顔面を強打し、タイルと歯が激しく打ち合う嫌な音をあげる。
「!」
ハンクがこびりつくような音にびくりと飛び上がり、真っ青な顔を上げた。
およそ丁寧さなど存在しない手際で、トルコ人人夫は騒音の中を戻っていく。
落とされたまま動かない彼の体をハンクが恐る恐る仰向けにすると、唇は大きく裂け、折れた前歯からは赤黒い血が溢れるように流れていた。
ハンクは息を飲み、震えながらリタのもとへと駆け寄っていく。
「リタ!」
首でも絞められたようなハンクの叫びに振り向いたリタは、飛びついて来た彼の両肩を正面から掴みなおす。
リタが心配してうかがったハンクの口元は、尋常ならざるほどにわなないていた。
「どうしたのサム! 顔が青いわよ!」
ハンクは眉をひそめてくるリタを瞬きもなく見上げ、彼女がなだめても治まらないほど体を強張らせた。
ハンクは恐ろしさにいうことを聞かなくなった掌で何とかリタの腕を握りしめ、周囲を埋め尽くす惨状に恐怖の顔を歪める。
「……兵士が……兵士が毎日増えていく。
これじゃ治療も追いつかない!
トルコ人の乱暴さにも殺されている!」
国のために戦って名誉の負傷を受けた兵士、それを敬いこそすれ見殺しにしているなど、ハンクは今の今まで溜め込んで来た怒りが腹中を焼き焦がすのを感じ、衝動で全身を震わせた。
「愚かな医者め、
何で国の尊い戦士たちを殺してまで、私たちに嫌がらせをするんだ!
たった一言、手伝えと命令すれば、どれだけたくさんの戦士が助かるか!」
だがこれを見たリタは案じていた表情を一気に緩めると、掴んでいたハンクの肩を厄介とばかりに突き離した。
そしてわざとらしく子守じみた声色を作り、彼の両頬をからかってなで回す。
「サァーム、女がそんなレジスタンス崩れみたいなこと言ったって何も変わんないわよ~?
医者が悪いみたいに言ってるけど、
それなら犬みたいに従順なあのレディも相当じゃない?
サムがそんなに助けたいなら、勝手に看護しなきゃ無理よ」
他人事のように言ったリタは、「あぁ心配して損した」などと呟きながら腕を突き上げて背筋を伸ばす。
足元に流れて来た血の川を避け、顔をしかめてスカートを持ち上げるリタの様子に、ハンクは失望して唇を噛みしめた。
看護婦という立場では患者に何もしてやれないという現状を、リタだけが難なく受け入れているように見え、ハンクはやるせなさで胸を詰まらせた。
どうにもならない状況がただ横行するだけの廊下を見渡すと、はるか長い廊下の端から頭を壁に向けて並べられてきた傷病兵の列は、あっという間にその最後尾を看護婦塔の前まで伸ばしていた。
回廊を慌しく行き交う人々も、窓から見える嵐の空も、耳が割れんばかりの怒号を容赦なく撒き散らしていく。
天井を埋めるわんわんとした反響に、地を這うような呻き声が折り重なり、この意味を成さない爆音の襲来がハンクの胸を執拗にかき乱した。
苦しさで胸を押さえるハンクの視界に、院内で勤務する老いた看護兵が映った。
無秩序に交差する人影の彼方で、酒瓶を手にしたその老人は紛れる素振りもなくふらふらとしていた。
まるで市場で品定めでもするように並んだ傷病兵を見て回り、時折横たわる体を足で突いたりしながら覗き込んでは過ぎていく。
そして彼は大きく欠けた柱の前で立ち止まると、両足の切断された負傷兵のもとにしゃがみ込み絶え絶えとなっている彼の呼吸を確かめてから、悪びれもせずに彼の軍服を弄って小さな包みを取り出した。
無精ひげの老いた看護兵は、おぼつかない手さばきで包みから引き抜いた金を勘定し始める。
驚愕の光景に、ハンクは怒りで目を見開いた。
「……あいつ! 何てことを!」
咄嗟に走り出そうとしたハンクの腕が、すぐさま乱暴に引かれて止められる。
痛いほど握りしめてくる指を振り向くと、無表情のリタがゆっくりと首を横に振っていた。
彼女の真意など測る余裕もなく、ハンクは思いのほか振りほどけない手に抑えられたまま、老いた看護兵を振り返る。
両足のない負傷兵は、去っていく看護兵に力なく片手だけを伸ばし、盗られた金よりも飲み水を欲していた。
しかしその吐息に擦れた要求は、酒に酩酊した老人には届かなかった。
老いた看護兵は酒をひとあおりし、更に先の獲物を選別するべくその場を後にしていく。
仁王立ちのハンクは、腹の底から湧き上がる怒りで震える拳を握りしめた。
老人が去っていくのと同時に緩まったリタの手を、ハンクが思いきり振りほどく。
「なぜ止めたの、リタ!
あいつ看護兵の分際で、負傷して動けない兵士から盗みをしていたんだ!
恥ずべき行為じゃないか!」
ハンクは陸軍兵士であるはずの看護兵が見せた、神へ背くに値するような不道徳を責め、悔しげな声を荒らげる。
辺りはすぐ隣にいても声が聞き取りにくいほどの喧騒だったが、リタの後ろにいた小柄な修道女だけは、彼の大声に驚いて振り向いていた。
彼女の視線が怒りに震えるハンクへと、心配そうに投げ掛けられる。
リタは冷たく無表情のまま平然とした様子でハンクに言った。
「サム、あんたはお嬢様だから解らないだろうけど、あのくらいのこと病院では普通よ。
私だってしてたわ。
盗っても盗らなくても、あの兵士は死ぬの。
たとえ水をあげたとしても、治療が受けられないなら死ぬしかないのよ。
どうせ使うあてもない金なら、私たちみたいのが生きる為に盗ったっていいじゃない?」
そう淀みなく言い切ったリタの大きな瞳は、悪びれもなくハンクの瞳を真っ直ぐに見つめていた。
彼女のヘーゼル色の瞳が、まるで良心など持ち合わせていないとでも言いたげに静止する。
ハンクは嫌悪に眉を寄せ、その突き放すような現実に絶望し言葉を失った。
リタの胸中に良心が眠っているのかどうか、それすらハンクには解らなくなってしまっていた。
沈黙するハンクの傍らで病室の扉が開き、重病人の朝食介助を終えたらしい看護婦が姿を現した。
彼女はハンクたちと同室の看護婦で、この数日ハンクに針仕事を教えてくれた優しい女性であった。
彼女は空になったスープ皿を手に看護婦塔へと戻っていくところだった。
ハンクの視線は失望に彩られたまま、力なく彼女の背を追っていた。
【トルコのオッサン】
本編とはまったく関係ないですが、トルコの男性は、男性同士であっても仲が良ければ手をつないだり、腕を組んだりするそうです。日本人からすると奇妙かもしれませんが、決してそういったご関係ではないそうです。
そして彼らにとってヒゲは、アイデンティティとも言える重要なもののようです。皆さんヒゲ面です。ヒゲのおっさん同士が腕組んでルンルン街を歩く姿は、(ぐろわにとって)大変心和む光景です。




