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神々と黒い龍 −覚醒的道教悟話−

作者: 文愚堂 直純

筆者の道教観と考古学、民俗学への感覚を諧謔的に織り交ぜ宗教とは何か、人間の生と家族の愛とをテーマに書いた光と涙の物語。

今日もまたいつもの場所に陣取って読書に耽る者がいた。名前を芦田寛人という。大学の図書館は彼の棲家であった。大学にいる時は講義の他はほとんど彼の指定席ともいえる三階南東の閲覧机にいて、机いっぱいに本棚から抜き取ってきた書物を積み上げたり、講義のレジュメを広げたりしていた。二つ折りのケータイ電話が直角に開かれ彼の卓上右横に据えられている。もちろんマナーモード、電話がかかって来ても震えもせず唯ボタンと背後のランプとが輝くだけである。なぜ三階南東かというと、その隣には蔵書検索用のパソコンが置かれ、喫煙のできる小さな露台への出入り口もあったからだ。キャンパス内で彼にとっては此処が最高に棲み良い環境なのである。

 最近では地上に並ぶ書架の本では物足りなくなり、地下の書庫にまで足をのばして書物を選び出すようになった。書庫には彼の好きな宗教書や哲学書がずらりと薄ら埃を積もらせながら所狭しと整列していた。ここに居る本たちは言わば現役を引退した年老いた本たちである。大衆小説や実用書の流入によって居場所を追われた時代遅れの本たちであった。階段を下り、薄暗い書庫に入った芦田は常に向かって左の書架へと吸い込まれるように歩き出し、書物の中に消えていった。右側には洋書が並ぶ、芦田は外国語を最大の苦手科目としていたのである。

 薄暗い中で片っ端から和書の背表紙に目を通していく、この所為か最近視力の低下を感じるようになっていた。ボロボロになったものは背表紙から題名が読み取れず、態々手を汚すのを覚悟して書物を抜き取り表題を確認したりもする。何日か同様のことを繰り返していたが、ある時ふと道教という文字が目に留まり、その入門書なる本を手に取った。芦田の道教についての知識はそれほどでもなく、今まで特別の興味もなかったのだが、なぜか書庫に来てからはその本があるオーラのようなものを放ちながら自分のことを呼んでいるような気がしていた。

 いつもは目次ぐらいしか見ずに、自分の指定席へ持ち帰ってしまう芦田であったがこの『道教学入門』にはそれをさせぬ力があったのかその場で根をはったかのように立ち止まりページを繰り始めた。芦田の眼は真剣であった。彼の本への愛情は他に真似の出来ぬものであり、その情熱は読まれている本にとっても気持ちのよいものであったに違いない。

 ―――  ―――  ―――  ―――

 道教とは中国の古代、母系氏族社会で自然発生した元始宗教である。元始古代の人々が共同生活をする中に見出した信仰は、人々の生活に深く関係する森羅万象ありとあらゆるものに霊魂が宿ると考えた自然崇拝や祖先崇拝の他にも天上に神を創り、その神を信仰するなど様々である。しかし、その中にでも道教に特徴的なものとして女始祖崇拝や女陰崇拝など女性への信仰があげられる。殊に、古代の中国に於ける創世神話はこの道教的思想より生じたものと考えられている。

 道教に於いて、混沌として漂える泥の海に現れこの世界を生み出した神を女媧と伏羲といい、この二神は半人半蛇の身体を互いに絡み合わせながらこの世界を生み出したと考えられている。古代壁画に残る女媧と伏羲の図像は、下半身の蛇体を日本で言う注連縄のように絡ませあい、上半身の男女二神はそれぞれ曲尺とぶん回しとを片手にもっている。これによってこの世の全てが創世されたのである。しかし、この女媧と伏羲は本来ぶん回しと曲尺とを持ってはおらず、西洋に生じたコンパスがあるルートを通じて中国大陸へと流入したと考えるべきであろう。また、この二柱による創生神話が日本列島へと伝播し、日本神話の代表神とも言えるイザナギ・イザナミとなったことは言うまでもない。ぶん回しと曲尺とが天沼矛となった経緯については不明瞭な点もあるが此処には天日矛の存在が見え隠れしている。茲ではその追求は避け、道教に於ける神々の発生と歴史的経緯、日本への影響などについて簡単に解説することとする。

 道教に於ける創世の神が半蛇体であることの表す意味は人間の祖先が蛇であったと古来考えられていたからである。そして、古代人たちは中国に限らず日本や東南亜細亜諸国に於いても蛇を神聖視し、祭祀の対象としてきたのである。これらの考えは全て道教的思想より派生し四方に長い年月をかけて伝播したと考えられる。日本神話においても産屋のことをウガヤと称している。ウガとは蛇の古称であり、人間も出生の際には蛇の姿でこの世に生を享けるのだと信じられていた。

 古代中国に於ける道教の神々の発生は天上に住む元始天尊や玉皇大帝などの主神たちの他にも、家の竈にいる竈神や漢方薬の祖であり雨乞いの神とされる人身牛頭の神農、漢字を発明したとされる蒼頡など人々の生活に直接関係するものを神格化して祀ったりもしている。また、文昌帝君は学問の神として現在でも人気が高く、日本に於いても江戸時代には多くの文化人がその信奉者となったことが知られている。

 そして意外かも知れぬが、日本に於いて現在でも人気の衰えぬ道教の神がいるのである。それは伝奇小説『西遊記』の主役、孫悟空なのだ。彼は玉皇大帝より齊天大聖という名を与えられ現在でも香港や台湾、東南アジアでは一般的に信仰の対象なっているのだ。猪八戒や沙悟浄らもまた共に天帝より道教の神としての名を与えられている。


道教は中国の様々な宗教や哲学、思想と結びつきながら発展を遂げていった。仏教的要素も多分に取り込まれ、仏教の開祖である釈迦は初江大王陰徳定休真君という名を与えられている。また、観音菩薩も道教の神として篤く信奉されているのである。時に、道教は権力者によって統治の道具のように扱われたが、そうした王朝は必ず天罰が下り革命によって崩壊するのである。俗に諸氏百家と呼ばれた歴史に名を刻む偉大な思想家達も道教を心の拠り所としていたのである。そして、陰陽の思想や様々な加持祈祷、呪術儀礼が重なり合って道教は原始宗教の性格を保ちながらも遂には人間の欲望の最たるものである不老長寿までも仙道に精進すれば叶えられるという現世利益の追求を可能にしていったのである。不老長寿の術には金丹と称する薬を錬金術によって精製し、其れが正しく精製できるようになれば其れを飲んで不老長寿の仙人になることが出来ると説いた事例がある。しかし、現代の科学によってこれが実際に秘伝書の通りに精製出来たとしても、人間には有害で死を招く物である事が明らかとなった。古代人たちは死を覚悟してまで不老長寿に憧れを抱いていたのである。人間に不老長寿が可能であると確信させていたものが先述した人間蛇祖の思想である。蛇より進化を遂げたと考えた古代人は蛇が脱皮する姿を見てこれを再生の象徴と捉えたのである。そして、蛇が再生するように人間にも再生の能力が本来備わっているものであり、金丹を服すことによってその潜在能力を蘇らせようとしたのであった。筆者はこれが日本に於けるミソギの思想にも通ずるものであると考えている。


 古代日本に於いて最もポピュラーであったと推測される道教の神は西王母と東王父の二柱であろう。西王母とは西の最果て、玉山に住む最高位の仙女で天帝の娘だとされる。そして東王父は西王母の対偶神として東の最果てに住んでいるとされる。なぜ、この二神が古代日本に深く所縁のある神であるかというと、近年の発掘調査によって古墳時代に海を渡り日本へと運ばれてきた鏡に鋳造された人物の姿が西王母と東王父を模ったものであることが分かってきたからである。古墳時代には既に日本には道教の神々の進出があったと考えるべきであろう。

また、飛鳥時代には天皇皇族群臣は挙って道教を信仰し、酒船石や亀型石槽など不気味な石造物が作られたのも飛鳥の地によって盛んに道教の呪術的な祭祀儀礼が行われていたことの証であるといえよう。時に天皇は自らの宮を道教寺院である「道観」を模して造らせたとも言われている。その顕著な例は斉明天皇の両槻宮であると言えよう。


 ここまでは極簡単に道教の概観を述べたが次に道教の神々の性格を具体的に見ていくことにしよう。

 ―――  ―――  ―――  ―――

芦田はこの本に非常に強い警戒感とその警戒の念より生ずる一層の興味とを同時に頭の中に抱いた。芦田にとっては衝撃的な内容が書き綴られていたのである。芦田の頭にあった既成概念は作者の独創性によって練り上げられたこの道教の入門書に対して自己防衛の構えを全面に打ち出していたが、芦田の感性はその独創性に惹かれ強い関心と興味とを露にしていた。道教の歴史や概要を読み終わると、腕の時計に目をやり講義の近づいていることを知った芦田はその本との別れを惜しみながら入り口にある水道で手を洗い書庫を後にした。芦田にはこの入り口の水道がまったく気に入らなかった、水道があるということは手についた汚れをここで洗えということだ。だが、本の埃を払わずにほったらかしにしているのは図書館員の職務の怠慢であり、それではまるで本が自ずと埃を被ったかのようではないか。なぜ、本たちを埃まみれにしておいて手を洗えば良いだけだという発想になるのか芦田には不思議でならなかった。

 

講義は民俗宗教であった。教授はいつも十分ほど遅れて講義を始めるため芦田はゆっくりと教室へ向かい、席に着いた。彼は講義によって座る席を決めている。民俗宗教は前から三列目の左側である。これは芦田の講義に対する関心度の表れであり、左側というのは横書きする講義では一番最初に黒板に書かれた文字が見るからだ。講義では東北に伝わる民間信仰が解説された、それは中国古来の道教の神が日本に渡り日本に順化された神の姿として祀られているというものであった。芦田は今日に限って滅多に寝ることの無いこの講義で机に突っ伏して転寝をしてしまっていた。だが、彼は気にすることも無く講義が終わり消されてしまった黒板の消し残ったチョークの文字を唯なんとなく眺めていた。次に考古学の講義があるのを思い出すと、カバンの中に筆記具をしまいこみサッサと講義のある教室へと向かった。ちゃっかりさっきの講義のノートは友人から借り受けている。

芦田はこの時間になると毎週のように嘗て読んだ事のある或る随筆家の文章を頭にうかべる。それは芦田が未だに今後の進路として民俗学者と考古学者のどちらを目指すべきかを決めかねている一つの要因でもあった。

―――  ―――  ―――  ――― 

考古学者と民俗学者      


考古学と民俗学というものは同じ日本文化研究の中でもその手法の違いはもとより同じ研究対象であっても解明の結果としての学説に相反するところが数多とある。殊に、考古学の場合その学説は極めて慎重であり、民俗学はその消極性を嫌い大胆なる提起を行う。或る民俗学者は土偶を以って先祖信仰の具象せる姿である(土偶を先祖の姿とする)と云い、考古学者はこれを某かの祭祀に用いたる道具であると云うに留まる。

考古学とは出土せる遺物に依りて、時には進んで近代的技術を取り入れ科学的実証を以ってその時代を特定し歴史を解明しようとする学問である。出土遺物を歴史の証拠として時間軸のブレを修正し又当時の空間を解明し再現するというような緻密な作業がこの学問の主目的であろう。であるから当然の如くにこれを専門とする学者先生は実証主義が何よりも優越する世界の中で生活している、そしてあまりに突出した妄想のような奇説には眼を向けようともしない、なによりも証拠の中より想像する確証の範囲内の外は相手にしないのである。そして、学説は師とした学者のそれを継承発展させることを善しとする学界の秩序が長い歴史の中で出来上がっているようにも感じられる。考古学会という世界は所謂体育会系秩序の基に成り立っているのだ。

民俗学は時に考古学的考えを研究の補助として取り入れる場合があるにせよ、多くの場合その考えを民俗学の自尊心に拠って批判する。民俗学者は考古学を含む歴史学者とは性格を大きく異にするのである。それは民俗学こそ日本文化の根底までも研究可能な唯一の学問であるとの自負を持っていることである。言うまでも無く歴史とは文献に表れたる表層のみを云うものではない、その時代に活きている民衆の動きをも読み取る必要があるのだ。そして今現在に於いて最も発展途上の学問であるということである。柳田國男によって提唱された日本民俗学は、柳田の功績によって広く認識されるようになった。しかし、民俗学の研究範囲は考古学の如き出土せる遺物のみを対象とするものではなく古代より現代までの日本人の庶民生活の解明という膨大なものなのであって決して容易なものではない。しかも他の学問とは違い研究の対象の大多数が無形であり、未来永劫継承の保障無く、今にも消えてしまいそうな蝋燭の灯を途絶さぬようにすることもこの学問に託された使命で在るように思う。民俗学は野学を研究の第一とする。山間僻地に出向き村の古老の話を聞き取り、又伝承行事を見聞しその真意義を解明するのである。であるから民俗学者という先生は無生物を土の中より発掘する考古学者とは違い、人間性の豊かであることが云えるのではないだろうか。様々な地方で人と触れ合いながらどれだけその土地の民俗を感ずることが出来るかが民俗学者には必要とされる、そしてその民俗よりいにしえを偲ぶ壮大なる想像心を持たねばならない。そしてその想像に他を納得させるだけの論拠として民俗を豊富に知る必要があるのだ。

柳田國男を始祖とする民俗学界の中においては越える事のではない絶対的存在の下に自由な研究が個々人に為されている感がある。民俗学者は日本に今、幾ら在っても足りることのない存在なのである。


考古学者とはいってみれば同族意識が強く排他的でありながらも消極的で無味乾燥な人間である。

民俗学者とはいってみれば絶対的存在を仰ぎつつ時には妄想をも自説として恥じない人間である。


学者とて又凡夫である。知を欲するは金を欲するに同じである。

―――  ―――  ―――  ―――

 考古学の講義が行われる教室は大教室であったが芦田は最前列の左側へと陣取り、ノートを広げ始めた。この席はモニターテレビの最も見やすい位置でもあった。今日の講義は出土文字についてである、木簡や文字瓦、墨書土器など古代の文字史料が考古学者の手によって発掘され古代史家によって解読されていく。ここにも道教が出てきた、墨書土器にはしつこく付き纏う人との縁を切るための道教の呪いの文字が書かれていたりする。ノートにメモを熱心にとりながら九十分の講義はあっという間に終わってしまった。芦田の頭には『道教学入門』がこびりついている、足早に図書館書庫へと向かっていった。愛しい人に一秒でも早く会いたいという心境と同じようなものである。

 

書庫はいつも薄暗く、人影もなかった。しかし、いつも以上に芦田は発せられるオーラの強いことを感じ取っていた。あの本に手繰り寄せられるかのように芦田は他に見向きもせず道教の並ぶ書架の前に立った。見るとその本からはオーラなどという抽象化されたものではなくまるで仏像にある後光のような神々しい可視光線が放たれていた。薄暗い中にあっては眩しすぎるほどの輝きである。この光は芦田がその本を手に取るのを一瞬ためらわせたが、芦田の手は無意識のままに光の射すほうへとのびていった。光る書物が胸元に来る頃には、既にその光は消え褪せており“第三章 道教の神々”という文字だけが目次の中に辛うじて輝いていた。迷うことなくその頁を開いてみると、何やら古代中国に在ったであろう威厳に満ちた皇帝のような姿をした神が描かれている。道教においては最高神と位置づけられ、名前を元始天尊と言うらしいその神は芦田に向かってゆっくりと口を開き何かを語り始めた。

『世界はすべて朕が手中にあり。森羅万象、悉く朕が足下に伏せり。云々』と何やら小難しく自らが世界の真理であるかのように威厳正しく述べている。芦田はその玉声の大きいことに多少とまどい、誰かに聞かれはしないかという不安におそわれた。今日に限って誰かが書庫に用あって入ってくるかも知れないと感じ、人の気配の無いことを聴覚を研ぎ澄まして確かめてみた。しかし、神の声は芦田の鼓膜をふるせながら脳内に入る音波のようなもので無いのに気がついた。この声は耳から入ってくるんじゃない、芦田はその声が本を掴む指先の一本一本から伝わり、腕を通って腹の底の方に落ちて溜まっているような異様な感覚に囚われている。元始天尊の語る真理の玉声は腹の中にあっていまだ鈍い光を放っている様である。中国のしかも民間宗教の最高神がなぜ世界の真理なんだ、芦田はそれを信じきれずにいた。創造主は、大日如来は、天照大御神は、アッラーは…。彼の薄識が腹に光る不気味な言葉の理解を妨げた。だが、芦田はその疑いを問い返すことが出来ないでいた。元始天尊は、その疑問の生ずるのを見抜いていたかのようにまた語り始めた。

『いつの時代であったろう、ある時天上の朕を訪ね来た者達がいた。彼らはこう申しておった―吾らは下天聖会に集いたる者でございます。今や世界は吾らの説いた教えを以って自らの私腹を肥やさんとする似非の聖が数多蠢き、世界は終に吾らの教えによって戦を起こし破滅に向かって歩き出してしまった。釈迦牟尼の提案によって、ここに参上致しましたる、キリスト・ムハンマド・ソクラテス等謹みてこの解決の策を上合虚道君応号元始天尊に仰ぎ奉る。―釈迦牟尼にあっては既に朕が真理に帰依し、初江大王陰徳定休真君との号を与えられ今は三途の川の管理を担っておる。彼らの話を承って朕は他の三賢人に先ず、宇宙の真理の唯一なることを説いたのだ。数多の教えあれどもその最高の真理は二つとない。唯一つの宇宙の大生命たる真理の姿を様々に変えて教えとしているに過ぎないのである。天に二つの陽は照らず、争いの生じるのも自らの信じる真理が相手の信ずる真理よりも正しく勝っていると考えるからである。だが、朕の見る限りは一つしかない大真理を愚かなる凡夫の観念によって都合のいいように捻じ曲げ、お互いが違うものであるかのように見せ合って競い合っているだけの虚妄の戦にすぎないわけだ。云々』

芦田の腹の中にはなんともインチキくさいこの言葉が、ずっしりとあの真理の玉声の上に覆いかぶさっているのが感じられた。元始天尊の言い分は直に理解できた、つまりは所謂世界の聖人達が意見を求めに来るほどに自分は偉いのだと言いたかったのである。なるほど、それならば自らが世界の真理であるというのにも納得がいく。しかし、それはなんとも強引であるようにも思った。だがそう思ったのも束の間、次の瞬間にハッと我に返った。甲高い電子音が館内に鳴り響いたのである。これは閉館五分前に館内に残る学生達に帰宅を促す為に鳴るチャイムだ、それと同時に貸し出し希望者は早くカウンターへという催促の言葉が若い女性司書の声で聞こえてきた。芦田は『道教学入門』を閉じるとこの本を書架へと直しかけたが、まだ色々な神が自分に何か語りかけたそうにしているのをいつものオーラによって感じとり、この本を借りて帰ろうと決意した。しかし、芦田は五冊という貸し出し制限の全てを使い切り全くこの本を借りるための余裕が無いことをカウンターで告げられ、渋々また書庫へと戻しに行った。この場所でしかあのオーラは感じられなかった、さっきカウンターへ持って行ったときには確かにそのオーラを全く感じることが出来なかったのである。芦田はその事に気がつくと、五冊の本を借り切っていた自分を褒めながら明日またくるからといって書庫を後にした。

 元始天尊の語った言葉は、今やっと腹の底から脳の中へと昇華されていった。今までには経験の無い脱力感と空腹感とだけが残っている。外はもう薄暗く、学校にある売店にはシャッターが下りていた。電車は帰宅途中のサラリーマンで今でも押し潰されそうである。腹の蟲が幾度となく鳴いた。何も考えることなくただ人ゴミと空腹とに耐えながら電車を降り、家へと急ぐ。いつもなら駅前のコンビニで目に付いた雑誌を丹念に立ち読みするのが習慣であったが、芦田をそうさせるだけの余裕を精神と肉体はともに持ち合わせてはいなかった。

 

家の前に立ちドアを開けようとしたが、開かない。しかし、家のドアを開けられないまでに衰弱していた訳ではない。朝、家を出る前に母親から鍵を渡されたことを思い出した。泥棒除けの心算であろうか、リビングには蛍光灯が白色に覆われたものの中に煌々と輝いていた。食卓には夕食が並べられている。父と芦田の夕食を準備した母は三時間に及ぶ変身の後、彼女の持つ最も高価であろう金剛石のリングを白く細い薬指に滑り込ませ、迎えつけたタクシーの後部座席へと身を素早くねじ込んで行った。芦田の帰宅する十分ほど前の出来事である。芦田はそのまま自分の部屋にカバンを置きに帰ることもせず、着替えることもなく食卓に向かい与えられた食事をまるで動物園に居るライオンの様に貪った。テレビのリモコンが目に入ると透かさず手を伸ばし、静か過ぎるこの場を紛らわせるかのように賑やかなバラエティー番組が画面に映し出されるまでチャンネルを変え続けた。芦田の笑いのツボは多くの人のそれとは違う、失笑することさえもなく三十分のオ笑イ番組は終了してしまった。一杯の水を飲みほすと、冷たくよどむ空気の中で眠りについた。九時のニュースはイスラム原理主義者による自爆テロの事件を生々しく伝えている…。

 

闇の中にあって夢は突然に現れるものである。意識を失った芦田の顔面は彼の見る夢の穏やかであることを窺わせるかのように微笑みをうかべていた。

 

リビングのソファーに横になったまま芦田は父親の帰宅したことにも気付かずにいた。父も芦田を起こそうとはしなかった。ただ彼の微笑みに、心身の疲れが癒されたかのように微笑み返し一枚の毛布をそっと芦田にかけてやった。父親は無言のままに食事を済ませ、おもむろに食卓に折りたたまれてあった夕刊を広げた。一面を読み終えるごとに湯呑をすすった。この父はその日の気分で体内に入れるアルコールの種類と量とを決めている。今日は食事には一滴も飲まず、風呂上りの熱った体に沁みわたる冷えきった一杯のビールの爽快感に賭けていたのである。あの満員電車の中でこれを考える事だけが唯一の楽しみでもあったのだ。新聞の一面トップには、昨晩発生した幼児誘拐事件の続報がその経過と共に詳細に記されている。記事では未だ幼児の安否は不明とのこであったが、小さな円の中に写された幼児の写真は満面の笑みを湛える遺影のようにも感じられた。父は新聞を読み終わると崩れかけた新聞を軽く整え、風呂場へと向かっていった。消し忘れたテレビからは十時のニュースがむなしく流れる。アナウンサーはさも悲しそうに声を震わせ、幼児の死を伝える原稿の台詞を読み上げていた。幼い命がまた一つ何者かの手によって絶たれたのである。満面の笑みをうかべた遺影はまさにほとけの姿そのものであったのだ。






 いつの間にやら、東の窓からは朝の光が燦々とふりそそいでいる。芦田はその眩しさに目を開けた。母は台所に立ち朝食の用意をしていた。弁当箱はぎっしりとおかずを詰められて後は白米の炊き上がるのを待っているかの様である。イマドキには珍しく一切冷凍食品を使わずに手料理で仕上げられている。夫である芦田の父は、この弁当に妻の愛情の全てを感じて満たされていた。

 芦田はソファーの上で一晩中寝ていた所為か自由に寝返りもうてず、節々に鈍いものを感じながら起き上がった。微笑ましい夢はもう今まさに忘れ去られようとしている遠い記憶の一片でしかなかった。食事を済ませ、シャワーを浴びると身支度のために自分の部屋へと上がって行った。ポケットからふとケータイを取り出してみるとメールマークが殺風景な待ち受け画面の左下に現れていた。二通の未読メールは昨日ノートを借りた友人からであった。芦田は性格からか届いたメールは届いた順序で読むようにしている。『明日は2限目休講だったよな?』芦田は何か重大なことに今はじめて気付いたかのような心境にあった。日付の変わった頃に届いたメールには『2限目休講。』とだけ僅かな友情と気遣いとを醸し出す一文が綴られていた。こういう確認の問いかけだけは真っ先に彼のケータイへと届けられ、芦田はそれにいち早く正確に返事をしてくれると友人達からは定評であった。いつもの芦田ならこれはシメたとばかりに再び寝床にもぐり込むところであったが、身体は図書館の地下から発せられる神々の声に誘われるかのように身支度を整え、玄関を出た。

 流行の曲が流れるイヤホンを片耳にだけ突っ込み、通勤ラッシュも下火となった頃の辛うじて空席の残る鈍行へと駆け込んだ。彼の両足が車内に着くやいなや、発車のベルが鳴り響き左右から出た重たいガラスのドアががっちりと閉まった。

 大学構内にある大きな柱時計の針は、芦田がその前を通り過ぎるのを待っていたかのように十時零分を示し鐘の音を響かせた。その鐘の音は確かに芦田の片耳から聞き入れられていた。

 図書館の書庫には今日も誰も居ない。ただ薄暗い光の中であのオーラだけが感じられた。『道教学入門』は昨日戻したその場所にある。手に取り、第三章へと頁を繰った。だが、三限目に講義を控えた芦田にとっては昨日ようなことになるのだけは何としても避けたいと思っていた。出来れば腹の底に響かぬような(軽い)神が話しかけてくれるのを望んだ。頁をパラパラと捲っていると、異容な神の姿が目にとび込んできた。蒼頡というらしいその神は木の葉を衣にして全身に纏い、それぞれの目の上にもう一つ目を付けている。四ツ目で顎には長い髭をたくわえ総髪姿の蒼頡は何か自慢気に語り始めた。

『余は神代より黄帝に仕える史官なり。汝らの使う今、漢字と呼ばれる文字を生み出したるは余なり。』腕を伝わるこの言葉は腹へ落ちることなく、すっと脳の中へと消えていった。芦田は、これが雑学として信用に足るものかとどうかと考えるほどに余裕があった。しかし、論拠を聞かずしては芦田にはこの準雑学をどうすることも出来なかった。『余が黄帝の命を受けて白銀の世界に赴いた時、皚皚たる白雪の上に鳥や獣の残した足跡を目にして深い瞑想の世界へと入った。百日間の瞑想の末、この足跡によってそれを残した鳥や獣の何たるかを知ることが出来るならば文字によっても足跡同様その概念を知ることが出来るのを悟ったのである。それからというもの余は森羅万象に文字を与えた。その発明は天上より粟を降らせ、鬼神を泣かせ、龍をも姿を隠すほどであったのだ。』芦田は感激の眼差しで話しに聞き入っていた。蒼頡の実に堂々とした話し振りは、芦田を納得させずにはいられなかったのだ。そして、異容であったはずの四つの目が鋭い観察力の象徴であるかのように思えた。語り終わると蒼頡は満足気にたくわえた髭をもてあそびながら、頁の閉ざされるのを待っていた。芦田も何か得した様な気分になった。この自分のものとなった雑学を早く誰かにひけらかしたいという逸る気持ちを抑えつつ、芦田の指は次へと頁を進めた。

 竈神という“漢字”二文字が見えた。神の姿は元始天尊ほどに立派ではないものの、いかにも高位顕官の纏うような装束をしている。竈神というぐらいなのだから火を司る神であることぐらいは見当がつくが、現代日本においては竈はまさに無くなりつつありガスコンロさえ火の気のない電磁調理器へと取り替えられようとしている時代である。あまり自分には関係のない神であろうと思いながら、軽い気持ちで竈神の語りかけてくるのを待った。

『私は竈神です。』今までの神々とは違う、その穏やかな口調に芦田は益々安心していた。『竈の神は私だけではなく世界各地に火伏せの神として祀られていますが、道教が世界の真理であるかぎり私が各地に祀られている神々の基礎となるべき祖神なのです。』竈神は話し振りに似合わず強気の自信に満ち溢れていた。芦田からはさっきまでの安心感が消え失せ、少し引き気味に態度を変えて身構えた。『私は家庭の台所にいて、いつも人々の暮らしを見守っています。災いの起こらぬように、家内円満であるようにと私を祀る家庭は昔は日本でも少なくなかったのです。ですが、私は祀っていただけないからといってその家庭を見放したりはしないのです。いつも台所にいて火の見張りをしています。そして、私は天上界に坐す玉皇大帝さまの言い付けによって一家の行動を監視し、年に一度昇天して天上界の神さまにその行動を事細かに報告しいてるのです。玉皇大帝さまは私たちのまとめた報告書をもとに一人一人に翌年の福災を定められます。極悪非道の人間には寿命までも玉帝さまはお縮めになるのです。』

芦田は、自分の寿命までもが道教の神によってコントロールされているという発想を抱いた古代人たちを心の中で嘲笑していた。『私のほかにも三尸と呼ばれる三匹の蟲は人間の脳と腹、足に棲み付き、庚申の日の夜に人が眠りにつくと天へと上り天上界の東岳大帝さまにその人の悪罪を詳細に告げに行きます。ですから人間達は呪いによってその三尸を殺そうとしたり、日本でも庚申の日の夜は寝ずに酒盛りをしたりしていたようです。それから…』芦田にとってこれは笑い話に過ぎなかった。枕元で母親からお伽話を話し聞かされたような心地よい気分に浸っている。芦田にとっては三尸の蟲よりも腹の蟲のご機嫌を取るほうが先である。良い具合に腹も減り、二限目の終わる十五分前の今の時間こそ食堂で列を作らずに食事にありつける好期でもあった。芦田は迷わず本を閉じ、丹念に水道で手を洗うと書庫を後にした。芦田の去った後、神々はあの神々しい後光とともに本から抜け出し書庫の一隅では元始天尊をはじめとする道教の神々が一同に会しての聖議が始まった。何か芦田の話をしているようである…。

 芦田は、食堂で昨夜メールを遣した友人に会った。彼は朝から芦田を探していたらしく、何処へ行っていたのかとしつこく問い質した。メールをしたらしいが地下の書庫では圏外になってしまっていた。そして、芦田は友人に十時からずっと書庫に居たことを話すと、友人は疑り深い目で「嘘だ」と断言してみせた。彼は芦田とは長い付き合いである、最近いつもの指定席に居ないことを知って今日も何度か書庫を隈なく探したのだと語気を強めて言った。そんな馬鹿な…。芦田の足はガクガクと震え出し、その場に立ちすくんでしまった。冷たく嫌な汗がじわりと体中から滲み出るのを感じた。顔色は真っ蒼である。食欲を失った体からは力が抜け落ち、芦田の抜け殻は友人に付き添われ健康管理センターにまでやっとの思いでたどり着いた。芦田の目に幽かに友人の去っていく後姿だけが映っていた。

 

芦田は一時間ほど深い眠りの中にあって、何かおどろおどろしい夢に魘されているかのように額に大粒の汗を無数に噴き出していた。今、自分が白いカーテンに囲まれた中に一人臥せっていることを動かぬ身体から眼球だけをギョロリと回して認めると、ゆっくりと獅子の目覚めるかのように身体を起こした。時計を見て既にドイツ語の授業が終わりかけているのを知ると、芦田はあっさりと授業に出ることを諦め、二点の出席点獲得を放棄した。芦田は苦手のドイツ語であっても単位だけは取得する自信があったのだ。

 芦田は、センターの職員にもう大丈夫だからと謝辞を述べ食堂へと向かった。既にほとんどの食券は“売切”の赫になっている、小銭を入れてキツネうどんのボタンを押した。如何にもじっくりと煮詰めましたと言わんばかりの大判の油揚げが一枚のせられたうどんを一気にたいらげると、あの友人を探そうともせず校門を出ていってしまった。

 

電車は朝のように所々に空席があった。鈍行に揺られながら、あの時の状況を冷静に思い返してみた。なぜ、あの友人には自分の姿が見えなかったのだろうか、あの場に確かに自分は立っていた筈なのに…。もしかするとあの蒼頡が友人の来る気配を感じ取り自分を透明にしてしまったのかもしれない。芦田はまたぞっとして、背中に冷たいものが流れ落ちるのを感じた。きっと神は人間を透明にしたり、また元の姿に戻したりすることが出来るのだ。唯そうであったに違いない。芦田は無理矢理に自分の今編み出した超が付くほどに非科学的な理論を自分に信じ込ませ、気持ちを落ち着かせた。きっとそうだったのだ、と。芦田の脳には片隅に追いやられた、現代科学という名の反動分子たちが蠢いていた。そして、芦田は竈神の口から最後に発せられた『それから…』という言葉だけが脳に入らず、腹の底に沈み鈍く光を放っていることをようやく思い出した。全くもって嫌な予感がしている。この言葉の続きが無性に知りたくなったが、芦田は既に家への最後の曲がり角を曲がり終わったところであった。今日は母親から鍵を渡されてはいなかった。

 「ただいまー」誰も居ない玄関に向かってなげかけられた言葉は、家の奥から聞こえてきた「おかえり」という細い声によって辛うじて報われた。母親は趣味のケーキ作りに夢中になっていたのかそれ以上には何の言葉も返してはこなかった。芦田は、自分の部屋へと階段をかけ上がり、ベッドの中で布団をかぶって再び『それから…』の意味を考え始めた。だが、いくら考えたからといって分かるはずもない、芦田はケータイを開いて友人への礼と自分への用件を尋ねる文とを二、三行打って送った。『今日はゴメン。探してたって言ってたけど何か俺に用だった?』送り終わると、ケータイを枕元に置いたまま甘い匂いのする方へと下りて行った。うどんとケーキというなんともアンバランスな組み合わせにも構わず、リビングで新聞を広げながらケーキの出来上がるのを待った。三面記事と文化欄とを読み終わると、四コマ漫画に不気味な笑みを浮かべテレビ欄を隈なくチェックし達成感にも似た何かで芦田の心は一杯になっていた。上品に仕上がった母の自信作は芦田の小腹を満たし、腹の蟲を賛嘆せしめた。母はほとんどいつも上機嫌であった。芦田にとって母の笑顔は家庭を明るく照らす太陽のようであり、平塚らいてふの述べた《元始、女性は実に太陽であつた》との言葉が母の莞爾として笑う姿を見る度に頭に過ぎった。

 芦田は不意にまた『それから…』の続きが知りたくなった。竈神は家の台所にいて人々を監視している…。芦田は突然立ち上がると台所へ行き、朝見た竈神が見えはしないかと目を凝らして隅々まで見回した。すると、何かあのオーラと同じようなものが弱いながらも感じられる、どこかにいる、芦田はそう言い聞かせて再びそのオーラの放たれる方へと目を遣った、しかし見えるのはコンロだけで神の姿を見ることは出来ない。母はコンロからガス漏れでもしているのかと芦田に尋ねた。芦田は首を横に振るだけで返事もせず、ひたすらコンロを見つめていたがついに神を見ることが出来なかった。なぜだ…。芦田は神が本来あのような姿を本当にしているのだろうかと思い始めた。神の姿とは人間が作り出した虚構である。そう結論付けた芦田であったが、もう少しであの神の姿を見出すことが出来そうであった自分をむずがゆく思った。自分に何か力が足りなかったのか、それとも神が姿を現す儀式か何かがあるのだろうか。この時、芦田の頭の中にあった科学的思考は完全に停止し、非科学の思想が脳の全てを支配していた。

 部屋の本棚の奥から世界宗教図典を引っ張り出し、机に広げると、道教の解説されている頁を見つけ出した。そこには“竈神送り”と題された怪しげな祭祀の写真が二枚載せられている。一枚には家の庭に祭壇を設けて、供物を捧げる人々の姿が写し出され、もう一枚には木彫りの竈神の像が写されていた。図書館の書庫にあった『道教学入門』に描かれた竈神とは少しまた面影の異なったものである。その神像の口には何か透明に光るものが塗られている、解説にはこれが水飴であることが記されていた。口を水飴で塞ぎ、竈神が天上の神に悪事を報告出来ないようにと考えられたらしい。なるほど、と芦田は頷いた。

この儀式によって竈神のご機嫌をとっておきながらその上、口に水飴を塗るという強引な手法は芦田を唸らせもした。人間は神を信じその恐れから供物を捧げているのであるが、その畏れる神に対して人間が強引にも口に水飴を塗っている様は実に人間主体であって、神の存在を畏敬しながらも人間を中心とした信仰を行う。この対立する二つの矛盾を見事に融和させた道教は古代人にとって究極の宗教であったにちがいない。西洋において人々は中世まで基督教という最高の道徳規範を支えながら息の詰まるような生活を営んできた、その反動はルネサンスによって結実した。これは神を中心とした価値観に人間の生への意志が限界を感じた結果である。しかし、道教は人間の生への意志の極限である不老長寿までも人間が厳しい修行に耐え神に近づく仙人になることによって可能になるものとしたのであった。日本古来の神道であっても人間が神に近づくことは出来ない。道教が日本に渡り神道や仏教と結びつき、山岳信仰や修験道など独自の信仰形態を生み出したのである。

 竈神の姿を我が家の台所では見ることが出来ないと分かると、図典にあった神像をそっくりと真っ白な紙に書き写し、階段を下りて台所へ向かった。母親は不思議そうに芦田の行動を眺めている。芦田は先ほどの紙を台所の棚の戸に貼り付けた。これが竈神という災い除けの神であることを母親に説明すると、手を合わせ再び目を見開いて竈神をじっと見つめた。すると『あの書の前に…。』という透き通った言葉が芦田の合わせた両の掌から腕を通り脳へと入ってきた。それはまるではるか彼方、悟り境地より語りかけられる慈悲に満ち溢れた仏陀の言葉のようにも感じられた。その他にはいくら手を合わせて竈神を見つめても語りかけられることはなかった。

 芦田はこの夜、まったく寝付けずにいた。何度もケータイを開いたが、友人からの返事はまだ届けられてはいなかった。時間の経過は極めて遅い、これほどまでに夜の闇が孤独で長かったことは無い―。

 




翌朝は早くから用意を整え、大学へ向かい図書館の開館するのを待っていた。午前九時の鐘の音と共に図書館の扉が開けられ、芦田は足早に書庫へと入っていった。神々は既に聖議を終えてそれぞれの頁に描かれた図像の中へと帰っており、芦田の到着するのを待っていた。芦田は『道教学入門』を手に取り、竈神の姿のある頁を指で繰って探した。しかし、気持ちの焦っている時ほど目当てのものは見つからないのが世の常である。何度も第三章を行ったり帰ったりしてやっと竈神という文字を見つけることが出来た。竈神はいつにも輝きを益しながら、芦田の方を窺っている。芦田の目には竈神の姿が見えぬほどに眩しい光が映っていた。

『さきほどまで聖議を重ね、あなたを天上界へ召されることを玉皇大帝さまはお許しになられました。あなたは神々との対話を許された稀有なる人なのです。』芦田には竈神の言葉が全く理解できない。自分がなぜ天上界へ行かねばならぬのかその理由に心当たりがなかったのである。

『私はいつもあなたの家族のオコナイが真理に背かずにいるかを監視しています。そして、あなたの家庭生活が常に真理とともに営まれていることに感心していたのです。ですから或る月の晦日の晩に私は毎年のように天界へと上り、天帝さまに芦田家の皆が善良であることを報告にまいりました。すると、その時天帝さまは雷の如くお怒りになり私が虚偽の報告をしているのだと申されるのです…。』芦田は家庭内に何か背徳の行為が生じていた様には思ってもいなかった。ただ芦田にはその心当たりを無理にでも見つけねばならぬとすれば、それは兄の行いであろうと感じていた。芦田の兄は高校を卒業すると同時に家出同然に上京し、今もどんな仕事で生計を立てているのか両親も知らない。しかし、年に一度だけは欠かさず不定期の連休を利用して家に帰り、共に一家の団欒を満喫していた。両親はその団欒の度に兄に仕事の内容を尋ねたが、兄からはそれを聞かないで欲しいというような意味の言葉が返されるだけであった。最近では両親は兄が何か社会の闇に紛れ、仁義の道に生きているのだと勝手に決めつけ、涙ながらに夜な夜な仏壇へ手を合わせているのを芦田は目撃していた。芦田はきっとこれこそが芦田家にある背徳の全てだと感じた。竈神はそれを聞いていたかのように『あなたのお兄さんは今、東京で寝る間も惜しんで立派に働いておられます。彼は将来きっと頂上へ登り詰めるでしょう。』芦田は兄が組長となった姿を想像し、身を震わせた。

『あなたのお兄さんは昼は町工場で汗を流し、夜には夜間大学へ通い法律の勉強をされています。そして、その合間にも工事現場で過酷な力仕事に耐えておられるのです。』兄貴…、芦田は心の中に一筋の涙を流しながら想った。芦田の兄は、両親の期待に背き大学への進学を拒んで上京した所為もあって、両親に素直に自分の現状を告白することが出来ないでいた。それに、兄には弁護士となって両親を驚かせて喜ばせてやろうという企みもあったのだ。それまで両親を嘘をついてまで安心させようという考えは堅気の彼には到底無かった。では神の言う背徳とは何なんだ!芦田の頭の中の思考回路は短絡し、真っ暗になった。それと同時に、芦田は一気に先の見えぬ不安へと陥った。

『私は天帝さまにこれはどういう訳かと尋ねますと、あなたの母親について報告に誤りがあると申されました。』芦田はただ呆然と指先から聞こえる神の声を聞いていた。

『私は不思議に思い、天帝さまのお許しを得てあなたの母親に棲む三尸にその詳細を聞きましたところ…。』芦田は未だ呆然と漂える意識の中に神の声を聞いていた。

『あなたのお母様の余命がもう幾ばくもないと…。つまりはあと三年のお命なのです。』芦田は混沌として漂える意識の海の底へと埋没していった。芦田はもう立っているのがやっとである。

『しかし、あなたは稀有なる者なのです。あなたの母親を助けることの出来る…。』芦田ははっと我に返り、だんだんと海底に沈む自己を船上より手繰り寄せて引き上げ始めた。どうすれば…、しかし、なぜ!芦田は母を助けることよりもまず母がそうなった理由を一番に欲していた。芦田の心は先ほどまで海底に沈められていたことを感じさせぬ程に渇ききっていた。むしろ彼は今、絶望の砂漠をオアシスを求め彷徨っている。しかし、彼の身体は極限までに冷え切っていた。

『三尸はあなたの母を常にあなたの母の体内から監視し、その悪事を記録しています。私には見抜けなかった彼女の全てを知っているのです。私の目を欺くことは出来ても自らに棲む蟲を欺くことは出来なかったのです。』芦田は遙か向こうの方に樹木の生い茂る泉の景を見つけたかのようである。芦田はそれが蜃気楼でないことを祈りながら一歩一歩近づいていった。

『あなたの母は幾度にも亘り夫ではない男性と目合ひ、その貞節を夫に尽くさずにいるのです。』竈神は三尸の言葉を偽り無く述べた。芦田はオアシスに辿り着き、両手一杯に清水を汲んで一気に飲み干した。喉の渇きは今までが嘘であったかのように消えていった。しかし、次の瞬間には激しい腹痛と吐気に襲われ、今まで信じてきた全てのものが目の前で音を立てて崩れ始めるのを感じた。芦田の身体は、妙薬なくしてはもうどうすることも出来ぬほどに衰弱している。

『人間は寿命を出生とともに元始天尊さまより百二十年与えられるのです。そして、その人の善悪のオコナイにより玉皇大帝さまはその人間の寿命を延ばしたり、縮めたりなさいます。もっとも重い罪は人を殺す事であり、これを犯した人間は五十年余命を削られることになります。また、一度不貞を犯せば一年の寿命が縮められ、あなたの母の場合にはそれが既に七十幾つにも及び残された寿命は僅か三年にまで縮められてしまったのです。いくら家庭の良き母であってもその善行による余命の回復は直に一度の不貞によって虚構のものとなってしまうのです。』芦田は荒波打ち寄せる岸壁の上に佇んでいた。意識は遠のき、瞳孔は光に反射し狭めることを忘れ去っている。

『ですがあなたは稀有なる者なのです―。』芦田の開ききった瞳孔は眼前に妙薬の壺を携えた老人の姿を捉えた。

『あなたは母を助けることの出来る人間なのです。』芦田は最後の力を振り絞り、老人の手から差し出された妙薬の壺を握りしめると一気にその口縁を口へと当てて、どろどろと流れ落ちる金色の液体を胃の中へと流し込んだ。芦田の身体は宙に浮かぶ雲の一片のように軽くなった。その途端、芦田の脳は科学への回帰を始め本当に母親は不倫を重ねているのか、ましてや余命三年というのには何の科学的根拠も無いではないかと思い始めた。芦田はもう竈神の言葉を聞こうとはしなかった。たかが一冊の古本に、しかも非科学の極致ともいうべき道教に自身がこれほどまでに揺れ動かされていることを情けなくも思った。

『一日の猶予をあなたにあげましょう。もし母を救いたければ再びこの書の前に…。』芦田はほとんどこの言葉を聞いてはいなかった。

 芦田は本を閉じて書架へ直すと、腕に巻かれた時計の文字盤へと目をやった。時計の針は優に六時を過ぎていた。不思議なことに芦田の身体はあの時のままに軽く爽やかであった。九時間にも及ぶ神の教諭は芦田にとって三十分にも満たぬ短い時間であったかのように感じられた。これはあの妙薬のお蔭であろうか。

 芦田は図書館を出るとケータイを広げ、メールの有無を問い合わせながら門へと急いだ。三通のメールが届けられ、背後の電飾が単調に緑色の光を放っている。三通の内、二通はあの友人からであった。『前に貸したノートもう写した?できれば明日持ってきて欲しいんだけど…』『今どこにいる?書庫にもいないようだけど。』芦田は借りていたノートを未だ写してはいなかったがコピーをとって明日返すことを返事し、書庫での怪奇には触れずに某所に居たということだけを伝えた。その時芦田の自己が、怒涛の海に埋没し、欲望の砂漠を彷徨っていたといっても誰が信じてくれるだろうか。

 カバンに入れっぱなしの友人のノートをコンビニでコピーし、コンビニで雑誌を立ち読みするという習慣も無意識に再開した。心には一点の曇りもない青空が広がっていた。自分の中に空をもつほどに爽快な気分を未だ嘗て感じたことがない。

いつもなら台所に立つ母の耳に微かに届く芦田の「ただいま」が今日は家中に響き渡った。しかし、母はそれに答えようとはしなかった。芦田は台所に立つ母に近づき、ふたたび声をかけた。母親は深い瞑想に入っていたかのように何かを思いつめたような顔をしている。芦田に肩を叩かれて、その深い瞑想から脱した母は「おかえりなさい!」と声を高くして言った。芦田は不思議そうに太陽を失った母を見つめながら、皆既日食の只中にある我が家で蛍光灯の明かりの無力さを感じていた。どうしたんだ、芦田は母にそう問いかけようとしたが口からその言葉が発せられるのを芦田の何かが必死にくい止めている。『不貞…。三年…。』芦田の頭に一瞬、神の声が過ぎった。しかし、太陽であった母がそうであるはずはないと自分に言い聞かせ、何か気分が優れないのだろうとその場を立ち退き、自身の部屋へと入っていった。ケータイにもう一通メールが届いていることを思い出すと、滅多に来ない父からのメールを開封した。『母さんに人間ドックでガンが見つかった。俺が呼ばれて先生に話しを聞くとそのガンはもう治せないらしい。それで母さんはもうあんまり生きられないみたい 長くて三年だそうだ。でも母さんには絶対言うな!これは男同士の約束だ。…』芦田は再びあの波寄せる断崖絶壁にいた。背後からは黒い闇が芦田を再び海の藻屑へとすべく近づいてくるのを感じた。芦田はベッドへと泣き崩れた。この世から太陽が消滅することほどの恐怖はない。母の死は彼にとって最大の恐怖であった。『…飲みに来ないか?俺はもう会社休んで駅の居酒屋にいるからよう。』芦田は父の気遣いに再び枕元に額を押し当てて泣いた。背中に感じられる大きな闇が忽ちに啓け、無尽の光が芦田を包み込む瞬間であった。玄関に下りて芦田は台所にいる母に向かってこれから父と飲みに行くことを告げた。目を赤くした顔を母には見せたくなかったのである。母は芦田に聞こえるように返事をし、芦田を送り出した。

 居酒屋の片隅で父は泣きながら酒を飲んでいた。それを見た芦田の目からは涙が再び溢れ出した。二人は泣きながら、そして母への愛情を確かめ合いながら酒を注ぎ合って飲み交わしていた。いくら飲んでも酔うこともなく、ただ無言のままに共に酒で胃袋を満たした。これからについての話など、無用である。二人の目から流れ落ちる涙のしずくを猪口はやさしく受容れていた。二人の悲しみの時は、静かに過ぎていくばかりであった。

芦田は、酒の中に浮き沈みする自分があの時の自分とよく似た感覚であることにはっと気が付いた。海の底へと沈む自己…。

 芦田は今までの悲しみが全て虚妄であったかのように表情を一変させ稀有なる自分への感謝の祝杯をあげた。母は助かる、道教の神は真理である!母の余命を見事に言い当てた道教の神は森羅万象の真理である!母は救われる、救われるのだ。芦田の脳は今、一切の科学を排除し、純真なる神への信仰が揺るがぬ支配を確立した。父親は芦田の誇らしげなその表情には気付かず、まだちびちびと酒を飲み続けていた。

 父親に抱えられ帰宅した芦田は美酒の海にどっぷりとつかり、夢の中にあった。芦田の寝顔はあの新聞にあった幼児の遺影のようでもあった―。父と母はいつもと変わらぬ家庭生活を演じていた。不自然であったのは父の目が赤く腫れ上がっているぐらいである。

 












 翌朝、爽快に目覚めた芦田は足取り軽く図書館へと向かった。もう講義のことなど頭の片隅にも残ってはいなかった。彼は純心なる神への信奉者であって、知識欲さえも煩悩として捨て去った真の聖者であった。芦田は書庫で『道教学入門』を手にし、光輝く竈神に向かって恭しく、自分が天上界へと昇り玉皇大帝に母の命乞いをすることを決意したと伝えた。竈神は幽かに微笑んだようにも見えた。

『明日の朝、あなたをお迎えする為三人の天女が天上より遣わされます。あなたはその時、天女に身体を委ねて母の命の長引くことを一心に祈り続けなさい。』芦田はこの言葉をしっかりと記憶の中に刻みつけ、明日の朝きっと起きる神秘の体験に心躍らせていた。その落ち着いた神の声は、芦田の腹の底にあっても重苦しさを感じさせず綿雪のように静かに白く積もった。その雪は止むことなく、神の言葉は静寂を保ちながら続いてゆく。

『しかし、忘れてならぬことが唯一つあります。それはあなたが床に就く際、何か木の枝の一本でも握りしめながら寝なくてはならないということです。街路樹の下に落ちる一本の細枝でも良いのです。これを決して忘れてはなりません。』芦田には竈神の目に今にもこぼれ落ちそうに、それを耐える一片の光り輝くものの在るのを見て取れた。その感激に芦田は再び目を潤ませた。一本の枝、一本の枝、芦田は何度もそう繰り返しその言葉を二度と脱することの出来ない太い鉄格子のある独房へと押し入れた。閉じられたままの他の神々の頁からも透き通るようにすすり泣く声のするのを感じた。芦田の胸は使命感にも似た、しかしふわふわとした何かで満たされていた。竈神は神妙な面持ちで最後にこう附言した。

『このことは決して他言してはなれません。ましてやあなたのお母さんには絶対に言ってはなりません。これを今後だれかに伝えればその時、あなたはもう愛するお母さんを救うことが出来なくなるのですから。』芦田は確と心得、その自信に満ちた表情を竈神へと向けた。竈神の目から耐え切れぬほどに溢れた出た一片が光芒となって頬を伝うのが見えた。静かに本を閉じると、芦田はゆっくりと薄暗い書庫の中を光の射すほうへと歩き出した。もう水道で黒く汚れた手を洗うことも無い。彼の手に付着する埃の一粒子までもが神からの恵みのように感じられた。これこそ神の宿る聖なる手なのだ!芦田の精神は図書館に通う一学生のそれとは違い、むしろ半狂乱に神下ろしするおかんなぎ(覡)のそれに近かった。

 皆は、芦田を取り巻くただならぬ霊気を感じて芦田の通るのを物珍しそうに眺めている。芦田にはその光景の一場面でさえも見えないでいた。すると、突如として芦田の前に背の高い黒い影が立ちはだかった。かの友人である、芦田の肩を両手で激しく揺り動かし強引にも芦田を現実へと連れ戻そうとしている。芦田はそれにも動じず、翁のような笑みを浮かべて彼の言わんとするのを承知していたかのようにおもむろにカバンから昨日コピーを済ませたノートを取り出した。友人もそれさえ返してもらえれば芦田をこれ以上どうすることも出来なかった。芦田は、今日はそのまま帰宅する旨を友人に伝え去っていった。

 帰りの電車の中で芦田は玉皇大帝にどのように母の命乞いをしようかと考えていた。玉皇大帝は自分が天上界に昇ることを許してくれたのだから、まずその礼をせねばならないとも考えた。そして、天上界という神々の住む世界が如何なるものであるか想像を膨らませていた。芦田は何度か仏教絵画を見たことがある。芦田の眼前には青色青光.黄色黄光.赤色赤光.白色白光、微妙香潔の極楽国土が広がっていた。池中の蓮は色とりどりに大輪の華を咲かせ、その華には美しく光が射している。天女は楽を奏で、不断の光明が弥陀如来の眉間白毫相より放たれている。芦田の想像にはこれ以上の天上界はなかったが、明日昇る天上界がこれ以上のものであるということは容易に理解していた。道教の天上界とは弥陀の頭上遙か彼方にあるのだから―。芦田は夢見心地で電車を降り、気が付けば自宅の玄関に立っていた。芦田の中に閉じ込めておいた『一本の枝』が目を覚まし暴れている。はっとして芦田は街路へと駆け戻り、樹の下に落ちていた細く痩せた一本の枝を拾い上げズボンのポケットへと入れた。槻の葉は今まさに秋を感じて色付き始めようとするところであった。

 玄関に戻ると、母は何処かへ出かけるのか踵をくすんだ赤いハイヒールへと押し込みながら上目遣いに芦田を見、「おかえりなさい」とその深紅の唇はやさしく言った。芦田は母に行き場所を尋ねようとはしなかった。この時、芦田は自分の目の前にいる女性が母であって母でないような不思議な錯覚にあった。夕飯の支度までには必ず帰ると言い残し、母である女性は芦田の前から去っていった。芦田はきっと母は病院へ行くのだと言い聞かせていた。母は精密検査のため病院に呼ばれて行ったのだ、と―。

家に入ると台所に貼り付けてあった竈神に手を合わせ、母がきっとそうであることを願った。

 家の中は静かで淋しく、冷たくよどむ空気さえも死んでしまったかのようである。芦田は深く深呼吸し、静かに目を瞑るとこの世の全ての音が厚い外壁の中にある消音装置によって滅ぼされてしまった中にあって尚も無限に慟哭する大地の偉大なる響きを聴いていた。


それから幾時を経たのだろうか、「ただいま」母の声は静寂を破り芦田の耳へと届いた。カバンから様々に色分けされた薬の袋を食卓に広げて「疲れがたまってるみたい。こんないっぱい薬飲めるかなぁ。」と照れくさそうに母は言った。芦田はあの時の思い込みが正しかったことに少し安心した。そして、母の買ってきた惣菜をつまみながら母の顔をぼんやりと眺めていた。母から太陽の光が射すのが見える、その陽に浴しながら母の変わらぬ愛を感じ芦田の顔はやさしくほころび始めた。父も帰宅し、どういうわけか兄も父と一緒に帰宅した。一年ぶりの兄との再会に芦田の顔はいっそうの幸せを湛えていた。母は食卓に広げていた薬の袋をすばやく戸棚にしまい、いつもの母を振舞った。父はもうそこいらの居酒屋で昨日の続きを相手を兄に変えてやっていたらしく、二人とも頬紅を塗ったように赤ら顔でなぜか上機嫌であった。昨日あれだけ泣き崩れていた父が恵比須顔で、玄関に倒れ込み寝てしまった。兄は明日の夜に東京へ帰ることを母に言って、部屋へと入っていった。一年に一度寝泊りするだけの兄の部屋はいつも塵一つ無いように掃除されていた。

母は処方された幾つもの錠剤を掌にのせ、一口水を含ませては一粒ずつカプセルを口に入れて飲んだ。誰も居ない台所の隅で―。

芦田は明日の昇天に備え、覚悟を決めて床に就いた。手には槻木の枝がしっかりと握りしめられている。しかし、天女の降臨が何時どのようにして行われるのか気がかりで仕方が無い。待ち遠しいその気持ちは、クリスマスの夜にサンタを待つ純心な少年のようであった。干乾びて細っていた枝は掌から滲み出る汗で潤いを持ち始め、少し膨張しているかに感じられた。まるで今でも瑞々しい新緑をつける樹木の一部分であるかのようである。その枝は芦田を安心させたのか、知らぬ間に深い眠りについていた。真っ黒い夢を見ているかのようである。しかし、次の瞬間その闇は眩いばかりの光によってかき消された。芦田はその光に目を覚まし、ついにこの時が来たのかと光の射す方を見上げて天女の下りて来るのを待った。すると、光の中心から天女たちは揺ら揺らと水母のようにゆっくりと芦田の方へと下りてきた。透き通るほどに純白の衣は風も無いのにゆっくりと靡いている。その衣を纏った天女の美しさに見惚れていた芦田は竈神の言葉を思い出した。静かに目を閉じ、天女に身を任せていると自分の身体が次第に軽くなっていくのを感じた。そして、その感覚は最後にははっきりと自分が宙に浮いていることが分かるくらいにまでになっていた。浮いてる!芦田の感動は極限に達した。


一時間ほど経ったが尚もその感覚は変わらず、身体の上昇しているのだけが実感としてあった。芦田は恐る恐る目を開けた、眼下にはたなびく雲がかかるほどに高い山々が連なっている。そこには長い髭を生やした白髪の老人達が或は碁をうち、或は酒を酌み交わしている様子が窺えた。天女の一人はそこが神仙境であることを教えてくれた。しかし、天上界は不老長寿を得た仙人たちが悠々自適に過ごすこの世界より遙か上に在るのだと言う。芦田は、幾つもにも重なり合う桃源郷の景色を全面硝子張りのエレベーターにでも乗っているかのように楽しんでいた。そして、母の救われるのを願いながら―。

疾うに三時間は経ったであろう頃、ついに天女たちは天上界の入り口へと芦田を導いた。高く聳え立つ金銀碧玉で飾られたその門は芦田を中へと誘うとゆっくりと閉じた。いくら仙人であっても開けることの出来ないこの門が芦田の為に開かれたのである。門の中には天上界が広がっていた。想像をはるかに超越した世界の中で芦田は永遠と延びる大通りの上に立っていた。この終着点に元始天尊の宮殿が在るのだと言うがまったくその姿は点にも見えないほどである。天女はあの門同様、金銀翡翠で飾られた神々の宮殿の前を数多通り過ぎながら芦田を玉皇大帝の住む宮殿へと案内した。玉皇大帝の宮殿は他のそれとは違い一際大きく輝いていた。紫禁城の数倍はあろうかというその宮殿は、純金の瓦を葺き、碧玉の太い柱は規律正しくずっと向こうの方まで並んで立っている。宮殿へと続く階段は純銀である。芦田はその銀の階段を踏みしめている自分の足にその感覚がないことに気付いたが、それを全く気にはしないでいる。階段を上り詰めたところにはまた分厚い扉が口を開いて芦田の入るのを待っていた。破裂した光玉の片が降り注ぐような外とは違い、宮殿の内は薄暗く芦田の目はその闇に慣れるのに少しの時を要した。次第にその薄暗い中に吠瑠璃の階段が緩やかに傾斜しながら這い上がっているのが見えた。四方の壁には銀石の床より金板の天井にまで隙間無くぎっしりと巻物らしいものが積み上げられ、その無数の軸頭は芦田を睨み付けているようであった。

突如としてその瑠璃の這う上より銅鑼の強烈な音が響き渡った。銅鑼の音はあの時感じた大地の慟哭そのものであった。その響きは芦田の心の芯までも揺り動かしている。芦田は極度の緊張に身体の表面を強張らせていった。しかし、いまだ魂は銅鑼の響きに揺さぶられていた。芦田は全く動けずに立ち竦んでいたが、吠瑠璃階段の頂上さらに奥より巨大な光耀が此方に向かってくるのが見えた。その光耀は吠瑠璃階段の頂に玉座の在るのを照らし出し、その直後芦田の三倍はあろうかという玉衣を装した皇帝風の男が現れた。芦田はそれが玉皇大帝であることに一片の疑念も抱かなかった。芦田は蛇に睨まれた蛙のように脂汗を流しながら、何度も息を呑んで玉帝が口を開くのを待っていた。今まで薄暗かった宮殿の内部は科学の至らぬ至大の光量で輝き、隅々までも限りなく明白に照らしていた。玉帝は玉座に着いてより一層その光彩を強めた。芦田は今まで薄らとしか見えなかった碧玉の柱が緻密な彫刻が施され、極彩色であったことに気がついた。あたりを見回しながらただただ見惚れている芦田に向かい、玉帝のたくわえられた髭がゆっくりと動き始めた。

『朕が汝を何故天上へと召したのか申してみよ。』芦田はその言葉に玉帝を遙か上に眺めて、恐る恐る声を震わせ言った。

『母の余命をあと三十年、いや十年でも、少しでも延ばしていただきたいのです!』芦田は渾身の力を振り絞り、大声で玉帝の耳に届けとばかりに叫んだ。芦田の言葉は吠瑠璃の階段をなめる様に這い上がり、玉帝の足下にまで及び止まった。

『巻軸をこれへもて』玉帝は背後に控える童子天に命じた。童子天は前に出、玉座に坐す玉帝と対面しながら吠瑠璃の階段を静かに下りていった。銀床に足が着いたが、ついに童子天の背中は玉帝を見ることがなかった。童子天は無数に積まれた巻物の中から赤い光を放つ軸頭のあるのを見つけ出し、恭しく頭上に捧げながら玉帝の前へと差し出した。いつの間にか玉帝の御前には瑪瑙の経卓が置かれ、その上に先ほどの巻物が手際よく広げられた。玉帝は芦田の母のあらゆるオコナイがしめされたこの報告書をじっくりと眺め、その玉眼は左右幾度と無く往復を繰り返している。

『助けてください!』何か思索に耽りながら童子天の行動を眺めていた芦田が思い余って再び叫んだ。その声は先ほどの銅鑼の音のように堂内に響き渡った。玉帝は髭を手に、重低音に静かに唸りながら芦田の潤む瞳をじっと見ている。芦田の瞳の奥にはこれまでに何度も何度も流した涙で洗い清まった一個の水晶球があった。その球は奥底に沈む芦田の魂の全てを一点の曇りなく映し出している。玉帝はその魂の清純なるを見つめ、とうとう聖断を下し給うた。

『汝、よくぞ申した。汝が母に二十の歳を授ける!』玉皇大帝の発した玉声は荒れ狂う龍の姿となって芦田に迫った。芦田は迫り来る龍に一歩も動じず目にぐっと力をためてじっとそのぎらぎらと煌く龍の眼を睨みつけ、次第に嵩を増す龍顔をこの身に受け止めようとしていた。そして、その瞬間は刹那に過ぎた。

芦田の魂へと吸い込まれた龍はその獰猛さを失い、清らかに流れる涙の中に在って、まるで胎児のように安らかであった。

 

芦田が正気を取り戻した頃には既に玉皇大帝の姿は無く、一人また薄暗くなった中に佇んでいた。母の寿命が本当に延びているのか確かめたくなった芦田は、童子天が再び巻物を納めた棚の前に立ってその軸頭を摘み出した。母の全てが記されてある筈の巻物にはそれらしい文字は見当たらず、ただそこには俗世で暮らす母の姿が映し出されていた。芦田は目に涙を浮かべ、早朝から父の弁当を作る母の微笑みを見つめていた。その母の姿もついには涙に隠れてしまった。その時、母はあの数多の薬をこっそりと飲んでいるところであった。芦田は少しでも早く天上から下り、母に会いたくて仕方が無かった。芦田はその巻物をすばやく元あった隙間へと押し込むと、外へ飛び出て天女の来るのを待った。しかし、一向に天女の現れる気配は無い。そして、なぜか芦田の前に立派な鞍を乗せた牛の手綱を引いた童子が立ち止まって言った。

『孝聖救母寛心大清龍王君さま、お迎えに参りました。どうぞ鞍へお跨りください。』芦田には何の事なのかさっぱり分からない。…大清龍王君さま―?芦田は不思議そうにそれがいったい誰であるのかと牛を連れた童子に尋ねた。

『あなたさまのことでございます。』童子ははっきりとした口調で芦田に向かって言った。芦田は、動揺しながらも言われるがままに牛の背中へと乗ってしまった。芦田を乗せた牛はゆっくりと歩く、牛に揺られながら芦田の頭の中には一つの確信ともいえる疑念が生じた。もう帰れないのかもしれない―、しかし芦田はこの牛の行き着くところがあの門かもしれないという一抹の期待があった。現に無限に続くあの大通りを門の方へと向かっているではないか!そう思うと、芦田はあまりの嬉しさと牛の背に乗る優越感とに浸りながら大きな笑い声を上げた。恵比寿のように幸福に満ち溢れた笑顔であった。そうこうしている内に、牛は門を目前にして速度を落として立ち止まった。その横には玉帝の宮門にはまったく及ばぬながらもその輝きの確かな一つの門が堂々と構えていた。

『お降りください、孝聖救母寛心大清龍王君さま。こちらがあなたさまの宮殿です。』童子の言葉に芦田は今までの笑顔を忽ちに強張らせ、何かを悟ったかのように牛を降りた。門の中には宮殿まで続く庭に、童子童女が両脇に列を成して芦田の来るのを出迎えている。芦田は、流れ落ちる涙を押し止めることなく門の中へと歩いていった。門を過ぎるや芦田は神の姿となったのである。金糸銀糸で飾られた緋色の玉衣には背丈を越える龍がまとわりついていた。玉帝の宮殿で芦田に迫ったあの龍である。芦田は頭上に金銀碧玉で飾られた天冠を戴いている。大清龍王君となった芦田は、突然に姿を消してしまった自分を必死に捜索しているであろう家族を想い、無念の涙を滲ました。

 天上界には夜は無かった。ぞろぞろと天上に住む神々が孝聖救母寛心大清龍王君歓迎の宴を催すべく宮殿を訪れ、童子童女はその準備におわれていた。皆がそれぞれに用意された席へと坐し、玉皇大帝の御出座しになるのを待っていた。大清龍王君の宮殿は神々で溢れかえらんばかりに充満していた。そこへ純白の雲に乗り現れた玉帝は、正面上座に就くと正式に芦田が孝聖救母寛心大清龍王君としてこの天上界に住まうことを認め宣言した。神々はともに酒を酌み交わし、大清龍王君を寿いだ。新たにこの天上界に住まうことを許された神は、芦田の前にはもう八百年ほども現れていなかったのである。

 大清龍王君は、未だ芦田の魂と混じり合いながら複雑な心境を押し殺していた。その時、玉帝は付き随い傍に控えていたあの童子天に玉眼を以って目配せすると童子天は畏まった様子で宮殿を出、妙光の雲に乗って玉帝の宮殿のほうに向かって飛んでいってしまった。大清龍王君は魂に封じ込められた芦田の心が芦田の目から流れる無限の涙に溺れ、悶え苦しんでいるのを鋭利な刃物が内側からグサグサと突き刺さるような痛みと共に感じていた。大清龍王君の魂は今にも芦田の流した涙で破裂しようとしている。しかし、魂の容器は瑠璃よりも玻璃よりも金剛石で出来たそれよりも硬く、涙の海に沈みゆく芦田は静かに目を瞑り瞼に母や父、兄の姿を映していた。口に含ませていた残り少ない酸素をゆっくりと吐きだしながら、その泡に塗れて次第に意識の遠退くのを感じていた―。

 大清龍王君の中から芦田の心が消えようとしている時、先ほどの童子天が一巻の軸頭の輝く書を頭上に戴きながら玉帝の傍に駆け寄り、すっとその巻物を広げた。

『これぞ其方の俗世の姿である。』玉帝の言葉に大清龍王君はその巻物を覗き込み、不思議な光景を目にした。ベッドに横たわる芦田の姿である。なぜ僕が其処に!意識の遠退く芦田は含んでいた残り少ない空気の全てを吐ききって叫んだ。その瞬間、芦田の視界は真っ白な光だけが際限なく広がる世界へと切り替わり、芦田は涙の海の底で静かに永久の眠りについた―。

 大清龍王君にはベッドに横たわる芦田の寝顔が永遠の世界を求め旅立ったぼさつの微笑顔になるのがはっきりと分かった。芦田は慈悲に満ち溢れた仏となったのである。間もなく、何時になっても起きてこない芦田を不審に思った母がドアを軽くノックして入ってきた。声をかけても答えぬ芦田の布団を捲り上げて身体を揺すった母は血の気を失い、真っ蒼になって芦田の顔に恐る恐る目をやった。そこから生きる証は感じられない、頬に遣った母の両掌は僅かに温かみを感じたが直にそれから温もりは消えた。大清龍王君は、ベッドの横に跪き芦田の冷たくなった亡骸を抱いて泣く芦田の母に哀れみの眼差しを向けている。枕元に沁みついた芦田の流した涙の跡に、母の落とした涙の珠が陽を享けた朝露のようにキラキラと輝いていた。

 


 芦田の葬儀は涙の中にしめやかに営まれ、到頭これが永別の時と皆が祭壇にあった白と黄との菊の花を、純白の布に包まれた棺に眠る芦田の遺体に添えた。菊の花に囲まれた芦田の麗しき死に顔は目の奥に静かなる龍を棲まわせていた。芦田の胸には『道教学入門』が置かれていた。実は芦田の友人は、最初書庫に芦田を探しに行った際、芦田がこの本を何かに取り憑かれたかのように熱心に読んでいるのを見つけ、邪魔をしては悪いとそっとその場を立ち去っていたのだった。そして、あの時芦田に嘘を付き、意識を失わせてしまったことを悔やんでいたのである。そのせめてもの気持ちにと、あの本を書庫より見つけ出し理由をつけて芦田の胸元へと置いたのであった。それに被せるようにして、芦田が描き台所の戸棚に貼り付けていた竈神の図像が入れられた。芦田の遺体と棺の内壁との間は隙間の無いほどに無数の菊の花に埋め尽くされていた。

 出棺に際しては芦田の兄や伯父、従兄弟が棺を担いで野辺の送りをすることとなったが、棺を担いだ瞬間に兄や親戚達はお互いに顔を見合わせ、何かを言いたげであった。想像を遙かに超える亡骸の軽さに驚いていたのである。大人たち八人で担っているにせよその軽さは異様なほどであった。皆は不審そうにしながらも芦田の亡骸を霊柩車にまで運び入れ、バスに乗り込むと火葬場へと霊柩車の後を追って続いた。バスの中でもその事を誰も言おうとはしなかった。

 火葬場に着き、棺に向かって再び皆で合掌し終に灰となる芦田に別れを告げた。

 火葬場の遺族控え室には、芦田家を呼ぶアナウンスが流れる。骨上げの時間である。一行はその場へと向かい、炉から遺骨の現れるのを待った。白い手袋をした経験の豊かそうな職員は首を傾げ不思議そうに芦田の燃え殻を運びこんできた。一同は呆然と立ちすくみながら台に乗せられて運ばれてくる一本の黒く焦げ付いた細い枝を目でじっと見つめて追っていた。炭と化したその枝には真っ黒い中に小さく勇ましく天へと昇る龍の姿が刻まれていた。芦田の父は母とその炭が砕けぬように慎重にお互いの箸を近づけ、拾い上げると用意されていた骨壷へと納めた。


 孝聖救母寛心大清龍王君はその一連の様子を一度の瞬きもすることなく三日三晩寝もやらずに食い入るように見つめていた。大清龍王君は玉帝に向かって、自らが俗世に生きる全ての母なる者を救済守護する神となることを誓い、宴に酔いしれる神々の前に立って『孝聖救母寛心大清龍王君ここに在り』

と声高らかに宣言した。どっと沸き上がる神々の歓声と拍手とは天上界に留まらず、数多の神仙境を通り過ぎ、人間界へと響き渡った。それに応えるかのように骨壷の中で密かに炭に刻まれた龍が光を放っていた。


      ―――  ―――


 天に昇り孝聖救母寛心大清龍王君となった芦田は、自らが地上に生きた証である巻物を玉帝より賜った。その巻末には玉帝によって、その人間が定められた寿命を全うし、自己を完結した印となる『悟死遂生』の四文字が朱色に押されていた。これが押し印された巻物は今まで玉皇大帝にしか見ることができなかったその人の人生の全てを記した文字を読むことができるようになる。大清龍王君は、芦田が太陽の母胎から人間界に出生し二十年間に亘るまでのオコナイの全てにじっくりと目を通した。或る時には母の顔を睨みつけ暴言を吐いたと記され、それによって翌年には酷い高熱に魘されることになると玉帝の下した処分が書かれている。また或る時には母の病の看病をし、翌年には芦田の望む高校への進学を約束するとの記載があった。父との想い出も、兄と遊んだ幼い頃の想い出も全て大清龍王君の記憶の中には無かったが、魂の中に眠る芦田の心に語りかけるようにして一つ一つ丁寧に目で追っていた。


 二十年間の芦田の生涯を全て見届けた大清龍王君の前に、目を焼くような閃光が走ったかと思うとその眩い光の中心より元始天尊が現れた。あの本にあった姿と全く同じ姿格好をしたそれが大清龍王君には元始天尊であることに疑う余地はなかった。玉皇大帝までもがその光耀に平伏している。元始天尊が神々の前に現れるのは三百年に一度の聖議の際だけで、それ以外に元始天尊の姿を見たものは誰もいなかったのだ。

『汝が手にするその巻軸を預かりに来たのだ。』

元始天尊はそう言うと、袖口より大清龍王君に向かって大きな手を差し出した。大清龍王君はぐっと手に力を入れて一段と強くその巻物を握りしめた。いくら元始天尊の命であっても手放したくは無かったのだ。元始天尊の玉眼は鋭く大清龍王君の瞳を睨みつけた。

『ならば朕が皇宮に参れ。』

元始天尊は手を再び袖口へと戻し、光の中に消えていった。大清龍王君は咄嗟にその後に続き、光の中へと飛び込んでいった。大清龍王君が光の中へと消えていくと、巨大な光耀は神々の前から姿を消した。玉帝は、その光の消え終わるのを待って静かに頭を上げた。神々は主役の居なくなったのを気にも留めず、宴会をざわざわと再開していた。


 光の中を一瞬の内に通り過ぎ、元始天尊と大清龍王君とは、あの大通りの永遠にある元始天尊の宮殿の中にいた。三十六層に分かれた天上世界の最高天である大羅天、玉京にある元始天尊の宮殿の床にはぎっしりと黄金が敷き詰められ、純白の大理石で造られた階段が正面にあった。庭の木々にはたわわに玉類が実り、獅子や麒麟などの霊獣が棲まわされていた。

大清龍王君の手にはしっかりとあの巻物が握られている。元始天尊は、宮殿の奥に大清龍王君を招き入れた。すると、その中には見渡す限りに永遠と続く巻軸の棚が並べられ、金の床から銀の天井に至るまで玉帝の宮殿にあったそれとは比べ物にならないほどに膨大な軸頭が積み上げられていた。大清龍王君はこれと良く似た光景に見覚えのあるように思ったがそれを思い出すことが出来ずにむず痒い気持ちになった。それは芦田が初めて図書館の書庫を訪れたときに見た光景であったのだ。

『此処には人類が誕生し、人々が朕の真理を信ずるようになった時からの全ての人間の生きていた証があるのだ。』

大清龍王君は元始天尊の偉大なる事に今やっと思い知らされたような気がした。元始天尊は全ての人間に生を与え、その人間の生の証明である巻物が玉帝によって『悟死遂生』と印された後にはこの宮殿に再び納めて人類の生と死とを掌握していたのである。

『故に汝の握るその巻軸も此処になくてはならぬ物なのだ。』

大清龍王君の握る巻物からは七色の光が放たれ、意に反して大清龍王君の掌は次第に開かれていった。掌の上にのる巻物は自らの意思で浮き上がり、自らの納まる隙間を探しながら遠くの方へと飛んでいってしまった。大清龍王君はその場に膝を付き『どうか私を地上へ下る事の出来る神にしてください。』と元始天尊に向かい頼み込んだ。両手を付いて頼み込む大清龍王君に対して元始天尊は『天上界に住む以上、それは玉帝であっても出来ぬことなのだ。』とその訴えを退けた。

『しかし、汝には地上に棲まう龍が居るではないか。』

大清龍王君は元始天尊の言葉に、炭に焼き付いた龍の姿を思い出した。

『その龍を汝の意のままに天上へ召すことが出来る。その龍より俗世の有様を伝え聞けばよいではないか。』

元始天尊はそう言い終わると、静かに奥へと消えていった。




 気が付けば、大清龍王君は神々の宴会が続く自らの宮殿にいた。






 

芦田の居なくなった芦田家には今は両親が二人で暮らしている。龍の炭はガラスケースの中に入れられて、仏壇の中に位牌と共にあった。しかし、龍の姿を見ることの出来ぬ日もあった―。二人の会話からはいつも笑顔がこぼれている。病院に呼ばれ母の精密検査の結果を聞かされた父はいつも以上に上機嫌である。今まで母の身体を蝕んでいたと思われていたガンの細胞はその根源から姿を消し今は跡形もなくなっていたのだから―。兄は、芦田の死を機会に両親に今まで秘密にしていた身の上を明かし、必ず弁護士となってこの家に帰ってくることを両親とあの龍の炭とに約束して東京へともどっていった。



母は再びあの金剛石のリングを指に通そうとはしなかった―。



人間の生きているということの本質は、最後に自己を完結した自分が歩んできた人生の足跡にある。かつて蒼頡の語ったように、真っ白な雪の上に残した足跡はそれを残した者が誰であるかを概念付ける唯一の手がかりとなるのだ。そして、ただ前へと続く足跡を辿りながらこれを残した人間の生き様に想いを馳せ、終には眼前に永遠と佇むその人間の完結する自己に出会うことが出来るのである。



 芦田の残した足跡を今、父や母、兄や友人たちが辿り始めた。



 あの龍の炭を抱きながら―。魂の龍に出会うため―。

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[一言] 孫悟空が道教の神様だったとはしらなかったです。勉強になりました。
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