沼としゃべっていた
昔、家庭内や学校でのいざこざが原因で登校拒否児をしていた。
そのころ、近くの山中にある沼とよくしゃべっていた。
家のすぐそばに山があって、ダム湖があった。ただ、当時我が家を含めて周辺は新興住宅地というやつだったので、恐らく「田舎」というワードから想像するような牧歌的な田舎の風景はほぼない。
その山もいわくつきだとか、立ち入り禁止だとかということはなく、たしか学校の遠足だか課外授業だかなんだかで登ったことがある。整備された山道もあるので、暗い雰囲気はなかった。
けどそのころは心中大荒れだったので、そういったきちんとした道から山には入らず、山と住宅街を隔てるフェンスに開いてた穴から山に入っていた。ちゃちい反抗心とか、どうなってもいいというような自暴自棄の感情からとかで。
その山の中には小さな沼があった。
いや、池かもしれないんだけど、水が濁って底が見えなかったから、沼だと思った。
とにかく水たまりと言うにはでかいくぼみがあって、そこに濁った水っぽいものが溜まっていた。
先に書いた通り、家も学校も居心地が悪かったから、山に入るたびにその沼のところへ行って、沼と会話していた。
当時は家の中でも、ごくたまに登校する学校でもひとこともしゃべらなかったけど、沼とはかなりおしゃべりしていた。
こちらがなにかしゃべると、沼から音が返ってくる。底からのぼってくるあぶくの音とか、水が跳ねる音とか、濡れた土を踏みしめる音とか、腐った葉がくずれる音とか。沼とはそういった形で会話が成立していた。
ほとんど、こちらが愚痴を言う形だった。家の中のこと、学校でのこと。不安なこと、不満なことは尽きなかった。
沼はそれを聞いてくれた。
沼はあんまり自分のことは話さなかった。ただ、ずいぶんと昔からこの山にいるらしいことは聞いた。
あとは、あんまり覚えていない。
恐らく当時の嫌な記憶と紐づいているから、頭が忘れ去ってしまったんだと思う。
今もかなりおぼろげというか、曖昧な感覚のままに文を書いている。
なにせ当時、あれだけ憎んでいたクラスメイトの、名前も顔も一切合切忘れてしまっているくらい。
沼と会話していたのは、だいたい一年くらいの話だったと思う。
色々あって家族とは離れて暮らすことになり、引っ越して転校もして、メンタルクリニックのお世話にもなった。
処方された薬を飲んだら、なんで沼と会話していたのかわからなくなった。
沼と会話ってどういうことなのかわからない。
沼から返ってきた音を、沼の言葉だと思い込んでいたわけだけれども、その音自体も色々と「そういう状況でその音が鳴るのか?」という疑問が湧いた。
音自体も、恐らく幻聴だったのだろう。
薬を飲んで、やっと沼がしゃべるわけがないという事実に気づいた。
今はメンタルクリニックには通っていないし、飲む薬と言えば胃薬くらい。あの沼があった山からもかなり離れた場所で暮らしている。
ところで、家の中で足音がしたら、それが家族のうちだれのものかって、姿を見なくても大体わかるよね?
半月くらい前から家の中で家人のだれでもない足音がするようになった。
それをなぜか沼の足音だと思った。
それに気づいた瞬間、頭の中に泥人形みたいなのが家の廊下を歩いているイメージが浮かんだ。
急いで扉を開けたけれど、だれもいなかった。もちろん、泥の跡、みたいなものはない。でもさっき書いたようなイメージが足音がするたびに頭に浮かぶ。
そういうことをここ半月のあいだに何度か繰り返している。
近々、メンタルクリニックに行こうと思っているんだけれど、近場のメンタルクリニックでは新規の予約は半年以上先とか困っている。今住んでいるところがちょっと辺鄙な場所で、メンタルクリニックの選択肢もあんまりない状況。
最近仕事が忙しかったから、精神がちょっとおかしくなってるだけだよね?
沼が家まで来てるとかじゃないよね?
今これ打ってるあいだも家の中で足音がしている気がするんだけど、幻聴だよね?
なんかあぶくの音とか、腐った葉を踏むような音がする。気がする。でもそんなことあるわけないよね?
不安でどうにかなりそう。




