九月半ばの木曜日『当惑のホルモン焼き』~壱話・前編~
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乾いた大きな掌が肌の上を這う。
今まで誰にも許したことのない柔肌を暴くその手つきは
とても慎重だった。
気に入りの李朝白磁を愛でるのと同じだけ優しく、
少しの傷もつけないように。
首筋に触れる吐息の獰猛な熱さとは裏腹に、柔く繊細な手指は
どこまでも細やかに輪郭を辿る。
僅かばかりの恐れも緊張も、分け合う熱に溶かされ消えていく。
ぞくぞくと湧き上がる甘い痺れに身を震わせる一瞬ごとに、
身の内奥深くに眠っていた放埓な本能が――
――ガコン、ドカンッ
「ガコン、ドカンと音を立てて目覚め……んん?」
いや待て違うだろう。欲望の開花を形容するのに「ガコン」はない。
「ドカンもないわっ!」
調子よくキーを叩いていた指を止めて、芽衣はおかしな擬音語部分を慌てて消去した。
「まったく、いったいなにが――」
不意に集中を乱されたお陰で若干混乱したものの、派手に響いた衝突音とも落下音ともつかぬそれはどうやら、芽衣の背後、室内で轟いたものだ。
「落ち、た……の……」
せっかく良いテンポで進んでいた執筆の手が止まってしまったことに舌打ちしながら勢いよく振り向いた芽衣はそこで、ぽかんと口を開けた。
「よ……?」
訳あっての別居以来かれこれ八年近くは独りで暮らしている古びたアパートの一室、1DKの芽衣の住処は、元々あまり物がないためにガランとした印象だった。そこに何故か、どっしりと重量感のある黒々とした丸い物体がみっちりと鎮座している。
間違いなく、つい先ほど机に向かう前までは存在しなかった物体だ。
「…………え?」
おそらく先ほどの騒音はコレが出現したせいなのだろうけれども。
反射的に見上げた天井に、穴などはない。ということは、屋根を突き破って降ってきたわけではないのだろう。
では、コレはいったい、どこからやってきたのか。
いろんな物事に動じにくくなった三十半ばにしても、さすがに驚く。芽衣は間抜けに口を開けたまま、天井から正面にあるソレへと視線を戻した。
「……釜?」
一見したところ目の前で威容を放つその物体は、どう見ても〝釜〟だ。
それも、やたらと巨大な。
大人の腕で一抱えどころか、三人で腕を広げてようやく囲める程度じゃないだろうか。芽衣のいる空間を残して、まあまあ広めの室内いっぱい、みっちみちに詰まっている。
ダイニングキッチンとの境界の引き戸が取り外されているため、本来なら玄関まで一直線に見通せるはずの部屋の景色が、黒一色に遮られてしまっているくらい。
とにかく、見たことがないほどデカい。
だけでなく、おそらく現役で活躍中の釜なのだろう。鈍く黒光りする鉄釜の表面はよく使い込まれている様子が伺えるし、これまた味を感じる色合いに染め上げられた蓋との隙間からは、今ももうもうと蒸気が噴き出していて――
「あつッ!」
芽衣は思わず飛び上がった。
気づいてみれば、部屋の中がやたらと暑い。
釜だ。確実に、この大釜のせいだ。
釜から発せられる熱気が、残暑厳しい九月の気候に輪をかけている。
「暑い! それに熱いッ! いや待って、これ火事になったりしないの⁈ だいじょ……」
そろそろ水漏れしそうなボロいエアコンだけではまったく戦力が足りていない。
慌てふためきながら咄嗟に窓を開け、再び釜へと振り向いた、その瞬間だ。芽衣はぴたりと動きを止めた。
「…………」
「…………」
いつからそこにいたのだろう。
というか、釜と同時に出現したに決まっているのだろうが。
ちょうど対角線上の釜の裏側辺りに、茫然と立ち尽くしている男とバチッと目が合った。
男――だと思う。着崩した和服のような黒鉄色の変わった装束を身に纏い、艶のある長い黒髪を紅紐で一つに括って右肩から流している。妙に色気のある切れ長の目が印象的で、すらりとした立ち姿もどことなく艶やかだ。
ハッとするほど怜悧な美貌を持っている彼は人間ならば明らかに男だろうが、額に二本の角がある場合はわからない。
男、なのか?
たぶん種族は〝鬼〟と呼ばれるアレなのじゃないかとは思うのだが……。
「…………」
「…………」
ヤバい。どうしよう。
鬼らしきモノと無言で見つめ合ったまま、芽衣は非常に忙しなく脳を働かせた。
あれ、鬼って男女の別はあるんだっけ?
いやそんなことより、そもそも言葉は通じる?
現代語? もしかして古語? むりむり、喋れないって!
己の浅学を恥じた場面はこれまでにも多々あれど、今この時ほど困ったことはなかった。
これって、どうなの?
そんなことより、やっぱり速攻で逃げるべき案件?
〝鬼〟といったら討伐対象である鬼ヶ島のものか、或いは童話にある青鬼か。両極にある属性のものしか知らないし、そのどちらに属するのかの見分け方もわからない。
おそらく、討伐対象であるほうの鬼であれば、危険が危ない。主に、己の身の。
そうでないほうならば、紆余曲折ある御伽噺の雛形よろしく紆余曲折はあったとしても、ベストフレンドになれる可能性もある。
さてどうしよう。わからぬ。困った。直接本人に訊いてみるか……?
ひとつも声には出さぬまま、芽衣はひとり百面相をした。
目の前に突然釜が湧いて、その傍らに見眼麗しい鬼が佇んでいて。
おこがましくも職業〝作家〟を名乗ってはいるが、こちとらしがない〇〇本書きだ。ちょっとやそっとじゃあり得ないはずの不測の事態に大混乱である。
とはいえ、危機に瀕した人間の脳というのは本来のポテンシャルを大幅に上回る働きをするものだ。
とっ散らかった思考が「とりあえず身の安全を確保すべき」という結論に達するまで、およそ三秒ほどだったろうか。逃げよ、という指令が脳から下り、いざ一歩踏み出しかけたそのとき。見つめ合っていた相手の目線も、そろりと動いた。
控えめに周りを見回してから釜を見やり、ごくごく微かにだが、形の良い眉尻がへにょりと下がる。
自慢ではないが、芽衣は昔からカンの良さにだけは自信があった。
そのカンが、全力で告げている。
あ、これ青鬼のほうだ、と。
ということで逃亡の一歩を踏み出す代わりに、芽衣は話しかけてみることに決めた。
「あー、もしもし? ハロゥ? えー、いかがおわす? あー、ンニョンハセヨ? えっとぉ」
「此処は……?」
「あ、ふつうに日本語」
「おぬしは、誰ぞ」
「あ、やっぱりちょい古語?」
「おい」
自分では平静なつもりでいても、やはり動揺していたのだろう。
全力で空気を読まない返答を繰り返した結果、鬼の表情が変化した。
どちらかというと、呆れたほうに。
「おのれ、どうにも珍妙な女よな」
「あ、ハイ。まあたまに、時々、よく言われますね」
「さようか」
「そうなんです、ハイ」
再びの沈黙。
なんとなく目を逸らせず互いに見つめ合ったまま、さりとて次の会話の舳先も見つけ出せず。
なんとも居心地の悪い時間に、芽衣は思った。
あいつもコミュ障くさくない? と。
「…………」
まさか内心で考えたことが見透かされたわけでもあるまいが、つと、鬼が目を細めた。
途端に鋭い威圧感がぞくりと肌を刺す。
やはり只者ではないのだろう。しまった、鬼ヶ島のほうだったかと背中に冷や汗が伝いかけたとき、妙に重厚感のある低音が部屋の空気を震わせた。
――グゥゥゥ、キュルルルル……。
発生源は、芽衣じゃない。
釜でもない。
どう考えてもヤツだ。ヤツの腹部だ。
「…………」
「…………」
三度の沈黙。
鋭い威圧感はそのままに、鬼の白皙の頬がほんのり朱に染まってみえる。
気のせいだろうか。
先ほどまでの緊迫感とはまた違う、なんとも言えない静寂が漂った。
そこに、またも異音が鳴り響く。
――ギュルル、ググゥゥッ!
隠し立てなどするまい。今度は芽衣だ。
鬼の腹が発した重低音とは異なり、非常に景気の良い音だった。
そういえば今日は原稿に集中するがあまり、朝食も昼食も抜いていたのだっけ。
そうだそうだ。それに昨晩実家の両親が送ってくれた救援物資を受け取るまでは超・節約生活をしていたから、ここのところあまりまともな物を食べていなかったのだっけ。
気づいてしまったら、もう駄目だ。
「お腹空いたッ!」
唐突に叫んだ芽衣に、鬼の目が驚いたように見開かれる。
「お腹空いてない? 空いたよね? すんごい音鳴ったもんね。私もだけど!」
「う、うむ。さようなれど……」
先ほどまで発していた威圧感はどこへやら、落ち着きなく身動ぎする鬼から目を逸らし、芽衣はじっと釜を見つめた。
「なんか、この釜。見てると、なんかこう……」
暑い。そして熱い。
部屋の温度はサウナ一歩手前だ。
相変わらず釜の蓋の隙間からはシューシューと蒸気が漏れているが、芽衣がじっと見つめていたのは、その〝蓋〟だった。
分厚い鉄でできていて、ほどよく熱せられている。
これぞ、まさしく。
「鉄板……」
そう、鉄板だ。
お好み焼き屋なんかカウンターにある、あの分厚い鉄板そのものだ。
芽衣は、カッと目を見開いた。




