6話 心の支え、病人食
ハンクが初めて針を持った夜から、数日が過ぎた朝。
スクタリの地には容赦のない暴風雨が訪れていた。
嵐にきしむ看護婦塔の二階部屋では、黒い看護婦用の制服に身を包んだハンクとリタが、同室の団員と肩を並べて大量のシーツを縫い合わせ続けている。
回廊からは絶えず患者の呻き声と悪臭が漏れ入り、変化のない日常の中でそれだけが唯一強さを増していた。
患者の苦しみが院内を飲みつくすほど溢れているのは、回廊の床に並べられた数百人の傷病兵たちが、たった数人の医師だけに委ねられていたせいであった。
圧倒的な人手不足に必要とされる治療が追いつくはずもなく、院内の死臭は日に日に濃くなっていた。
相変わらずの不揃いさでシーツを縫っていたリタが、突然身をひねって後ろを向き、苦しそうに数回えづいて咳き込んだ。
心配そうに背中をさするハンクに、もう大丈夫だと手を振るリタが向き戻って息を整える。
「……も、問題ないわ、
……臭いで気持ち悪くなっただけ……」
兵舎病院にやって来た初日に「こんな臭い、病院で慣れてるから平気」と言っていたリタも、赤痢やコレラに蝕まれた糞尿と、壊疽患者や負傷者から溢れ出す大量の膿、更には死んだまま何日も放置されている兵士の死臭には、頭を振った。
「リタ、台所で水をもらおうよ。
少し休んで、それからまた続けよう」
黒衣を身に着けて以来薄化粧になったリタを連れ、ハンクは昼でも薄暗い階段を降りていく。
ハンクが一階へ近付くほど年齢に相応した脛丈のスカート裾からは、ひんやりとした冷気が入り込んで来た。
他の団員と同じ長い丈のリタを羨ましそうに一瞥したハンクが視線を上げると、彼女の紅を弱めた唇が具合以上に青ざめて見える。
初日に馬房よりも小さいと思った水場に近寄ると、少し開かれている窓が悪臭を薄れさせていた。
更に素晴らしいことに、鍋から立ち昇る美味しそうな匂いが辺り一面に漂っている。
ちょうど窓からの明かりを受けた家政婦クラークが、薄青いドレスの袖をまくり、ささやかな病人食を作っているところであった。
「あら、来たのね?」
部屋から下りて来た二人に気が付き白髪混じりの頭を上げたクラークは、ハンクが言わぬうちに了解の笑顔を見せた。
渡された水を瞬く間に飲み干したリタが、肺の空気を入れ換えるかのように大きな深呼吸を繰り返す。
彼女の様子を心配そうに見守るハンクの、白布で覆われた看護婦らしい頭をクラークが愛しそうに笑顔してなでた。
「ほんとに、かわいい前髪だこと!」
ハンクは、ここ数日彼女から言われ続ける言葉に「かわいくなくてもよかったんです」と同じ文句を繰り返す。
フローレンスはハンクとリタに看護婦の制服に着替えるよう指示した時、リタには厚化粧をやめるように、ハンクには前髪を少女らしく切り揃えるようにと言いつけた。
大人用しかなかった制服を看護婦がハンクのために仕立てなおす傍らで、彼の前髪を恥ずかしいほど女の子らしく、真っ直ぐに切り揃えたのが家政婦のクラークなのであった。
この前髪が気に入らないと言ってずっと膨れ通していたハンクであったが、彼を見るたびに生涯の自信作と自画自賛するクラークには、もう諦めの溜め息を吐くしかなかった。
再び木杓子で鍋を混ぜ始めたクラークを見つめたハンクは、その看護婦団とは違うビクトリア調のドレスに、今や遠くなった実家を思い出す。
やんわりとした懐かしさに包まれたハンクが、何となしに彼女の傍らに歩み寄り湯気の立つ煮込み鍋を覗いた。
そしてその意外な中身に驚きの声を上げる。
「病人には牛肉か、牛肉の茹で汁が一番なのに、患者はこれを食べるんですか?」
クラークが混ぜるのは、薄白いとろりとした液体であった。
てっきり肉がぐつぐつと煮込まれている様を想像していたハンクは、病人食にしては奇妙すぎる鍋の中を怪訝な思いで凝視する。
彼女もハンクの反応を理解し、頷いた。
「そうね。
私も風邪で食べられない時は肉汁を薄めて飲んでいたわ。
けれどもフローレンス様は、
『そんなものにはたいした栄養はない、必要なのは小麦と野菜と牛乳だ』
とおっしゃってね、
それで牛肉の煮汁に、白パンと煮潰した根菜と牛乳を入れたこのスープが完成したのよ」
フローレンスが直々に作らせたという病人食を改めて覗き込み、ハンクがその決して悪くない香りに鼻を鳴らす。
近寄って来たリタも鍋を覗き、白い濁りの中を舞うがごとく対流する具材たちに、疑念の口角を歪めていた。
「初めて見るスープね……。
でも牛肉入れないなんて変なの。
ぜったい野菜より栄養あるわよ」
小皿で味見をしたクラークが、鍋に一つまみの塩を加えて言う。
「誰もがそう思っていましたけど、
この食事を食べた患者さんは次々病状が回復なさったの。
体が起こせるようになったり、壊血症が治った方もいらっしゃったわ!
はっきりとは解らないけれど、このスープは患者さんに良いみたいね」
もう一度の味見で満足げに頷く家政婦を見て、ハンクはスープがこれで完成したことを知る。
リタは腕を組んでまだ首を傾げていた。
「ふうん、変なの。
ま、いくら牛肉だって食べられなきゃ死ぬもんね。
昨日看護兵のキッチン覗いたら、大量の牛肉が戻ってきてたわ。
あんな拳みたいな塊じゃ、食べたくても食べられないわよね」
「看護兵の方はあれを患者さんの枕元に置く事が食事の世話だと思っているようですわ。
そのせいで多くの患者さんが飢えている現状を気にも留めずにね。
でもそれを知ったフローレンス様はすぐに軍医長さんと交渉なさって、
重病者にだけはこの病人食を食べさせてよいという許可をお取りになったのです」
そう喜び胸を張ったクラークだったが、コンロから下ろした鍋をゆるゆるとかき混ぜる姿には、滲み出る物悲しさがあった。
ハンクが少なすぎるスープを作るしかない家政婦を思って言う。
「……早く、患者全員に食べさせてあげたいですね」
クラークは唇を噛みしめて、強く深く頷いた。
まだ余熱でコトコトと泣く鍋の声は、僅かに開けられた窓から吹き込む荒々しい風の音に、無情にもかき消されていく。
ハンクの聞いた話では、重病人に手製の病人食を与えてよいとは言っても、それは医師から許可の出たごく少数の患者に対してだけ、ということであった。
医師たちのやり方は意地の悪いものであったが、それでも看護婦団員は嬉々として、到着の翌日から唯一許された『看護』を取り行っていたという。
だがその看護も、許可のない患者に施すことは婦長であるフローレンスが徹底して許さなかった。
ハンクはフローレンスの融通の利かなさに不満を募らせながらも、彼女の言う絶対的な成功を思い、男らしく我慢していた。
クラークは鍋にふたをすると、フローレンスに病人食ができたことを伝えるため、二人を残して階段を上っていった。
ハンクが、ふたの隙間から漏れて来る良い香りに思わず喉を鳴らす。
するとあつらえ向きに、ビスケットを二枚持った手が目の前に伸びて来た。
「食べる? お腹減ったでしょ」
リタは持っていたビスケットをハンクに渡し、ポケットからもう三枚のビスケットを取り出すと、もそもそと食べ始めた。
今まで人の物を盗むところしか見せなかったリタが、驚くほど自然に物を分け与えてくるので、ハンクは戸惑いながらおずおずと訊ねる。
「……いいの?」
「いいのよ、ここ食事少ないから。
……このビスケット、蒸気船で食べた豪華な食事のお返しってことで」
頬張ったビスケットでしゃがれ声をこもらせ、リタは調子のいいことを言って笑う。
とりあえず礼を言ったハンクは手に乗った二枚のビスケットに目を落とすが、そのいかにも粗悪な粉を練って焼いただけというお粗末ぶりに少々食い気をくじかれ、蒸気船での食事と引き換えにするにはだいぶ割が合わないと感じた。
しかし大仰に鳴る腹の虫が、背に腹はかえられないと諭し続け、ハンクは手にしたビスケットに大口を開けてかじりついた。
次の瞬間、湿気てもっそりとした食感と、酸化した油脂の臭いが彼の口中で炸裂する。
ハンクはつい、正直な言葉をこぼしていた。
「まずい……」
半開きの口で眉間に皺を寄せ痛恨の表情を見せているハンクに、リタがムッとして眉を吊り上げる。
「失礼ねサム!
あたしが自腹で買ったのよ、要らないなら返してよ」
ハンクは今にも吐き出しそうな表情のまま首を振り、まずいながらも何とか湧き出して来た唾液に任せ、ビスケットを飲み下した。
そこへ看護婦塔の扉越しにも聞こえるほどの、トルコ人人夫の叫び声が聞こえて来る。
傷病兵が到着したことを知らせる叫びに二人は顔を見合わせた。
同じく叫びの聞こえた看護婦たちが、騒がしく階段を降りて来て看護婦塔から次々に飛び出していく。
ハンクとリタも急いで手をはたき、患者には手も触れられない状況を憂いつつ看護婦団の後を駆けていった。
【病人食は肉】
19世紀のイギリスにおける病人食について調べてみると、
当時の病人食というものは、驚くべきことに「牛肉のゆで汁」というものでした。他にも、茹でた牛肉やら牛肉のスープやら・・・。イギリス人は「病気になったら、とりあえず牛肉食っとけ!」って考えていたような雰囲気でした。どんだけ肉が好きなんだと。




