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命と戦った女(ひと) フローレンス・ナイチンゲール  作者: ぐろわ姉妹
第2章 旅は道連れ、イギリスからトルコまで
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5話 後悔と、尻拭いの航海

 マルセイユの港から外洋へ出たことを知らせる汽笛が大きく鳴り響くなか、ハンクは失意から真剣な顔でうつむいていた。


それを見たリタが意味ありげに赤い唇をにっと横に引くと、元気良くハンクの肩を叩く。


「サム、相手が兵士だからってそんな緊張しなくてもいいじゃない! 

兵士ったってただの男、することはみんな一緒なんだから」


 意味が解らずきょとんとするハンクの顔に、リタは自分の顔を近づけて言葉を続けようとした。


が、後ろで鳴ったノックの音に言葉を飲み、彼女は返事をしながら扉を振り向いた。


挨拶と共に入って来たのは、手にティーセットを持ったパーサーであった。


彼の目が自身に向けられた瞬間、リタは上品めいた笑顔を見せてハンクの座る椅子の後ろに立ち、聞かれるよりも先に言葉を放つ。


「お恥ずかしいわ。

私ったらフランスで、哀れな子に服をあげてしまったの。

これはその子のお母様が代わりに下さった服なのよ」


 パーサーは尊敬を漂わせた笑顔で身を正し、丁寧にお茶を給して出ていった。


せっかく淹れて貰ったお茶だったが、ハンクは酒臭いリタのいるこの場所では到底飲む気になれず、「外の空気を吸ってくる」と都合をつけて部屋を後にした。


  ◇


 ハンクはきっちりと敷かれた真っ赤な絨毯の上を歩きつつ、小さく呟いた。


「……はぁ、どうしよう。あれじゃ部屋でドレスも脱げないや……」


 ほわんと温かい光を灯す壁灯の下、楚々と行き交う御婦人や紳士の間をつまらなそうに歩き詰めたハンクは、船外に出る扉を開けて展望デッキにやって来ていた。


ハンクは身を切るような潮風の向こうで小さくなっていくマルセイユの街を見て、リタと出会うくらいならもう一便遅らせても良かったなぁと、悲しそうな後悔顔を見せる。


潮風に舞い上がるドレスの邪魔臭さに唸るハンクの脳裏に、ふとリタの言葉が去来した。


「そうか……そうすればいいんだ!」


 確信して一つ頷いたハンクは、足早にデッキを下りていった。


 ◇


 小一時間程して帰って来たハンクを一目見て、リタはあんぐりと口を開けた。


「サム……あんたどうしたのよ! あのきれいなドレスは!」


 冴えない民間着をまとったハンクの姿に酔いなどすっかり吹き飛んだリタが駆け寄り、横から後ろからとにかく全てを目視する。


そしてその質問を貼り付けたような表情でハンクの顔を見つめた。


「下の階へ行ったら同じくらいの背をした女の子が私を指差して、あんなドレス着てみたいって言ったから、その子の着替えと変えてもらった」


 それを聞き、天を仰いだリタは二周りほど小さくなった世間知らずにヒステリックな声を上げる。


「何っでわざわざ自分からそんなことするのよ! 

あの花柄でふわふわのドレスならけっこうな値段で売れたのに! 

あああ! 上流階級の人間って本当にトチ狂ったことするのね! 

信じられない……」


 そう吐き捨ててその場にへたり込んだリタとは対照的に、ハンクは至って満足気だった。


多少よれていることを除けば、あのフリルばかりで息苦しいドレスより、この地味で着古したドレスのほうが何倍もすごしやすかったのである。


 力なく立ち上がったリタが額に手を当て、溜め息まじりに毒づいた。


「やっぱ金持ちってわかんない。

看護婦団のレディ・フローレンスもそうよ。

食うに困らないお嬢様のくせに、急に看護婦集めて戦場に行くなんてさ。

あんたと同じで変な人」


 呆れたように首を傾げたリタの耳で、初めて目にする真珠の耳飾りが揺れていた。

 

「リタ、どうしたの? それ」


 耳元を指して聞いて来るハンクに、リタはツンと身を反らし自慢げに答えた。


「お隣さんの部屋で見つけたの。

どう? 似合うでしょ?」


 事もなげに自分の行った悪事を話す下級労働者に、幻滅と憤りを感じたハンクが我慢の限界とばかりに厳しい口調で叱りつける。


「リタッ! そんなことするんじゃない! 

私と相部屋でいたいのなら、今すぐその耳飾りを気付かれないよう隣の部屋に置いてきなさい!」


 その剣幕に飛び上がったリタはしぶしぶではあったが、すぐさまハンクの命令に従い盗品を返しにいった。


口を尖らせて戻ったリタの姿を見て、ソファーに座ったハンクはこの悪い癖はすぐに直るものではない、と感じて眉を寄せた。


 そして、こんな素行不良で傍若無人な看護婦という人間を何十人も従えているフローレンス・ナイチンゲールは、一体全体どんな苦労にまみれているのだろうと考えていた。


(こんなならず者たちに囲まれて、レディ・フローレンスは平気なのだろうか……?)


 そんなハンクの思案を遮ったのは、昼食を告げるノックの音だった。


リタが足取り軽く扉まで行き一人分の食事が配膳されたトレイをハンクの前にあるテーブルへと乗せる。


嫌な予感にハンクがナイフとフォークをかっさらい、はっきり言おうと口を開けた次の瞬間、リタはプレーンオムレツの半分を手づかみで食べ始めていた。


  ◇


 その夜。


よれよれのシフト姿になってベッドに入ったリタが、ドレス姿のままソファーで眠ろうとしているハンクに向かい呆れた口調で言った。


「ベッドなんか二人で使えばいーじゃん! 

もともとサムのベッドなんだからさ。ほら!」


 ハンクがむすっとした表情でリタを見やり、ぷいと視線を戻して答える。


「……いいの。私はここで」


 女のふりをしているとはいえ、やはり男としての気遣いでそれを遠慮したハンクは、コーラルピンクのコートを毛布代わりに眠ることにした。


 リタの寝息が薄明かりの中を飛び始めた頃、ハンクはこの先数日間、リタがいるせいで安息の時間は皆無だなと予想し、ついむかむかと腹を立てていた。


(だけど……、

こんな身勝手な看護婦たちを苦もなくまとめられるなんて、

さすがジェントリ出身の『レディの家政力』だなぁ。

きっと優しくて、母さんみたいな人に違いないや)


 ふとハンクが、昼間遮られた思いに今再びの考えを巡らせる。


(……実は何かの手違いで病院に送られたのかもしれないな。

本当はレディらしく、イギリスに帰りたがっているのかも……。

もしそうなら、俺が連れて帰ってあげたいな……)


 この日のハンクの夢には、女神のような微笑みを湛えたレディ・フローレンスが現れていた。


夢の中の彼女は貴婦人然として美しく、その溢れ出る愛情で卑しい看護婦の心根も正し、傷付いた兵士たちをも癒していた。


しかし病院に来た不本意は隠せずに人知れず涙しているところを、軍服に身を包んだハンクが愛馬に乗って颯爽と現れ、勇者よろしく彼女を助け出すという夢だった。





【フローレンスという名の由来】

ナイチンゲールのフローレンスという名は、彼女が両親の新婚旅行中に、イタリアのフローレンス(フィレンツェ)地方で生まれたため、そう名づけられたそうです。

当時はかなり珍しい名前だったようです。

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