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命と戦った女(ひと) フローレンス・ナイチンゲール  作者: ぐろわ姉妹
第2章 旅は道連れ、イギリスからトルコまで
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4話 迷惑な女

「サムありがとーーー、助かったわ! 

あんたならその可愛い顔で乗務員の注意を引けると思ったのよ! 

やっぱりあたしの目に狂いはなかったわねっ」


 出港の汽笛が鳴り響くなか、リタはAランクの客室にひとしきり感動した後、一つしかないベッドを陣取ってそう高笑いした。


閉めた扉の前で、ハンクは仏頂面もあらわに腰に手を当てて冷たく言い放つ。


「今すぐ出てってリタ。

もう船には乗り込めたんだからこれ以上私を利用しないで。

そしてなぜ私よりも先にこの部屋にいるのよ?」


リタが空っ風を思わせる笑い声を満足げに収め、妖艶でからかうような表情を見せるとハンクに言った。


「おばかさんねぇ、サマンサ。

作戦っていうのは、状況と共に変わるものなのよ。

今あたしは、あなたのお姉さん。

パーサーにそう言ったら部屋に案内してくれたんだから、いまさら誰も疑わないわよう?」


 してやられた、という言葉がハンクの頭の中で舞い踊る。


しかし、怒りを爆発させて暴れ散らしたところでこのヤマビルのようなリタは追い出せないと直感したハンクは、急激に襲い来る目眩と戦いながら一人無言で眉をひそめていた。


彼を露ほども気に留めないリタが、気遣いもなしに言葉を続ける。


「まさかこーんな部屋まで取ってるお嬢様だったとはねー。

やっぱりあたしってツイてる女なのね! 

あ、怒んないでよ、あたしだってフランスじゃひどい目にあったんだから。

だからって訳じゃないけどさ、この部屋の幸せをあたしにも分けてー、いいでしょ、ねぇ?」


 乾いたような、それでいて勝ち誇っているしゃがれ声がハンクの神経をさかなでる。


ハンクは大きな溜め息とともに天を仰いだ後、呆れた様子でリタを見据え、精一杯の嫌悪と軽蔑を込めて乱暴な一言を吐き捨てた。


「……リタって、最っ低!」


「うぅん、ありがと。

そう言われるとあたし、感じちゃうのん♪」


 場馴れした様子で斜に構えたリタが、誘うような表情でその厚い唇をすぼめ、色っぽい仕草をして見せる。


望んだ険悪さの上を行くリタの行動に闘争意欲を根こそぎ持っていかれたハンクは、虚脱感に全身を包まれつつ、目眩から昇格した頭痛に頭を抱えた。


 もう何も言うまいと思いながらコートを脱ぎ、備え付けの外套ハンガーに掛け始めるハンク。


その様子に相部屋了承の意を感じたリタは、自由気ままに室内の詮索をし始めていた。


「ねぇサム、あんたってどこのお貴族様なのよ? 実は結構有名?」


 備え付けられた小さなキャビネットから酒の小瓶を発見し歓声を上げたリタが、ハンクに断りもなくそれを当然のように飲み始めた。


 ハンクは質問には答えず、冷淡なとげとげしい言い方で質問を返す。


「……リタは?」


 いくらハンクが子供でその奉仕品を飲まないとはいえ、断りもなく次から次へと酒の入った小瓶を着服していくリタに、部屋を取った当人は一層の不快感を覚えていた。


むっすりとした表情のまま入り口近くに置かれたソファーに腰を下ろし、テーブルのフルーツ皿からリンゴを取ったハンクは、不機嫌さを露わにかじりついて見せる。


それとは対照的に、上機嫌でベッドに横たわったリタが悠々とした口調で答えた。


「あたし? あたしはどうってことない庶民の出よ。

そのうえ九歳で突然街なかに捨てられたから、それからはずっと家も家族もないわ。

ちょっと前まではイギリスの片田舎で町の看護婦やってたけど」


 その言葉を聞いたハンクは反射的に嫌悪の表情を浮かべていた。


いつぞや友人たちが口にしていた「看護婦は品行の悪い女、最低な売春婦」。


主治医から聞いた「神に背く大罪者、酒におぼれたならず者」という言葉を思い出したからである。


そして、それは今目の前にいるリタを説明するのにうってつけな言葉であった。


「けどこのところ商売あがったりでさ、仕方ないから心機一転、フランスに渡って仕事しようと思ったの。

けどだめね、フランス語ってちんぷんかんぷん、捨てられる前にパパからもっと習っとけばよかったわ。

何でアイラヴューがジュッディームになるのかさっぱり解んないしさ、

それにね、サム、

フランス人って奴はしつけが悪くて本っ当に生意気なのよ!」


 リタが苦い思い出に顔をしかめ、小瓶のウイスキーをあおる。


そんなリタから目を逸らしたハンクは、ゆっくりと離れていくマルセイユの街並みに視線を走らせた。


ウイスキーの小瓶を早くも一本空にしたリタが、燃え広がっていく口中の余韻を楽しむようにしてゆっくり息を吐き出す。


そしてハンクに質問をしたことなど、とうに忘れて話し続けた。


「フランスではあたしみたいな人間は看護婦になれないんだって。

看護はぜーんぶシスターの仕事。

あたしは看護婦にもなれないで、

しつけの悪いフランス人に打ちのめされて、

結局イギリスに帰ろうにも帰る船賃がなくなっちゃったの。

あたしの人生って冴えないなーなんて文句言いながらうろうろしてたらさ、

街の新聞売りが、

『イギリスの希望! レディ・フローレンス率いるスクタリ派遣看護婦団、フランスの地に来たる!』

なんて叫んでて。

新聞売りの口上を聞いてたらイギリスの看護婦たちが素晴らしい行動に出た、なんて言ってるのよ。

それ聞いて、よし、看護婦団入ってやろうって思ったの。

だって同じ看護婦なのに、戦地で商売するだけで『希望』扱いされてんのよ? 

もうイギリスに帰るのもバカらしいじゃない」


 同意を求めるようにその細い両眉を上げて見せるリタに。ハンクは冷めた視線で言う。


「だからって私にした方法が許される訳じゃない。

伯母から貰った大切なお金だったのだから、

ここの船賃半分くらい、スクタリで出る給料から払って欲しいわ」


 リタがカラカラと笑いながら、馬鹿にしていなした。


「無茶言わないでよ、お嬢様。

いーい? 

看護婦の賃金なんてその日暮らしがやっとなの、

ここの船賃なんか十年かかっても無理だっての」


 その言葉にふんと鼻を鳴らしたハンクが、芯になったリンゴをテーブルに置き背もたれに体を預けた後、周知の事実と言いたげに告げる。


「スクタリではロンドンの大病院で出る給料の二倍は支給されるのに? 

ここの船賃なんか半年もあれば充分じゃない」


 それを聞いたリタがベットから飛び出し、ハンクの耳をつんざくほどの大声で叫んだ。


「ほんとなのっ! サム、それほんとっ?」


 脅迫めいた形相でずんずんと歩み寄りハンクの肩を両手で揺さぶるリタの迫力につられ、ハンクは思わず大きな声で答えていた。


「ほ、本当だよ! 嘘じゃない! 本当!」


 乱暴にハンクを揺さぶり放したリタが、嬉しさに身を震わせて絶叫する。


「っきゃー! ツイてる! 

あたしってほんっとツイてるーーー! 

名声ついでに大金も手に入っちゃうなんて最っ高! 

あたし決めた、絶対に絶対に看護婦団入る! 

サム、決めたからね、あたしはスクタリで売りまくるわよ! 

サム、あんたも頑張んな!」


 ハンクはリタのスクタリ行きを完全に決意させてしまった自分の愚かさに顔をしかめていた。


最初の決意くらいなら、途中寄港するマルタ島の賑やかな観光地に気を良くして留まっていたかもしれないのに……。


 その素晴らしい可能性を自分の手で摘んでしまったことが、ハンクには悔やみきれなかった。





【イギリスの看護婦】

イギリスにおける当時の看護婦は、大きく分けて二種類いました。


★一つは教会が運営する昔ながらの看護婦。

当時病院は教会が運営していたため、看護的な役割を修道女や修道士が行っていました。

このようなしっかりとした病院は、身持ちがいい上・中流階級者が利用していたようです。


★もう一つは国が運営する病院で働く看護婦。

当時、政治の影響で教会の運営する病院が次々と閉鎖されたので、あふれかえった病人を収容するために国が病院を運営しました。

こちらは庶民向けの粗悪な病院だったので、看護婦も医療の覚えがないばかりか、他では働くこともできない堕落した人材が集まっていました。


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