2話 垂れ込める暗雲のなか
十一月五日にフローレンス率いるクリミア派遣看護婦団がスクタリの兵舎病院へと入った時点で、既にこの病院に設けられていた三百五十以上ある病室の、千数百床にも及ぶベッドは埋まりきっていた。
彼らは従軍記者ウィリアム・H・ラッセルがタイムズ紙に報じた、惨憺たる戦況の被害者たちであった。
戦いによって負傷や傷病した彼らは、満床を理由に受け入れを断られた前線の病院から船に乗せられ、この兵舎病院を埋め尽くしたのである。
それでもまだお構いなしに続々と運び込まれて来る傷病兵たちは、今から二週間ほど前の十月二十五日、アルマより五十キロ南下したバラクラヴァで起こった戦いの犠牲者で、彼らはこの満床となった兵舎病院に毎日のように押し寄せて来るのであった。
廊下の奥へと消えていくシスター・バーサを眺めていたシスター・エリザベスが、そのふくよかな巨体を揺らしてフローレンスを振り返った。
「婦長、私たちはいつまで待てば患者を看護できるのでしょう……
来る日も来る日もトイレ掃除と針仕事ばかり」
比較的小柄な修道女も、胸に手を当てながら小声で訴える。
「若い医者は、もう諦めて治療をさぼっている人も見掛けます。
看護兵だって、こう物がなくては仕事もできません……!
せめて、婦長所有の包帯だけでも!」
タイムズ紙が報じた十月の時点から、スクタリ兵舎病院内では物資不足が露見していた。
それは患者が収容者数をはるかに超えた現在、最低限の病院業務すら行えないまでに深刻化していた。
明らかなる人手不足と物資不足を迎えながら、それでもなお医師たちが看護婦団の手を借りようとしないのには理由があった。
軍医長であるジョン・ホールにとって彼女たちは『政府がおせっかいでよこした役立たずの集団』であり、そのうえ自分たちの行動を政府に密告する任務があるのだろうとも疑っていた。
そんな軍医長の敵対心に賛同した医師たちは、看護婦団の持って来た資金も物資も、実力すら当てにはしていなかったのである。
彼らは口々に
「あの女どもは突然やって来た政府のスパイ。
我々の働きを監視しに来たのだ」
やら、
「レディなど、ここの生活には耐えられまい。
数日で泣いて帰るさ」
など、寄り集まっては陰口していた。
フローレンスはそんな医師たちの主張を尊重するべく、荷物を解くよりも先に看護婦団全員へ
「兵舎病院内では何事にも医者からの要請と許可が必要である。
看護婦は秩序を保ち、決して勝手は行なわぬように」
と命令していた。
これは事実上、一切病室に立ち入らず、看護を放棄したと言っているようなものだった。
そんなフローレンスの決定に最初こそは従ったものの、病室の中で痛みに苦しむ兵士たちの呻き声を一週間近く聞かされ続けた看護婦団員は、途方もない罪の意識と無力感にいい加減痺れを切らしていた。
「婦長……!
私たち、もう我慢できません。
こうしているうちにも多くの人が亡くなっていきます。
これじゃ私たち、何のために来たのか……!」
フローレンスは苛立ちにささめく看護婦団の誰よりも、殺気だった目をしていた。
だがそれは簡単に爆発するような根の浅いものではなく、着実さと冷静さを持って、深く静かに彼女の中で燃え滾っていた。
「皆さん、要請と許可なくしては動かぬ約束ですよ。
決して自分勝手に手を出さない事。
辛抱して、規律を守りなさい。
……さぁ、塔に戻って縫い物と、許可証の出た患者さんに病人食を作りましょう。
私たちは、今できる事をするのです」
互いに不本意そうな顔を見合わせる看護婦団の輪の中からフローレンスはすっと抜け出し、傷病兵の折り重なる玄関に背を向けて長い廊下を奥へと向かっていく。
看護婦たちは血と泥にまみれた兵士たちにそっと声をかけながら、仕方なく彼女の後に続いていった。
看護婦団のやりとりに食い入っていたハンクの肩を、リタが忙しく叩く。
「ちょっと!
何なのよここ、こんな死にそうな患者ばっかじゃ売れるモンも売れないわよ!
……どうしよ、いくら金額よくても本数なきゃ儲かんないし……ねぇどうする? サム」
「どうって……、私は兵士を手当てするよ。
戦争で負った傷を治して――」
ずっとかぶっていた帽子を脱ぎ、当然として答えるハンクに、リタは目を落としそうなほど見開いて叫んだ。
「サム!
あんたまさか本当に看護しにきたっての?
…………売春じゃなくて?」
驚くべきものでも見るようにハンクの顔を覗きこんだリタが、最後の言葉だけ声を小さくして囁く。
いまだ解りきっていない売春という単語が出てしまい、ハンクは今朝リタの手で小さなお団子にひっつめて貰った頭をかき、曖昧な顔をして口をつぐんだ。
それを肯定の返事と受けとったらしいリタが、がっかりとした様子で何やら呟き始める。
「うそでしょ……まさかここ本気の病院?
慰安だと思ってたのに……」
その傍らでしばらく気後れしていたハンクだったが、とうとう正直に告白することにした。
「リタ……、実は私、ばいしゅんふで売る用品を持ってきていないんだ。
まだ看護もしたことがないし……。
母のしてくれたような看病なら解るのだけど」
ハンクがおずおずと顔を上げると、間抜けなほどきょとんとしたリタがこちらを見つめていた。
微動だにしなかったリタの表情が、徐々に信じられないという視線に変わっていく。
ハンクの姿を上から下まで凝視しつくしたリタの口からは、「そういや確かにすれていない」とか「うぶなのは演技じゃなかったの」などという言葉がぽつぽつと漏れて来る。
そんなリタの様子から、やはり看護婦はばいしゅんふで売る用品がないと駄目なのだと思ったハンクが、がっくりと肩を落とした。
リタは最後に驚愕めいた表情で頭を振り、疲労した様子でハンクに声をかける。
「……看護なら、あんたの言う看病で充分よ、サム」
この意外な返答に、今度はハンクがきょとんとした。
彼の訊ねるような視線に、リタは気まずい顔をして手の甲をしっしと振ってみせる。
それでもまだ質問してきそうなハンクを煙たげに一瞥したリタが、ずいと顔を近づけて遮るように囁いた。
「売春なんて、おぼこいあんたにゃまだ早い。
知らないほうがいいの。忘れな」
リタはそう言って赤い唇を横に引くと、この話題を強制的に終了させるべくハンクの頭をぽんぽんと叩いた。
ばいしゅんふについては解らずじまいとなったハンクだったが、看護婦にばいしゅんふが必要ないらしいことが解り、気後れしていた心持ちが一気に軽くなる。
それを教えてくれたリタから配慮めいたものを感じたハンクは、彼女にはつらつとした笑顔を返した。
それに苦笑するリタからは、なぜか隠しきれない悲壮感が漂っていた。
【ジョン・ホール軍医】
実在の人物ですが、容姿や性格などはフィクションです。彼は実際、大変偏屈(?)で、最後までフローレンスを嫌って意地悪していた人物です。年齢すら解らなかったので、本編ではジジイ仕様になっております。