俺の身体が本当に俺の身体なのかについて脳内彼女と鏡を見てみた
俺の脳内彼女が唐突に、こう言った。
「きみは、普段の当たり前のいつも通りの何の変哲もない生活の中で、自分自身の身体について、考えてみたりした事はあるかな」
またそう言うノリか。
変化のない、退屈な、そういう形容にした所が解りやすい所を、脳内彼女は変哲もない、と言い回す。言葉の選択は重要だ。
脳内彼女は俺の事をよく知った上で、あえてそう言う事を言って俺に思索を促すのだ。いつもの変わり映えの無い光景。
「俺も普段気にしていなかったんだが、最近気づいた事があるんだ」俺はそう言いながら鏡の前に立って、映り込んでいるのを確認しながら、左耳をちょいと折ってみる。耳たぶの裏側、それに肩の辺りにも目を配る。
「で、ここ、黒子が二つ並んでいるだろう、こっちにもさ」
「またそんなものを見つけたの。でも、やっぱり二つと言えば二つだけど、見方によっては四つとも三つとも取れるよ。……相変わらず汚いね、きみの肌」
「おい、色白で黒子が目立つだけだって言ったじゃないか前にも。彼氏に向かってそう言う事言うんじゃない」
「うん、気を付けるよ。でも、またその黒子がどうしたの」
「そうだよな。前の腕の黒子と違ってさ、いつのまに出来たのかって事もそうだが、そもそも、この黒子は、こんな位置にある以上は、自分では確認のしようが無いわけじゃないか」
「ううん、確かにそうだね。それは確認できそうもないや。でも、それじゃあどうして君はそれを知っているのかな」
「ああ、そこなんだよな。疑問はもっともだ。だがこれは、そうなんだよ。前からあったかもしれないし無かったかもしれない、普段意識しないから解らない事だよな。――毎朝鏡を見て、顔洗ったり髭剃ったりするだろ。で、あとはにきびか出来たなって思うあれとも少し違う。更に、普段意識してない場所だ。そして〈自分で確認は出来ない〉んだ。でも、ほら、これがあるじゃないか」そうやって目の前にある鏡を手で触れる。自分の鏡像と、ハイタッチする格好だ。
「確かにそうだね、そこにあるのは鏡だ。それも、普段は意識してないよね。何でそこに自分が映っているかとか、そんな事じゃなくて」
「鏡に映ってるのは俺だろう、もちろん。お前だって映るだろう」
「あれ、でもそれってさ、君は今、鏡の前に立って、鏡に映ってるであろう自分の姿を見てるから、思ってる事だよね。じゃあ、なんでそう思ってるのかな。もっとぶっ飛んでみようよ」そう言って脳内彼女は俺の右腕に抱きつき、またその柔らかな胸の谷間で挟み込む形になった。肌が触れ合う暖かな感触。それに体温も。胸の鼓動も。心なしか、彼女の鼓動が早鐘を打っていると感じた。また不意に、するり、と腕は胸から抜けた。彼女は俺の隣で静かに微笑む。何を考えているのやら。
「君はさ、そこに映っているだけの良く分からないものを、何故自分だなんて思っているのかな」
「また良く分からない事を言いだして。そりゃ見ての通り、ここにある鏡に俺は映っている」
「じゃあ、その鏡に映っている君の身体は、君の身体なのかな」
「……俺が映っているんだから、俺の身体だろう。鏡には映り込むんだ。自分がな。このとおり、ルックスもイケメンだろう、俺は」
「確かに、そうかもしれないね。そこに映っている君は、肌はあまり綺麗じゃないけれど、かっこいいかもしれないね」
「一言余計なんだよ、一言」
「じゃあ、本当に、鏡に自分が映っているなんて、言えるのかな」
「は」
「君は自信を持って言えるのかな。君はそこに映っているのかもしれないけれど、でもそこに映っているのは、決して君自身では有り得ないよね。それとも、鏡の中の自分も、自分だって思っているのかな」
「……先に俺の考えを言わせてもらう。お前が言いたい事は、今ので何となく解ったが、鏡の中に世界なんて無い。俺が居るこの世界は、ファンタジーやメルヘンじゃないんだから。ここに映っているのは、ただの俺の鏡像だ。」
「それじゃあ、なんで鏡に自分が映っているって、君は思っているの」
「……あれだろ、光が反射してるんだってやつだよ、鏡ってそういうもんだろ」
「それじゃあ、君は始めて鏡を見た時にも、そこに映っているのが自分だって思っていたのかな」
「…………例えばだぞ、朝起きて、目の前に着替えが有るよな。それに着替えるわけじゃないか。そしたら、その服を着ているのは自分な訳じゃないか。今着換えたんだからな。いいか、それで鏡の前に立って見るだろ、そしたら、同じ服を着ている奴が、そこに映っているって事になる訳じゃないか。そうだろ、鏡の前に立っているんだから。同じ服を着ている奴が、鏡に映っているって事は、つまり鏡に映っている奴と同じ格好をしている自分が、鏡に映っている訳だと、こういう事を意識しないで俺たちは不断過ごしている訳だ。それを言いたいんだろ、そうだよ、鏡に映ってるのは俺だ」
「俺だ、って言うけど、あそこに映っているのは君自身ではないわけじゃないか。それなのに、どうして君はあれを、俺だと言うのかな。だって君はそこに居るだろう」
「………………待ってくれ。言ってる事が解らないんじゃないんだ、でもどう答えていいのか解らない。いや、だから、鏡に映っているのは、俺と言う人間の身体で、それを俺が認知している訳だから、そう、確認している訳だから、ああ、俺が映ってるなと思う訳じゃないか」
俺の曖昧な答えに、脳内彼女はくすりと笑う。人を小馬鹿にしたような笑み。だが、それを不快に感じる俺はどこか愉快な気もする。人間とは複雑だと思う。俺は馬鹿にされているはずなんだがなぁ。
「えっとね、君がさっきから言っている何か良く分からないそれをね、〈自己鏡像認知〉――って言うんだよ。何か解ったかな」
「自己鏡像認知……いや、だからそれを俺がさっきからいってるんじゃないか、つまり鏡に映っているのは、俺なんだってば。間違いなくそうだろ、だってお前から見たって、鏡の中に映ってる俺はここに居る俺と同じ顔をしている訳じゃないか」
「ふふ、どうかなー。それにしても君は、毎朝鏡の前に立って髪をとかしたり、髭を剃ったり、意外と身だしなみに気を使っている所が有るけれどさ、それは鏡に映っているのが自分だって、理解しているからだよね」
「そう言ってるじゃないかだから」
「そう、解って無ければ出来ないよねそんなこと。でも君は生まれた時から自己鏡像認知ができるわけじゃあないんだよ。世の中にはいろいろな研究があるんだねー」
そう言って、彼女はふらふらと歩いて行く。俺もそれに付いて行くしかない。辿り着いたのは俺の部屋。彼女はくるりと振り向いて、そのまま俺のベッドへと背面から飛び乗った。
「やー、ふかふかだー」
「そんな事してるとパンツ見えるぞ」
「やだなー、見せてるんだよ―。ところでね、鏡に映ってる自分の事が、左右逆になってるって思ってるでしょ」
実際俺の視線はパンツよりも、仰向けになる事で重力によって垂れるそのおっぱいに釘付けになっていた。
このままではしょうがないので、俺も隣に腰掛ける。もぞもぞと動いて来た脳内彼女は、俺の腿の上に頭を擡げて、腰に腕を回してきた。柔らかい。
「……俺は別にそれをいちいち意識したりはしていない。ただそこに俺が映ってるからその通りにしているだけだ。大した問題じゃないだろ」
「うん、簡単に言うとね、鏡が左右を逆転させる効果を持っているって事じゃないんだって。と言うのはね、君が右手に歯ブラシを持ってさ、左手にコップを持っているとして、鏡の前に立って映っている、君らしき人物の事を考えて見てよ。……そのまま映ってるよね。でね、その実物と鏡像、位置関係は変わって無いんじゃないかな。……君から見てさ、右に歯ブラシ、左にコップが有る。なんか、それで自分が反対になってるって、人間は錯覚しちゃってるらしいんだ。……位置関係は変わらないって事を念頭に置いて無くちゃいけないんだ」
「――そうだな、鏡に映っている空間側から自分を見て見た場合、左右は逆になっていると言えるだろうが、別に左右が逆になっている訳じゃないってのは、何となく解るぞ。位置関係は変わって無いって事だ、だから左右は逆になっていない」
そう言いながら、脳内彼女は俺の腿を枕替わりに仰向けになり、目を閉じた。再び、胸が自由に揺れ、重力に従い垂れる。見事な弾力。
「寝るなよ」だが、それに触れたりはしない。
「……何か、良く分からないよね。でも、鏡に人物が映っていると、人物と身体の向きをさ、合わせて見ちゃってるんだ、私たちは。……それで左右が逆転するように見えているだけなんだよ。でも、鏡像は実物を反映しているだけで、実物そのものではありえないわけだ。君の身体は、そこにあるわけだね」
「そりゃもちろんな、俺の身体は、ここにある。そうだな、俺の身体だ。と言うか、……俺って言うのは、精神と言うか、意識の俺って事でさ、ここにある身体はつまり俺自身の入れ物ってわけじゃないか。あくまで俺が所有して、支配して、ある程度コントロールしている……俺の身体って、俺って言って良いものなのかな……」
「その疑問はアレだよ、君自身が〈この身体は自分の物〉だって感じているんなら、それは身体保持感があるって事で、その〈身体を動かしているのは自分だ〉って思っているんだから、運動主体感を持っているって事なんだ。それはね、そこにいるのは君自身なんでしょ。それはそう言う事なんだよ。……自分の居場所くらい、ちゃんと認識していなよ。……心と身体を別のモノとして考えているんだとしたら、まあ人間色々あるけれどさ」
「たまに不安になるよ、こうして生きているとさ」
「誰だってそうだよ、自分が生きている事に疑問を感じない人間なんていないんじゃないかな。でもそれは、死ぬこととイコールじゃないよ」
「…………そりゃ、そう言う積りで言ったんじゃないけどさ」
ふと、視線が合った。しばらく、見つめ合う。
「とにかく、君はそこに居る。それでいいじゃない。……私もここに居るよ。いつでも……君の傍に居る。ま、そんな惚気は置いておいてさ。人間って言うのは、自分の身体イメージをある程度の年齢になるとさ、持っている物なんだよね。……初めて鏡を見て、自分の顔にショックを覚える子供なんていないものじゃないか」
「む、それはわからないぜ、親に似ていたらどうしようとか、思う奴は思うだろ。実際俺はあの親がいてどうして俺が産まれたのかって近所じゃ割と囁かれてたよ、別のDNAが混ざってんじゃないかって。一時期それで両親不仲になってさ、当時最新鋭のDNA鑑定にかけられたよ、勘弁してほしいよな」
「大変だったね。……でもそれだよ、それが自分の身体イメージ。鏡を見た事が無くても、何となく解ってるものだよ。君は自分がイケメンに生まれて良かったと思ってるみたいだけど、他人がどう思ってるかは知らないでしょ」
「……今の話の後で、あまり考えたくないな、そう言う事は」
「でもね、他人ってのは重要でさ、例えばチンパンジーでも鏡像認知は出来るんだよね。自分と鏡像の対応関係に気付く……って言い方をするんだったかな」
「――ああ、あれは賢いからな。犬だって出来るんじゃないかな、――自分の姿を見てずっと吼えてそうな感じはするけど」
「何かこの自己鏡像認知ってややっこしいんだけどさ、大事なのは視点の転換なんだって。推理小説読んでるみたいだよね。でも、それが出来るってのは大事だよね。自分は、身体がそこにあるから、ここにいる。他人のいるそこから見たとすると、自分はそこにいるはずだよね。動いている自分。そして仮想的に、他者の視点から自分を見る事だよ。――鏡像認知が出来るためにはね、外部の視点から自分がどう見えるか、それを理解していなきゃいけないんだ。他者の視点、つまり他人とかかわる事でそれは学習されていくんだって。他人と、それは親だってそうさ、自分がどう見えているか、鏡を見る前にもうイメージが出来るんだ、人間にはね」
「そうか、俺はここに居る。それでいいのかな。鏡に映ってるあれは、俺の動きに対応している。そういえば、鏡っていつからあるんだろうな」
「あ、ヤタノカガミって知ってるよね」
「ヤタノカガミ……、あ、三種の神器か――あ、え、そうだよな。そうか、そんな昔からある訳か……あぁ、そいつは地味にびっくりだな」
「ふふふ。あとねぇ、鏡と言えばさ、次の土曜に市民会館で、落語の定例会があるんだけど」
「ああ、チラシがポストに入ってたな。……どうした、落語なんて聞いてるのかお前」
また、脳内彼女がくすりと笑う。
「一つ解っている演題がね、松山鏡なんだって。……きっと面白いと思うよ」
何だか解らないが、次のデート先は落語に決まった。