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○○作家の鉄板めし ~地獄の釜を囲んで獄卒と~  作者: 中村ねり


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十月土曜の昼下がり『不機嫌なナポリタン』~弐話・前編~

**********

 震える唇に引かれた紅の鮮やかさに、こくりと喉が鳴った。

 はじめてなのだ、と伏せた目尻に浮かぶのは微かな羞恥だろうか。

 ぎこちなく施された化粧が素顔の幼さを隠し、

 いつの間にシャープになった顎のラインを艶めかしくみせる。

 密やかに辺りを包む雨音に隠し、熱い吐息を逃がした。

 あまり綺麗にできなかったと照れたように言い訳をこぼし続ける唇に、

 ぐいと親指を押しつける。言葉が途切れ、薄い肩がかすかに揺れた。

 べっとり塗られた紅を押しつけた指でなぞり、白い頬へと滑らせる。

 肌に滲んだ赫が妙に生々しく、まるで熟れた果実のように――



「ねっとりと美味しそ……じゃなくて」


朝方キーボードを叩いていた原稿の続きをぼんやり考えながら歩いていた芽衣は、我に返って違う違うと、ひとり首を振った。

通りかかった喫茶店のショーウィンドウに並ぶ、昔懐かしい雰囲気の食品サンプルたちに目を惹かれたせいで少々脳内が混線したのだ。


危ない。公共の場なのに、うっかりあらぬことを口走りそうだった。


向かいから歩いてきた通行人の傘を避けて、芽衣は歩調を速めた。

半月ほど前までしつこく居座っていた残暑が去り、ようやく秋めいてきたかと思いきや、今度は雨が続いている。


秋の長雨とは言うが、しとしとと降り続く雨の日が五日目ともなると少々気が滅入る。

十月、土曜日の正午近く。

JR中野駅から真っすぐサンモール商店街を抜けて、そこからさらにオタクたちの聖地であるブロードウェイを突っ切って。欲しい漫画があって出てきたのだが、人込みに少々疲れ、駅向こうまで行こうと思っていたのを中断して戻ってきたところだ。


「土曜日だもんねぇ」


中野というのは平日もまあまあ人出の多い街だけれど、土日はもっと混む。

渋滞する早稲田通りから薬師方面へと逸れると、いくらか人通りもまばらになった。

商店街を歩きながらも、脳裏にちらつくのは先ほど見た食品サンプルたちの残像で――クリームソーダに、ナポリタン、頭に生クリームとさくらんぼを飾ったプリン……。


「お腹空いた……」


それもそうだ。小一時間のつもりで家を出てきたのに、気づけばもう昼だもの。

スーパーに寄って、適当な食材を買って帰ろうと決めた芽衣は、更に足を速めた。


「玉ねぎが安い。ラッキー! あとはピーマン。ベーコンと、ソーセージも欲しいよね。お、ナイス特売!」


近所のスーパーは毎日あれこれお値打ち品を売り出してくれているから助かる。

値引き赤札になっていたソーセージの大袋をほくほくとカゴに入れ、牛乳、もやし、豆腐や納豆など大体一週間は食いつなげる食料品を買い、パンパンになったエコバッグを抱えてアパートへ帰る。


手すりに錆の浮いた階段をカンカンとのぼって、三階の南端が芽衣の借りている部屋だ。


ちなみに、真下の部屋は大家である親戚が物置部屋として使っていて、隣には駅近くで居酒屋をやっている年配のご夫婦が住んでいる。

小さなベランダのついた東向きの部屋なのだが、角部屋のため南側に大きな窓がついていて、よく風が通る。すぐ隣にあるのが宅配便の営業所なので、見通しがよいところも個人的には気に入っている点だ。

それと、賃貸だけれど足音を気にしなくて良いところも。


反対にイマイチなのは、大家が親戚なこと。

しょっちゅう顔を合わせるせいで、芽衣の動向は田舎の両親に筒抜けである。


まあそれはそれで、ありがたいことでもあるのだが。

できれば多少でも家賃を負けてくれると、もっとありがたいのだが。


しっとり濡れた傘をドアの外に引っ掛けて、ガチャッと鍵を回す。


「ただい……うおっ⁈」


玄関のドアを開けた途端、目の前に仁王立ちしている男の姿に芽衣は仰け反った。

無言で立つ男から発せられているのは、肌を刺すような威圧感と、思わず息を呑んでしまうほどの殺気。

薄暗い玄関先に佇むその姿はぞくりとするほど凄艶で、びっくりしたじゃないかと口から出かけた文句を、芽衣は曖昧に舌先ですり潰した。声にならなかった呼気と共に、ごくりと唾を呑み込む。


まるで抜き身の日本刀のような、鋭く、そして人間離れした怜悧な美貌の持ち主の頭上には二本のツノ。

人間とは異なる種族である証のそれがまた、彼の姿の美しさを際立たせている。


毎日眺めていても一向に見飽きない端正な顔を思わずまじまじ見上げていると、すっと眇められた切れ長の瞳がまっすぐに芽衣を捉えた。

そして、一言。


「腹が減った!」


そう、芽衣もこの一ヶ月足らずの間に少しわかってきている。

この鬼は、どうやら空腹になると殺気を振り撒くのだ。

なんとも性質の悪い鬼である。

まあ鬼だけに、とも言えるか。

自称、地獄の獄卒。名は千寿。

ずいぶん長いこと生きていそうな名前のくせに、時おり妙に子どもっぽくなる鬼である。


「はいはい、ごめんごめん。買い物してきたから、ごはんにしよう」


不機嫌を振りまく千寿を押し退けて玄関に入ると、重たいエコバッグがすっと奪い取られる。そういうところは妙に紳士だ。鬼のくせに。

しかも、うがいと手洗いを済ませている間に買ってきたものの仕訳が大まかに済んでおり、牛乳などはしっかり冷蔵庫に収納されていた。


「こっちの生活にもずいぶん慣れたよねぇ」


衝撃の〝あの日〟以来、結局この部屋で暮らしている千寿だが、いつの間にか現代の文明の利器も使いこなす、わりとハイパーな鬼に進化している。


「世話になっている身だ。馴染もうとするのは当然であろう?」

「ご立派」

「うむ?」


小首を傾げつつ冷蔵庫の扉に手をかけて、千寿が振り向く。長い黒髪がさらりと揺れた。


「どれを使う?」

「玉ねぎとピーマンと、ベーコンとソーセージ。それからケチャップと卵出してくれる?」

「あいわかった」


頼んだ食材をキッチンに並べる手つきだって、慣れたものだ。


「こちらもすぐに使うか?」

「うん、大きめの鍋にお湯を沸かしてほしい」

「あいわかった」


頷く千寿がすたすたと歩み寄ったのは――。

もちろん、例のアレである。芽衣の居住空間を半分以上占拠している地獄の釜。

横に避けてあった蓋を釜の上にひょいと戻し、釜の表面に手を当てながら千寿が小声で一言、二言呟く。するとしばらくして、蓋の隙間からシュンシュンと湯気が上がりはじめた。


「ほんと便利だよねぇ、そのシステム」

「しすてむではない。我の力ぞ」


少しばかり不満そうに口を尖らせた千寿に、くすりと笑ってしまう。


「うんうん、〝鬼の持つ異能〟ね」

「然り!」


わかりやすくドヤ顔をする千寿だが、芽衣からしてみたら、ただただ便利なだけである。

おそらく現代語でも古語でもなさそうなので耳が上手に理解できないのだが、なにやら千寿が『むにゃまにゃうにゃ』みたいな雰囲気の呪文を唱えると、釜に水が溜まったり、熱せられたりするのだ。


火事になどならないと言い切っていた理由がそれで、熱い釜に触れても問題ないのもそのせいだと。熱々の釜にどっしり居座られてしまったらどうなることかと思ったが、お陰で助かった。

釜の管理も使いっ走りである獄卒の仕事のひとつらしいのだが、温度管理ができると知ったときには安堵のあまり崩れ落ちたものだ。


当の千寿は、『当然よ』とか宣っていたが、脳天にチョップを食らわせたい気分だった。

鬼の常識・現代の非常識、である。


ちなみに〝異能〟と言われて千寿がご満悦だったのは、このところ気に入って読んでいる少年漫画からの影響だ。


ツノのせいで見るからに人外なため、おちおち外にも出られない。それで暇を持て余しているから、試しに本や漫画を与えてみたところ、見事にハマった。押し入れにみっちり隠してある紙の本や漫画を片っ端から読み漁り、貸し出したタブレットで電子書籍もあれこれと探して読んでいる様子。

で、現在彼は周回――どころじゃないと思うが――遅れの厨二病真っ盛りなのだ。


「芽衣よ、湯が沸いたぞ」

「あ、じゃあこれ茹でて」


渡したのは、これまた特売のときに買い置きしておいたパスタだ。

本日のランチメニューは、もうおわかりだろう。さっきから美味しそうなビジュアルが脳裏にこびりついて離れない、喫茶店のナポリタンである。


「うむ。湯に投じたら、たいまーだな?」

「早ゆで四分ね」


ナポリタンは、圧倒的に太麺が美味しい。けれど、太麺のパスタは茹で時間が長い。

そこに発見したのが〝早ゆで〟パスタだ。なんとありがたい。

麺に独自の成形が施されているから、太麺の食感を保ちつつも茹で時間が短くて済むのだとか。どうして早ゆでなんだろうと思って調べてみて知ったのだが、面白い形をしていた。


食への探求心が旺盛なのは古からの日本の文化だと思うけれど、どんどん新たな商品を開発してくれる企業の中の人の努力には、一消費者として心から感謝している。


「茹でている間にくっつかないように、たまに掻き混ぜてね。よろしく」

「任せよ」


鍋に向き合う千寿にパスタを託して、芽衣は野菜と肉類を切る。

玉ねぎは多めが好きなので、丸ごと一玉使ってしまう。それにアクセントのピーマンと、ナポリタンの食べ応えを一気に高めてくれるベーコンとソーセージを一口大にカットして。

準備ができた食材を持って千寿が設置してくれていた脚立によじ登り、パスタを茹でている鍋から少し離れたところに、まずは油を引く。


「なにができるのだ?」

「せっかく鉄板があるからね、ナポリタンの名古屋めし風にチャレンジしてみようかと思って」

「なぽりたん……どこぞで目にしたことがあるような……」

「そう? まあ定番メニューだからね。昭和のごちそう洋食、喫茶店といえば、のスパゲティね」


たしか、名古屋が発祥だったと思う。鉄板に玉子が敷かれ、その上にナポリタンが乗っている、あの有名な〝名古屋めし〟だ。

ナポリタン時代は横浜が発祥だけれど、鉄板乗せスタイルを発明した何方かはステーキから着想を得たと見た憶えがある。

楽しくお喋りしながら食べていると、皿に乗ったパスタが冷めてしまう。それが残念で、ステーキみたいに最後まで熱々でパスタを食べられたら……と考えて作られたのだとか。


「喫茶店というのは、茶を飲むところだな?」

「そうそう。さっき見た喫茶店のサンプルが超絶に美味しそうでさ。それに、なんとなくだけど週末のランチに相応しいメニューだと思うんだよね、ナポリタンって」

「ふむ……?」


いまいちわかっていなそうな千寿のことはとりあえず置いておいて、芽衣は油を引いた鉄板の上にベーコンとソーセージを投入した。

途端にジュワッと湯気が弾ける。


「あー、もうこれだけで美味しそう!」


鉄板がしっかり熱いお陰で、瞬く間にベーコンに焦げ目がつく。

焼けた脂の匂いと、燻製のスモーキーな香りとが一体となって立ち上った。

ただでさえ空腹なところに、暴力的なまでに香ばしい匂いが漂ってきたら――。


 ――グゥゥゥ、キュルルルル……。


それはまあ、こうなるのもおかしくはない。


「もう慣れたけどさ、よく鳴るお腹だよね」

「う、うむ……」


ついと目を逸らした千寿がぽりぽりと頬を掻く。

ところが。


――ギュルル、ググゥゥッ!


今度は芽衣の腹の虫が高らかに鳴いた。


「おぬしもな」

「むぐ……」


他人のことは笑えなかった。


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