2話 十二歳の現実
大きな鉄柵で閉ざされた立派なオーベルト家の門をくぐり、長く続く見事な石畳を蹄の音も高らかに進むハンクが、整えられた枯れ芝生に手入れの行き届いた庭木、そして母親自慢のローズガーデンを通り抜けていく。
ひと月前までは誇らしく咲き競っていたバラたちも今は散り去り、残っているのは数輪の赤いオールドローズのみであった。
ハンクの進む終着点には、美しく重厚な佇まいの屋敷が建てられていた。
馬を下りマッシュキンスと言葉を交わしていたハンクに、庭先に現れたメイドが声をかける。
「お帰りなさいませ、ハンク様。
ドルス様よりお便りが届いておりましたよ」
それを聞くやハンクは急いで屋敷へと駆け込み、未開封の手紙が置いてあるはずのラウンジに飛んでいった。
大理石の彫像やら印象派の油彩画やらが飾られた絨毯張りの廊下を駆け抜け、オーク製のドアを勢い良く開けたハンクは、何よりも先に兄からの手紙を見つけてテーブルに駆け寄った。
戦場にいる兄ドルスからの手紙は、まず初めにハンクが開封し全員に読んで聞かせるのが習慣だったからである。
やや硬さに頼りのない封筒に記されている、兄らしく整った筆跡に指をなぞらせるハンク。
その後ろ姿に、ゆったりとした優しい女性の声がかけられた。
「ハンク、あなたって子はわたくしとのティータイムよりも乗馬のほうが大切なのかしら?
……まったくもう、やっと帰って来てくれたと思ったらひどい髪をして……。
ストレック~!
櫛を持って来て頂戴、ハンクの髪がた~いへん!」
育ちの良さを漂わせるのんびりとした口調に御機嫌取りの笑顔で振り返ると、ハンクは母親がティーを楽しんでいるソファーに元気良く駆け寄った。
そして蔦柄のベルベットが張られたそこに自分も腰を下ろし、甘えた仕草で口を開け、母の手にある食べかけのパウンドケーキをねだる。
ころころと笑い声を上げた母親はハンクの口にケーキを入れた後、我が子の頭を愛おしそうに抱き寄せた。
「ほんとうに困った息子だこと。
もう少しママのそばにいて、おしゃべりの相手をしてくれてもいいじゃないの」
ハンクは髪をなでられながら、母親のビクトリア朝らしく露出のないドレスと、ふんわりしたスカートに目を落としていた。
そこにあしらわれたすみれ色のフレアを穏やかな気持ちで眺める。
母につられておっとりとした気持ちになっていた彼に、メイドのストレックがそっと声をかけて来る。
「ハンク様。お髪をお梳きいたします」
母親の胸から身を起こしてソファーの背にもたれたハンクは、髪を梳こうと用意するメイドの姿を背もたれのふちに首をのせたまま上目になって見つめていた。
彼女は髪を乱れなくまとめて覆い布で包み、女主人のお下がりである地味なドレスに生成りのエプロンを締めている。
メイド然とした彼女がハンクの細い髪を梳き始めると、細かい葉が粉雪のごとく白い大理石の床に舞い落ちた。
そこへ立派な口ひげを蓄えた紳士がステッキ片手に現れ、分厚くて上等なコートを脱ぎながらハンクに訊ねた。
「手紙が届いたそうだな、ハンク。ドルスは何だって?」
髪を梳いて貰ったハンクが返答するよりも先に、母親の返事がほころぶ。
「あらあなた、お帰りなさい。
手紙はこれから開けるところなの。
……ストレック、主人に熱い紅茶を、ブランデーを一匙入れてね」
短く返事をしたストレックが屋敷の主であるオーベルト郷紳からステッキとコートを受け取り、小さく頭を下げながら「お帰りなさいませ、すぐに紅茶を御用意いたします」と告げて部屋を後にする。
ソファーから立ち上がったハンクは、暖かい暖炉の前に陣取り兄の手紙を開封した。
「親愛なる父さんと母さん、そしてハンク。
皆元気でいるだろうか? 私は元気です――」
はつらつと読み進めるハンクの脳裏には、兄の雄々しく逞しい姿が想像され、読み上げる声にも興奮が溢れていく。
当時イギリスはクリミア戦争に参加し、同盟国のオスマン帝国へ援軍を送り続けていた。
それは地中海の奥の奥、黒海に浮かぶクリミア半島へと送られ、最前線ではロシア軍との激しい戦いが繰り広げられていた。
戦争の発端は一八五四年三月、貧しさで頭の働かなくなったロシアが、ボスフォラス海峡を牛耳るオスマン帝国の艦隊を撃破するという、強硬手段に出たことだった。
ロシア国土は巨大ではあるものの、そのほとんどは極寒の永久凍土で、農業はおろか貿易すらろくに行えない土地であった。
そのためロシアはどうしても、あの忌々しい巾着のような黒海からボスフォラス海峡を抜け、暖かく実り豊かな土地での生活と、凍らぬ港での安定した貿易を欲したのである。
しかし兄からの手紙を読むハンクには、この戦争の起因など、たいして興味のあるものではなかった。
ロシアを地中海に進出させたくない自国イギリスやその同盟国フランスの抱く思惑すら、幼いハンクの理想とする騎士道にはまったくもって必要はなく、彼にとって戦争の情報など
『世界最強のイギリスが、オスマン帝国やフランスと一致団結して結成した正義の連合軍。それが悪しきロシア軍を迎え撃っている』、
という図式だけで充分であった。
「――状況は厳しいが、私は果敢に戦っている。
どうか心配しないで待っていて欲しい。
――だって、母さん!」
食い入るようにして長い文章を読み上げたハンクが手紙からぱっと顔を上げ、アッシュグレーの瞳を輝かせる。
「ねぇ父さん、俺も兵士になって戦場に行きたいよ!
俺も仕官したいんだ!
ねぇいいでしょう、父さん!」
自ら志願し兵士となった兄ドルス。
戦地にいる彼から手紙が届くことはハンクにとって、騎士への憧れがこの上なく揺さぶられてしまう原因そのものだった。
「そんな事を言うんじゃないと、何度も言ったはずだぞ」
兄からの手紙が届くたび彼の新しい武勇伝を垣間見るハンクは、やはり今日こそはと鼻息を荒らげて食い下がる。
「何で兄さんはよくって、俺じゃダメなの!?」
しかし毎回父親からは、一言一句変わることのない『決まり文句』が返って来るだけだった。
「お前はまだ十二歳だろう?
そんな幼い子供を戦争に行かせるわけにはいかんのだ」
年齢のことを引き合いに制されたハンクはへの字口で黙り込むと「いつもそうやって同じことばっかり言って」とうんざり顔で呟いた。
そして数ヶ月前までは必ず仲裁に入ってくれていた兄の存在を思い出す。
五つしか歳が離れていないにも関わらず自分と比べてずっと体の大きなドルスは、声も言動も大人と変わらぬ青年だった。
自分だってあと何年かすれば……とは思いつつも、やはり今すぐ戦争で功績を残したいという気持ちだけが日々膨れ上がり、ハンクは毎日のように仕官を両親に訴えていた。
しかし優雅にティーカップを傾けていた母親が、年齢の他にも仕官叶わぬととどめを刺す。
「兵士なんてママは絶対反対よ。
ハンクはドルスと違ってママ似なんだから、その可愛い顔に怪我でもしたらどうするの?」
そう言いながら邪気無く笑う美しい顔。
まさにダフネと賞賛してもいい、そんな母親の顔を色濃く受け継いでしまったことを、ハンクはこんなにも恨めしく思う瞬間はなかった。
母親は更に言葉を続け、ハンクの衝動を手折っていく。
「ハンク、あなたはそのまま美しい青年になってロンドン社交界の星になって頂戴ね~。
そして若くて可愛らしい裕福なお嫁さんを貰って幸せに暮らすの。
その後は絶対、食べちゃいたいくらい可愛い孫を私たちに見せてね。
それが戦場に行って戦うドルスよりも、何千倍と親孝行になるのだから」
そのシンプルかつ的確な言葉に、夫のオーベルトは大きく頷き、賛辞と同意の拍手をした。
どうしても諦めきれないハンクは、父親の足にしがみついて駄々をこねるように抗議をする。
しかしいつまでたっても、両親からは「諦めなさい!」の言葉しか聞こえては来なかった。
【ハンク・オーベルトの住まい】
イギリス南部のイーストボーンという場所を、ジェントリである父の領地として設定しています。イーストボーンで有名なのは、セブン・シスターズという海岸に面した白い絶壁。