3話 執念の突入
「あなた方は帰りなさいと言ったでしょう」
ランプの明かりに照らされるフローレンスのぴんと伸びた背筋からは、決して曲がらない強固な意志が感じられた。
「もう夜なので帰れません!」
外が暗くなって来た頃、すっかり肌の泥を落としたハンクが答える。
あれから院内に放置され続けたハンクとリタは、中をうろうろするうちに兵舎の中庭にポンプを見つけ、泥に汚れた手足や顔を洗い流していたのだ。
濡れた顔を拭くハンクは窓の先にいたレディ・フローレンスと看護婦団員に気づくと、そっとリタの手を引き、ぞろぞろと同じ扉に入っていく一団の後ろに何食わぬ顔で紛れてやろうと試みたのである。
その計画は当然阻止されたものの、再度堂々と『看護婦塔』に入ろうとしてくるハンクとリタを、フローレンスは強く押し戻しながら言った。
「明日の朝、帰ると約束するのであれば、今晩だけは泊めてあげます」
フローレンスに対して一歩も引かぬハンクは、彼女の出した提案を瞬時にはねのける。
「帰るなんてできません。
看護婦団に入れてくれないのなら、病院内で勝手に寝泊りして勝手に仕事します!」
すっぱりと言い切ったハンクの言葉に、フローレンスの眉根が力強く寄った。
今日行われた五百人にも及ぶ傷病兵の受け入れで、ついに飽和状態となった病室のベッドは新しくやって来た患者のほとんどを拒んでいたからである。
行き場のなくなった哀れな患者たちは、ただの通路でしかない硬い床の上に放置され、その呻き声と悪臭を回廊中に漂わせていた。
動くこともできない患者たちは、幅約五メートル、一周七百三十五メートルという冷たい廊下に横たえられ、医師の診察を待ちながら糞尿を垂れ流しウジとシラミにたかられていた。
そんな状況を解っていながら随分と無茶を言うハンクに、リタは背後で「そんなことしたら、あんた一晩でたかられちゃうわよ」と茶々を入れた。
ハンクの頑なで真っ直ぐな視線をしばし受けとめたフローレンスは、厳格に寄せていた眉を困ったように上げて頭を振ると、小さな溜め息を切なげに吐く。
「ああもう、なぜこうなるのですか……」
一人呟いたフローレンスが、広い間隔で並ぶ廊下の小窓から夕闇を覗くように天を仰いだ。
そして今一度、ハンクとリタを信用ならないといった目で見つめなおす。
すると二人の後ろに伸びる廊下の奥で、患者を診察する数人の医師の姿が見てとれた。
一瞬視線を泳がせたフローレンスは、すぐさま決断してハンクの腕を引き、続いてリタをも引き入れる。
「……中で大人しくしていなさい、騒げばすぐに放り出します!
クラーク、二人を看護婦塔の二階部屋に」
そう言うとフローレンスはそのまま扉を出て外から鍵をかけ、悪臭の立ち込める真っ暗な廊下へと消えていった。
クラークと呼ばれた女性はブルネットに白髪まじりのまとめ髪で、やや年配に見える家政婦であった。
修道服とも看護婦たちの制服とも違う、薄青色のドレスに生成りのエプロンを身に着けている。
クラークは手にしていたランプで二人の顔を照らすと、ハンクにランプを手渡した。
「あなたたちの居場所を作るから、ここで少し待っていて」
そうして彼女は壁際にある階段をのぼり、上の階へと消えていく。
二人は彼女のやや細めな背に目を凝らすが、階段の先は日の暮れた廊下よりも更に暗かった。
床を這う虫の足音を聞きながら、リタがちらりとハンクを見下ろす。
「サム、あんた何ムキになってんのよ。
――あーあ、あたし帰るに帰れないだけなのになぁ……」
ハンクはリタを無言で見上げ、何を今更という顔を返した。
だがハンクも幽霊が出そうな暗がりにぞっとし、ほのかなランプを頼りに恐る恐る辺りを照らし出す。
ぐるりとかざした明かりが映し出すのは、部屋中に積まれたたくさんの木箱であった。
きちんと並んだ棚に整頓された木箱、見渡す限り箱ばかりの一角には馬房の半分もないであろう大きさの水場がある。
簡素ながらも鍋や簡易コンロ、木炭などが置かれているところを見ると、これは台所なのかもしれないとハンクは思った。
無骨な建物には、扉の隙間を通って廊下からの汚物臭と兵士の呻き声が漂って来ていた。
特にその呻き声は高い天井で恐ろしいほどこだまし、看護婦塔の中にも始終不気味に響いている。
ハンクが思わず気味の悪さからリタに一歩近付き、クラークの消えていった階段を照らす。
この倉庫から一刻も早く離れたくなっていた彼は、家政婦がなかなか降りて来ないことに焦れ、更に階段へと近寄ってもっと上を照らしてみた。
一旦振り向いて大人しく待っているリタが背後にいることを確認したハンクは、自分一人だけで階段の中ほどまで上ってみる。
ぐいと背伸びして照らした階上には、まだ上へ続く階段と、木でできた扉が一つあった。
それが開けてはいけない魔界への扉のように思え、ハンクは足を止めて固唾を飲む。
「さぁできたわよ。いらっしゃいな……」
囁き声がしたかと思うとふいにその扉が開き、クラークの顔を下から照らし出してしまったハンクは、思わず飛び上がりそうになった。
彼女がドアを開けたまま階下を覗き込み、中途で固まっているハンクに不審そうな視線を向ける。
ごまかしの愛想笑いを返したハンクは続く階段を足早に上りきり、リタも早くおいでよなどと嘯きながらクラークにランプを返していた。
招かれて二階の部屋へと踏み入ったハンクが、一歩入るなりその身を固めた。
「こ……、これが部屋ですか?」
これではまるで牢獄だ、と続きそうになった言葉を飲み、ハンクは改めて室内を見渡す。
通された部屋は中央で燃えている数本のろうそくのみでぼおっと照らされ、ごつごつした部屋の壁をどこか洞窟めいた雰囲気に見せていた。
室内ではその揺らめく炎に向かい、十人ほどの黒衣の集団が沈黙して縫い物をしている。
この光景はハンクにとって、ずっと前に読んだ物語の恐ろしい拷問シーンを思い起こさせた。
真っ暗な牢獄に幽閉された一人の囚人が、何十人といる番人から毎日毎晩、身の毛もよだつ拷問を受け苦しみ叫ぶという、子どもには刺激の強いものであった。
ハンクはひぃと声を出してしまうのを堪え、歯の間からかろうじて息を吸い込んだ。
四方の壁には等間隔にベッドが並べられ、ベッドサイドには私物を収めてあるのだろうか、質素なチェストが置かれている。
家政婦に促され更に部屋へ踏み入るが、ハンクは鼻をつくカビの臭いに咳き込んでしまった。
「……何だかすごい臭いだね、息苦しいくらい」
そう言って後ろから付いて来ているリタの顔を見上げると、彼女は特に何でもなさそうにくんくんと鼻を鳴らし、ひょいと細い眉を引き上げる。
「何言ってんのお貴族様。
これっくらい普通よ?
あたしがいた病院なんか屋根に穴が開いてたわ」
当時、町にある病院は決して清潔なものではなく、病という忌まわしいものを患った人間の隔離場所のようなものであった。
伝染のリスクを負ってまで病人の排泄物を世話する看護婦という仕事も、一般世間からは忌み嫌われた。
町の病院は、看護婦に就かなければ稼ぐことすらできない者が吹きだまる場所だったのである。
看護婦は誰もやりたくない仕事、蔑むべき仕事、およそ人の仕事ではない。
そんな価値観が世間を支配していたため、きちんと患者の世話をしようと志す看護婦など、少なくとも町の病院には存在しなかったのだ。
クラークが、部屋の一番奥へと荷物を置くよう二人に指示をする。
「私たちが来た初日はとてもひどかったの。
寝具も家具もなくて、床は虫とネズミとノミだらけ。
部屋の隅にはネズミの死骸が何匹もいたのよ。
私なんかあまりに恐ろしくて朝まで一睡もできなかったわ」
彼女は自分の腕をさすり、白髪まじりの頭を空恐ろしそうにぶるりと振った。
縫い物をしていた集団の中で一人丸々と太った修道女、シスター・エリザベスが、その滑稽な様子を見てくすくすと笑う。
黙していた他の修道女たちが、沈黙の禁を破ったとでも言うようにシスター・エリザベスをその視線でたしなめる。
口元を抑えて首をすくめたシスター・エリザベスは、まだおさまらない笑顔のまま縫い物の手を止めると、ハンクとリタに向き直りその可愛らしい声色を細めて言った。
「この病院はね、九月までオスマン軍の兵舎として使われていた建物なんですってよ。
いま私たちのいるこの塔は、病院の四隅に張り出している詰め所の一つなの。
縦に五部屋ある塔だけれど、一階はあの通り倉庫だし、
最上階は婦長と家政婦のクラークさん、同行者のブレースブリッジ夫人の三人がいて大事な荷物もあるわ。
残った三部屋で看護婦団三十八人が生活しているのだから、
住みにくいのは仕方がないのよ」
この暗い部屋の中で、一人だけ太陽のような笑顔を浮かべるシスター・エリザベス。
その丸い顔が本当の太陽に思えるほど、彼女の声もまた陽気だった。
シスター・エリザベスはここが兵舎病院であることなど忘れさせてしまうような満面の笑みで、ハンクとリタに椅子を差し出す。
「ねぇ座って座って!
私、エリザベス。
シスター・エリザベスって呼んでね」
「サマンサ・スミスです。よろしく」
「あたしはリタ・ヒン」
シスター・エリザベスは気さくで陽気な印象通り話すことが好きなようで、水を得た魚のように二人へと兵舎病院のことを色々と教えてくれた。
彼女の説明では、兵舎は三階からなる長方形で、その中心には閲兵場でもある大きな中庭が存在するということだった。
先ほど自分たちが手足を洗ったのがその中庭だったと知り、ハンクはそこから見上げた四角張ったドーナッツ状の建物を思い出した。
建物の内側、中庭に面した素焼きタイルの長廊下は、四方をぐるりと一周できる回廊になっているのだと聞かされる。
そこに新たな縫い物を抱えて部屋に上がって来たドレス姿の女性が、ふわりと編み上げた赤毛を指先で軽く整えながら言った。
「そのうえ回廊の外側には、百を超える個室が並んでいますの」
ブレースブリッジと名乗った蝶のようなこの夫人も、クラークと同じく黒衣ではなかった。
淡い桃色のドレスを着た彼女は、病室となっているその個室が、回廊と同じように各階を一周しているのだと教えてくれた。
「計三百あまりの病室と、三階に渡る回廊でございましょ?
ベッドのあるなしに関わらず単純計算しても、今この病院には千二百人以上の患者さんが収容されていますのよ」
「……千二百人以上の傷病兵を、たったの三十八人で……?」
ハンクが想像以上の過密さに声を上げ、同じことを思ったらしいリタと顔を見合わせる。
二人の耳には、回廊から漏れ聞こえて来る低い呻き声が響いていた。
【家政婦クラーク】
彼女はフローレンスが唯一私的に連れて来たという、優秀な家政婦です。クラークは、看護婦塔と呼ばれる宿舎内で病人食などの調理を任されていました。実在の人物ではありますが、容姿や性格などは相変わらずのフィクションです。ブルネットに白髪を交えた控え目な女性、というぐろわナイズを経て登場させました。




