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1話 少年の憧れ

この作品は、雪芳様(作者ID:5567)が原案を提供して下さったものです

 西暦一八五四年十一月、イギリス南部。


 青白く澄みきった雲一つない空の下、なだらかに傾斜した丘とそれを覆う枯れ色の草原を、冷たい海風が音を立てて走り去っていく。


季節はもう冬の到来を感じるほどに冷え込んでいた。


 その日も、イーストボーン東部を大きく領地とするオーベルト郷紳きょうしんの敷地内では、十二歳になる末息子ハンク・オーベルト少年が上等な乗馬服を身にまとい、暮れ始めた草原に愛馬を走らせていた。


もう既に何十分も揺られている馬上では、ハンクの華奢な体が疲労を忘れて楽しげに弾む。


やや長めに整髪された麻色の細い髪の毛は、ハンクの整った顔立ちと相まって、彼を中性的に見せていた。


透き通るような白い肌はうっすらと汗ばみ、荒い呼吸のたびに彼の鼻腔は冷えた空気に貫かれた。


 駆ける馬の先に人の背ほどの茂みを見つけたハンクは、手綱を引き黒い馬体をその茂みへと鮮やかに導く。


「いたな、ロシア兵めっ! 覚悟しろ!」


 まだ変声期を迎えていない水晶のような声が、見晴らしのよい野原に響いた。


寒風に耳を染め、馬上のハンクは手にした小剣を茂みの上部へと振り回す。


軌道にあった枝が次々と舞い上がり、金の陽光に照らされて蜂蜜色に光る髪に降り注いだ。


 愛馬の荒い息と蹄の音が響くなか、丘を成す地平線の際から黒い人影が現れ、ハンクに向かい親しげな様子で片手を振った。


それに気付いたハンクが剣を掲げて答えると、皮のコートをまとった中年男性らしい人影は力強い足取りで斜面を下り始めた。


ハンクの耳に、深い響きを持つ聞きなれた声が届く。


「ハンクぼっちゃん! 

お母様がお怒りでしたよ、三時のティータイムをすっぽかされたと仰って。

さぁさ、もう日が暮れます。お屋敷にお戻り下さい!」


 アングロサクソンのわりに背の低い、がっちりと四角張った体格のこの男は、オーベルト家に仕えて三十六年になるコーチマンのマッシュキンスであった。


栗色の豊かな顎ひげを湛え、丸めたホースブランケットを肩掛けにした姿は、まるで森の奥に住む木こりのようにすら見える。


「まだ大丈夫! マッシュ、もう三十分だけ!」


 次第に赤みを帯びてくる太陽の光は、馬の筋肉に美しい陰影を与え、馬体から上がる白い湯気を神々しいまでに光らせていた。


ハンクは馬の足を止め、嘆願を貼り付けた顔でマッシュキンスを見つめる。


風になぶられ続けた彼の髪には、討ち取った常緑の葉たちが芸術的な飾りのように絡み付いていた。


 それを見たマッシュキンスは小さく吹き出すと、黒馬に歩み寄りながらハンクに告げる。


「そのお姿、まるでダフネのようですよ、ぼっちゃん。

いつの間にアポロンから求婚されたのですか?」


 ギリシャ神話の女神に例えられた恥ずかしさに頬を染めたハンクは、実に子供らしい大袈裟ぶりで身を乗り出すと反発した。


「マーーーッシュ!!」


 そう一声叫んだハンクは小剣を鞘に収めた後、乱暴な両手で髪に絡み付いた葉を引っ張り始める。


その無鉄砲さに、マッシュキンスが慌てて声を上げた。


「あぁ! いけません! 無理に引いては髪がちぎれます! 

帰ってからお母様かメイドにでも梳き取って貰いましょう。ね? 

ほら、それより馬の汗を拭いてやりませんと凍えてしまいますよ。

さぁさ、ぼっちゃんも一度降りて、汗をお拭きになっては?」


 差し出された柔らかな綿布に乗馬の終わりを感じたハンクは、さも残念そうに溜め息を吐きながら馬の背から飛び降りる。


綿布を受け取ったハンクが汗を拭く間に、マッシュキンスは手際良く馬の鞍を下ろし生成りのリネンで馬体を拭き清め、肩掛けにしていたホースブランケットで熱い馬体をしっかりと覆っていた。


鞍をもう一度馬の背に戻して固定したマッシュキンスは、ハンクを馬上に乗せると引き手を引いて歩き始める。


「お屋敷まで御一緒いたしましょう。

……しかしまぁ、ぼっちゃんは本当に騎士がお好きですねぇ」


 低くいななきをあげる愛馬の上で心地良く揺られていたハンクが、嬉しそうな口調で答えた。


「ああ、だってかっこいいんだもん! 

俺も騎士様みたいに悪い敵を倒して、人のためになりたいんだ!」


 マッシュキンスは憧れにほだされた表情のハンクを見上げ、少年がいつも続けて言う言葉を代弁してみせる。


「弱きを助け、強きをくじく……、でしたかな?」


「そっ♪」


 上機嫌に答えたハンクは誇らしげに背筋を伸ばし、真っ直ぐな瞳で西の空を見つめている。


そして山の峰とぶつかりそうになっている太陽に自慢の小剣をかざし、伝説のアーサー王が岩石から聖剣エクスカリバーを引き抜いた場面の再現をして見せた。


しかしハンクの陶酔ぶりとは対照的に、馬を引くマッシュキンスは残念そうに首を振る。


「だんな様だって、かっこいい方なのに」


 その呟きを聞いた途端、ハンクの顔は否定を通り越した嫌悪の表情を浮かべていた。


彼は眼下のマッシュキンスを馬鹿にするように鼻を鳴らし、つんけんとした態度で言い放つ。


「父さんのどこがかっこいいんだよ? 

父さんったら領主のくせに、商売なんかしてさっ! 

男なら商売するより、悪党を成敗すべきじゃないか!」


 馬の首をなでながらそれを聞いていたマッシュキンスは、困った顔でハンクを見上げ、たしなめるような口調で言った。


「そうですかねぇ……? 

だんな様は毛織物の工場を運営する事で、存分に人々のためになっていらっしゃいます。

そういうのだって、かっこいいじゃないですか。

……ねぇ? ぼっちゃん」


 優しく笑顔するマッシュキンスが、ちらりと意味ありげな視線をハンクに流す。


 その視線に「だからぼっちゃん、だんな様と仲良くいたしなさいな」という含みを感じたハンクは、ぷいと視線を逸らして前を向き、はっきりとした発声で言葉を強調した。


「俺は、商売人なんか、い・や・だ・! 

騎士がいいのっ!!」


 この喋り方がハンクから出ると、それ以降は水掛け論にしかならないことを承知していたマッシュキンスが、諦めの溜め息を一つ吐いて早々に引き下がる。


 マッシュキンスがふと目を逸らした農道の先には、林から出て来た農民の母子がカゴいっぱいのキノコを抱えて歩く姿があった。


貧しげな母子は数歩進んだところでオーベルト郷紳のコーチマンに気が付き、馬上にいる少年に向かって頭を下げる。


優しげな笑顔でそれに応えたマッシュキンスは、馬上のハンクが見せる紳士らしい会釈に満足しつつ馬を先に進めた。


 馬が母子の前を通り過ぎる直前、ハンクより少し年下の少女が母の目を盗んで顔を上げ、ハンクに向かってあかんべぇをした。


少女の小憎らしくも微笑ましい表情に苦笑したマッシュキンスは、馬上のハンクを見上げ、その驚愕の光景に思わず身をのけぞらせた。


それもそのはず、つい先ほどまで紳士らしく会釈をしていたハンクの顔が、『気さくさ』などという言葉では片付けられないほどの表情であかんべぇを返していたのだから。


彼は片手に持っていた乗馬用の鞭でハンクの腿をぴしゃりと打つと、教育係のような口調で領主の息子を諭す。


「騎士ならば、マダムだけにではなく、レディにも礼儀良く!」


 四角張った顔に睨み上げられ、馬上のハンクは痛む腿をさすりつつ不満げに反論した。


「だって見たでしょ、あの顔! あれのどこがレディ!?」


 その言葉が終わるか終わらないかのところで、ハンクの腿には今一度の教育的指導がぴしゃりと打たれていた。





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