真夏の満員電車に音は鳴る
今は、八月。
云わずと知れた、真夏の季節。
今朝の通勤電車も満員鮨詰め状態で、まさに、サウナの中にいる感じ。折角、サラリーマンどうしの席盗り合戦で勝利したこの席も、前の人の妙な温もりを感じて、気持ちが悪い。
(この電車、クーラー効いてないの?)
そう思っている間にも、汗はひっきりなしに体中からじっとり噴き出してくる。シャツと体の間を、背中を伝っておしりまで汗の滴が落ちて行くのがわかった。
何度も何度も汗を拭ったハンカチは、ぐっしょり濡れてしまい、そのままポケットに入れるのも、嫌になるほどだ。
そんなとき、電車の中で鳴り響いたのは、ここ最近聞き覚えのある、耳障りな金属音だった。
カランカラン?
――いや、ゴロンゴロン?
その音の感じは、言葉ではどうも表現できない。そして、ただでさえ暑い車内を、更に暑苦しく感じさせる音だった。
あの、南部風鈴のような涼しげな金属音の、正反対ともいえる。何かねっとりとした怨念のような物体が、固い金属板の上を這いまわっているような感じだ。
イラついた頭で、考えてみる。
そういえば、昨日も音がしてたな……。というか、ここ数日、ずっと鳴っている気がする。
――それにしても不思議だ。
この満員電車の中で、そんな音を鳴らすスペースが、一体どこにあるというのか。
まるで人で覆われたジャングルを視線で突き進むかのように、人々を掻き分け掻き分け、音のした方向へと視線を進めた。
と、その瞬間、左足の爪先あたりにズキンと痛みが走った。どうやら、目の前の若い男に、足を踏まれたらしい。
確かに、こんな出来事はサラリーマンである以上、日常茶飯事といえる。会社に勤めだしてからのこの二十年、朝の通勤電車ではずっと気持ちを荒げないよう、耐えてきた。鼻が曲がりそうにキツイ香水や、体が潰れるほどのギュウギュウ詰めの車内……。
でも、そんなオレにもたまに、とてもじゃないが耐えきれない時もある。
(お前、今、オレの足を踏んだだろ?)
学生らしきその男の横顔を、睨みつける。
しかし、当の男は全くの知らんぷり。何食わぬ様子でイヤホンを両耳に挿し、そのまま音楽を聴き続けていた。
それでもオレが彼をじっと睨み続けると、相手もやっとこちらに気付いたらしく、その顔をゆっくりこちらに向けた。
けれど、そのときの彼の眼の有様といったら!
それはあたかも、オレが目線を向けた方向には『オマエの見てはいけないものがある』と云わんばかりの、威圧感のある眼つきだったのだ。
しかも、その眼には何か恐ろしいものに操られているかのような、変な違和感もあった。
とそのとき、また耳にしたのは、あの音。
(気になる――)
顔をぐるりと回し、人と人の隙間から電車内を見渡してみる。けれど、その音の正体は、結局、わからず仕舞いだった。
◇◆◇◆◇◆
それから、毎日だった。
朝の通勤電車で、「あの音」が鳴り響いたのは――。
思い過ごしかもしれないが、日に日に音が大きくなってきた気がする。
それに相反するように、通勤電車の中の人数が、以前と比べ少し減ってきた。あの耳障りな金属音に嫌気がさして、みんな、他の車両に移ったからなのだろうか……。
(今日は、まだ聞こえてこないな)
何だかほっとしたような、残念なような、複雑な気持ちを抱えながら、そおっと後ろを振り返ってみた。
(ん? あの子は一体――)
少し疎らとなった人影の間から見えたのは、今まで見たことがなかった、小学生低学年くらいの、少女だった。
昔、自分が子どもの頃によく親から買ってもらっていた、あの懐かしい缶入りドロップを腕に抱え、大人しくちょこんと席に座っている。
不思議なほどに身動きしない。目線はじっと前に向けたままだ。
(もしかして『あの音』は、あのドロップの缶から出ていたのでは?)
オレは、しばらくその少女を観察することにした。少女が缶を振り回し、中のドロップが暴れる音が鳴るのを確認したかったからだ。
変質者と間違えられないよう、時々目線をずらしながら、彼女を監視する。
(やっぱり、思ったとおりだ)
あの音は、少女が持つドロップ缶あたりから、間違いなく聞こえて来ている。
が、しかし、だ。
不思議なことに、オレが見ていた間は、ずっと少女は身動きもせず、じっとしていたのだ。手にした缶を振っていたようには、どうしても思えなかった。
(じゃ、どうやって音が?)
理由はわからないけど、とにかくあの少女が音を鳴らしているのは間違いない。
オレは、文句の一つも云いたい気がして、彼女の親らしき人が近くに居ないか、捜してみた。
しかし、少女の両隣りは、ともに腐った魚のような目をして遠い目をする、中年男性二人だった。毎日の会社勤務がいかに過酷とはいえ、目の周りは「くま」だらけ。その疲れ方は目も当てられないほどの有様。
どう見ても、女の子の親には見えない。
(この子はどうして一人で、しかもこんな通勤時間の電車に乗っているのだろう?)
親がいないのであるなら、仕方ない――。直接本人に云うしかないようだ。
オレは、ドア近くの場所からくるりと向きを変え、電車の中の人を避けるようにして歩き、女の子に近づいた。
灰色のスカートに、クリーム色のブラウス。長いまつ毛はピクリとも動かず、その瞳はじっと電車の床を見つめている。
「君は、毎日この電車に乗ってるの?」
「……」
オレの問いに、少女は何も答えない。
「君は、缶ドロップが好きみたいだね。でも、ここはみんなの場所。あまり音をうるさくしてはいけないよ」
それを云った途端だった。
一瞬、びくりと全身を震わせた彼女は、夢から覚めたような表情でゆっくりと顔を上げながら、オレにその重苦しい目線を向けたのだ。
その瞳はまるで、オレの中に住む小さなオレまでも見透かしているのではないか、と思ってしまう程の、半透明で淡い緑色の付いたガラス玉のように、綺麗なものだった。
今まで頑なに閉ざしていた彼女の口が、何か意を決したかのように、開いた。
「……おじさん、疲れてるみたいね。ドロップなめる? 元気出るよ」
少女は缶のフタをキュッと開け、カラカラと音を立てて、一粒の黄色いドロップを取り出し、そのかわいい掌の上にのっけた。
(……)
どう説明したらいいだろう?
少女の手にあるそのドロップは、不思議な魅力というか、得体の知れない引力を持っている――そういう表現が、合っていそうだ。まさに、自分の魂が引きつけられてる感じ。
それでつい、その丸い粒に手を延ばしてしまった、オレ。
「い、いいの? じゃ、一つだけ」
少女からむしり取るようにしてドロップをもらい、自分の口に放りこむ。
すると、どうしたことだろう、さっきまでのイライラした気持ちはどこへ吹き飛んでしまった。体には元気が溢れ、爽快な気分で心が満たされる。
「これはね、人から貰った、大切な贈り物なの」
少女が、初めて小さな女の子らしく、にこやかに笑った。
ふと、その時感じたのは、自分を襲う、痛いほどの視線だった。
それは、老若男女問わず、この車両にいるほぼすべてのサラリーマンたちから向けられており、彼らの眼は憎悪と憧憬、それらが複雑に絡みながら、酷くオレを睨みつけていたのだ。
(ふん、お前たちの狙いもこのドロップか)
このドロップの価値がわかった以上、オレはもう、そんな脅しに屈する人間ではない。少女にお礼を云った後、恐らくは溢れんばかりの優越感を滲ませたその表情で、辺りを見回してやったのだ。
◇◆◇◆◇◆
こうして、オレは少女と知り合いになった。
彼女個人に特別な興味があったわけはない。とにかくあの、『ドロップ』が欲しかったからだ……。だから、少女の名前は聞きもしなかった。
それから毎朝、電車に乗ればとにかく急いで少女の傍へと走る。そして、一粒のドロップを貰うために、彼女に哀願するように手を差し出すのだ。
もちろん、少女の周りにはオレと同じような目的のライバルでひしめいている。
彼女は、眼前に差し出された有象無象の手の中から、気に入った掌の上にドロップをひょいっとのせていく――。
「今日は、これでおしまいよ」
まるで、猛獣使い。
彼女の一声で、電車の中では狂喜と狂気の声が、飛び交う。ドロップを貰えた者は狂喜し、貰えなかった者は狂気を伴ってわめき散らすのだ。
幸運なことに、今日は一粒のドロップがこのオレにも与えられた。二日ぶりだった。
勿体なくてしばらくとっておきたい気持ちと、早く食べてしまいたい気持ちとが自分の中で交錯する。結局は我慢しきれず、急いで手の中のドロップを、口に放り込んだ。
(うほっ、やっぱりこれはすごい!)
体中から溢れてくる、『元気』。中毒的な元気と云ってもいいかもしれない。
少女はころころと笑いながら、缶からドロップを一粒だけ取り出して、その味を確かめるように、舐めている。
一面の笑みで乗客たちを見守る、少女。
これが、最近の自分にとっては幸せな日々の日課になっていた――。
ところが――だ。
今朝、オレは気付いてしまった。とんでもないことに――。
以前は、あれほどギュウギュウ詰めだった車内が、今日はなんと二人っきり。つまり、電車の中にオレと少女しかいないのだ。
あれほどドロップをオレと取り合ったサラリーマンも、若いOLたちも、今は誰もいない。
(そんな馬鹿な……)
ドロップの「旨み」のことばかり考えていたオレは、こんなに成るまで、全然気が付かなかった。
「どうしたんだろうね……。みんな、いなくなっちゃったよ」
いつものようにドロップを貰おうと、手を差し延べながら少女に近づいてそう云うと、彼女はうっすらと笑みを浮かべた。
「ここも人がいっぱいいて良かったけれど、これまでね……。お引っ越しだわ」
「えっ、どういうこと? オレを見捨てないでくれよ!」
それを聞いた少女の表情が、みるみると変化していく。今までの涼しげな笑顔が、鬼のような顔つきになっていったのだ。その両眼は、不気味に赤く光っている。
「おじさん、今まで気が付かなかったの?
……このドロップは、この電車にいた人たちの魂。一粒舐めれば、その分一人、この世から消える。それでおじさんも元気になったんでしょ? 魂をもらって」
少女が、手に持ったドロップ缶を振ると、カラコロと軽い音がした。蓋を開け、缶を傾ける。一粒の青いドロップが、少女の掌の上に転がった。
呆然となったオレの前で、少女がいきなりその粒を、パクリ、とその口に放りこむ。
「そしてこれが、最後の一粒。そう、これはあなた、おじさんの『魂』よ。だからこれで、ここも、お・し・ま・い」
少女はバリバリ音をたててドロップを噛み砕くと、オレの目の前でゆっくり美味そうに、それを飲みこんだ。