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命と戦った女(ひと) フローレンス・ナイチンゲール  作者: ぐろわ姉妹
第3章 野戦病院に巣食う男尊女卑
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5話 フローレンスの使命

 シスター・バーサが負け惜しみを乗せるように三階の扉を閉じた後、フローレンスは真新しいシーツで山盛りになった大きなカゴを部屋に引きずり入れ、ハンクに言った。


「無垢な鏡ね。

己の愚行を映し出されては、シスター・バーサも逃げ帰るしかなかったでしょう。

……さぁサマンサ、このシーツを二枚合わせて袋状に繕って頂戴」


「い、いいんですか!」


「ただし雑用のみよ、看護はさせないわ」


 それでもぱあっと顔を明るくしたハンクに、フローレンスはにっこりと自然な笑顔を返す。


看護婦たちは縫い物という作業でも嬉々として受け取るハンクを見て、自分たちにも満ちていたはずの希望を思い出させられた。


自嘲的な顔を見合わせる彼女たちは、自分たちがいつの間にか失意に溺れていたことを「恥ずかしいわ」と笑いあう。


その傍らで、リタだけが面倒臭そうに肩を落としていた。


フローレンスは看護婦たちの様子を嬉しそうに眺め、他人のベッドにふてぶてしく腰を下ろしていたリタを呼びつけた。


「さぁ、リタもこれを繕うのです。

ここは私たちにとっての戦場なのですから」


 その言葉を聞いたハンクが、フローレンスの横顔を見上げたまま固唾を呑んで呟く。


「戦場……」


 フローレンスがハンクの視線に気が付き、その深いグレーの瞳を真っ直ぐに向けて静かな口調で話し始めた。


「医師たちが看護婦団の滞在を許可したのは、

私の後ろにイギリスの政治と民意があるからに他なりません。

これから彼らにどんな扱いをされようとも、

私たちはここに残らねばならない。

例え規則でがんじがらめになっていても、

今ここにいる、という事が重要なのです。

ここに居座れば、必ずそれを打破する機会が訪れるはず。

……それまでに私たちは、医師や病院、

果てはイギリス陸軍そのものからも信頼されなければなりません。

私たち看護婦団は、祖国にいる誰もが大成功だと誇れるような

絶対的成功を手にしなければならないのです」


 ハンクにはそれが、およそ女性の口から出た言葉とは思えなかった。


議論好きな自分の父親とやり合わせても、このレディは引けを取らないだろうということが感じられる。


彼女の語る言葉が子供であるハンクを言いくるめようというものではなく、ただ本音を語ってくれているということが、厳しくも嘘のない瞳からひしひしと伝わって来た。


 彼女の語った内容が任務として非常に困難であることは、幼いハンクでも想像がついた。


兵士ならば屈強な肉体で目の前の敵をなぎ倒し、息の根をとめてしまえばその功績は褒め称えられるだろう。


ところが看護婦は、傷付き消えいく命を救わねばならないのである。


ただでさえ大変なその仕事を、仲間であるべき医師らから邪魔されているのであれば、到底達成はできないように思えた。


困難な任務にこれほど毅然として立ち向かうフローレンスを、ハンクはただの嫌味な女性ではなかったのだと思い直し、彼女の思慮深そうな瞳を見上げる。


 フローレンスは引き締まった顔を見せ、団員たちに告げた。


「では皆さん、

私は他のシーツを各部屋に届けたのち、自室で書類の作成を始めます。

私も朝までには十枚のシーツを縫いますから、皆さんも頑張るように」


「はい、きっと看護できると信じて働きます!」


 フローレンスの考えを改めて耳にし、彼女と同じくきりっとした笑顔を見せる小柄な修道女が、受け取ったシーツを皆に配り始める。


修道女たちは口々に励ましあい、それに応えて微笑む看護婦たちも、今晩の作業を助けるべくランプの数を増やしていく。


 フローレンスは一人穏やかに笑んだ後、彼女たちの様子に頷き颯爽と部屋を後にした。


突っ立ったままのハンクのもとへやって来たリタが、近くの椅子に腰を下ろしながら溜め息を吐く。


「レディ・フローレンスは何考えてんのかしら。

勝手でもしなきゃ、ここでの看護なんて一生できないだろうにさ。

医者に逆らうくらいなんだって言うの? 

素直に待ってればあの医者たちが仕事くれると思ってんのかしら? 

意外に考え甘いのね」


 リタはハンクに向けてそうこぼし、肩をすくめて真っ赤な唇を尖らせて見せた。


フローレンスの出ていった扉を見つめ続けるハンクの手に、カゴから引き出したシーツを渡したリタは、テーブルに乗った裁縫箱を乱雑に弄る。


拙い裁縫を始めたリタの傍らで、ハンクは扉を見つめたまま呟いた。


「……いやそうじゃない。

目の敵にされているからこそ、完全無欠の生活を強いているんだ。

彼女はこの戦いで、一分の汚点だって残す気はないんだよ。

こんな巧妙で緻密な、それでいて挑戦的ですらある戦い方があるなんて初めて知ったよ! 

あの人本当に賢い……、まるで男みたいに」


 その言葉を「どうだか」と言ってあしらい笑うリタに、ハンクは向き直って座り込むとシーツを力強く握りながら熱弁した。


「看護婦団の敵は医師団なんだよ? 

敵は看護婦団を追い返したがっている、

追い返す理由を事細かく探しているに違いない。

勝手をすれば、それが追い返す理由になるのが目に見えているから、婦長は一切の勝手をしない。

黙って待機し、医師団が自分たちを助けてくれって言うのを待っている。

堂々と動くための機会を、今ひたすらに待つことで作り出しているんだよ!」


 ハンクの言葉にまったく興味のなさそうなリタは、シーツの縁に不揃いな縫い目を生み出しながら生返事を返す。


「サムが何言いたいのかなんてどーでもいいけど、あたしが言えるのはこういうことね。

つまりそれっておかしな作戦ってこと。

患者を助けにきたくせに、何もしないでいるなんて見殺しに来たのと同じじゃない? 

そうまでして医者が何か言うのを待つなんて、ばっかみたい」


 だから、と言いかけたハンクは去来した虚しさに口をつぐんだ。


そしてリタを改めて見つめ、「母さんみたいな反応だ」と思った。


戦士には心理戦も必要なのだということくらい、男ならば誰でも知っているのに、やっぱり女には解らないのだろうか。


そう実感すればするほど、レディ・フローレンスは女なのによく考えているのだと感銘した。


ハンクは素直に、レディ・フローレンスは噂に違わず凄い女性なのだと感心し始めていた。




【シスター・バーサ】

 看護婦団員たちは、病院に着いた瞬間から仕事ができると考えていました。本来ならば当然な話ですが、19世紀のスクタリ野戦病院においてそれは通用せず、かといって強行的に看護を進める訳でもないフローレンスの姿勢に、彼女は義憤していました。修道女である彼女をはじめ、幾人かの女性はこの時期のフローレンスを強烈に非難しています。


 彼女は実在の人物ですが、いつものごとく容姿や性格などはフィクションです。反対派という役割上、魔女みたいな鉤鼻になってしまいました。本当は美人だったらごめんね。

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