明鏡の滝
――私はもう、時間に殺されることはない。
「次は……」
握りしめた拳に、力がこもる。
「必ず、あいつを殺す」
そう呟いたが、このままではあいつに勝てない。それだけは、はっきりと分かっていた。
力が足りない。知識も、経験も――すべてが。
まずは、情報を集める必要がある。組織の人間に見つからないよう細心の注意を払い、私は街外れの図書館へ向かった。
薄暗い館内を歩き、古い書架を一つひとつ眺めていく。そのときだった。数多の本の中で、一冊だけ妙に目を引くものがあった。
【神の伝承】
表紙に刻まれた文字を見つめ、私はその本を手に取る。ページを開くと、そこには各地に伝わる神々の特徴、居場所、そして数々の逸話が記されていた。
――神、か。正直、半信半疑だった。だが、悪魔が実在するこの世界で、神だけが虚構だと断言できる理由もない。
ページをめくる指を止め、私はある一節に目を留めた。この国に存在するとされる神々――破壊神、運命神、移譲神、鬼神、女神。
その中で、現在地から最も近いと記されていた名があった。「運命神モイラ」未来視ができる存在。その神は、《明鏡の滝》に鎮座しているという。
胸の奥が、わずかにざわついた。私はモイラについて、さらに詳しく知るため書架を探し回る。
やがて、一冊の本が目に入った。
【運命の人形】
不穏な題名に引かれ、私はその本を手に取った。
物語の内容は、幸福に暮らしていた一人の男が、モイラと出会ったことをきっかけに、少しずつ人生を狂わされていくというものだった。
選択を誤り、抗おうとするほど絡め取られ、最後にはすべてを失い、破滅する。救いのない、胸糞の悪い話。気づけば、外は夕暮れに染まっていた。本を閉じ、私は図書館を後にする。
――都市伝説のような話だ。だが、それでも。
「……行ってみるか」
興味本位。そう言い聞かせながら、私は歩き出した。向かう先は、《明鏡の滝》
運命神モイラがいるとされる場所へ。
滝の水流から、かすかに虹が立ち上っていた。
水音は静かなのに、胸の奥に響くような迫力がある。滝のそばには、小さな祠がひとつだけ佇んでいた。
だが、魔力は感じられない。神はいないのかもしれない。それでも、ここは確かに空気が澄んでいて、悪くない場所だと思った。
しばらく景色を眺めたあと、帰ろうとした、その瞬間。滝の音が――止んだ。違和感を覚え、振り返ると、そこに立っていたのは一人の女だった。
青い瞳。紫色の髪。背には、大きな白い翼。――先ほどの本の挿絵で見た姿。間違いない、運命神モイラだ。
「迷える子羊よ。貴方の運命を教えてあげよう」
直感で理解した。この存在は、私より何千倍も強い。発せられる魔力が、皮膚を刺すようにひりつく。それでも――本で読んだ話のせいだろうか。どうしても、モイラに対して良い印象が持てなかった。
だが、もし運命を知ることができるのなら。あの悪魔に勝つ道が、見えるかもしれない。
「……私の運命は、どうなっている?」
「不敬な態度は、許してあげるわ」
そう言って、モイラは距離を詰めた。その瞬間、周囲に人の形をした何かが、いくつも現れる。
「それは……?」
「幽霊よ」
淡々と、モイラは言った。
「神は天啓により、幽霊を葬らなければならないの。でも、使役することもできるわ」
私が疑問の表情を浮かべると、モイラは小さく息をついた。
「……貴方には、関係のない話だったわね」
幽霊たちは意味をなさない奇声を上げるだけで、言葉を発しなかった。モイラは一瞬だけ困ったような顔をしたが、すぐに微笑み、私を見つめる。
「貴方、このままだと死んでしまうわ」
笑顔で、そう言い切った。
「大切なものはすべて壊され、最終的には、何もかも失って――破滅してしまう」
……大切なものなんて、もう残っていない。それでも、この言葉は胸の奥に引っかかった。この神は、嘘をついているのだろうか。
「でもね」
モイラは続ける。
「貴方は、運命を変えることができる。私の神託によって」
私の疑わしげな表情を見て、モイラは小さく肩をすくめた。
「信じていないのね。だったら……」
彼女は、少し離れた場所を歩いてくる男を指差した。観光客だろうか。こちらには気づいていない。
「あの人、死んでしまうわ。岩が落ちて」
その言葉と同時に、地面が激しく揺れた。次の瞬間、岩が崩れ落ち、男は声を上げる暇もなく押し潰された。
「言ったでしょう?私は未来を見ることができるの」
――違う。わずかだが、確かに感じた。これは予知ではない。意図的に起こされたものだ。
「……本当は、未来なんて見えてないでしょ」
私は、そう言い放った。
「何を言っているのかしら。貴方も見たでしょう? あの男が死んだのを」
「それが、あんたの力か」
そう告げると、モイラは一瞬驚き、やがて悲しそうに目を伏せた。
「不快な思いをさせたのなら、ごめんなさい」
静かな声で、彼女は言う。
「実は私……未来視が、できなくなってしまったの」
「……できなくなった?」
「ええ」
少し間を置いてから、モイラは微笑んだ。
「少し、話を聞いてくださらない?」
彼女は近くの石に腰を下ろし、こちらを手招きする。私は警戒しながらも、隣に座った。
「……いや、そもそも神って――」
私が言いかけたところで、モイラはハッとしたような顔をした。そして、少し考える素振りを見せてから、静かに口を開く。
「そうね。順を追って話したほうがよさそうね」
モイラは、神と天啓について説明を始めた。
「神格化……か」
話を聞くほどに、知らないことばかりが増えていく。
「それで、私達、神々はね――戦争をするの」
「……どうして?」
問いかけると、モイラは淡々と答えた。
「神は、すべての人に忘れられ、存在しないものとして認識されてしまった瞬間、消滅してしまうのよ」
「消滅……?」
「ええ。だから自分の存在を、色濃く証明し続ける必要があるわ」
一拍置いて、モイラは苦笑した。
「まあ、中には戦闘そのものを楽しむ、常軌を逸した神もいるけどね」
冗談めかした口調だったが、その笑顔の奥には、人の尺度では測れない何かが潜んでいる気がした。
「……それで、400年前だったかしら」
モイラは遠くを見るように語り始める。
「ある神が、私に攻撃を仕掛けてきたの。追い詰められて、逃亡するしかなかったわ」
「その時、私は“分霊”を出したのよ」
「分霊……?」
「簡単に言えば、魂を分けたものね」
モイラは笑って言った。
「分霊を逃がし、その間に私は神と戦った。……本当に、ぎりぎりだったけれど、勝つことはできたわ」
だが、と彼女は続ける。
「その分霊が、意思を持ってしまったの」
胸の奥が、わずかにざわつく。
「私は未来視の力を持っていた。けれど、年月を越えるごとに、その力は弱まっている」
「それって……」
私が言いかけた言葉を、モイラは静かに受け取るように頷いた。
「ええ。分霊に、力を奪われているのでしょうね」
「本来なら、あの幽霊たちを通して未来を聞くことができるの」
「じゃあ……さっきは?」
「ええ。できなかったわ」
モイラは、真っ直ぐに私を見つめた。
「だから、貴方に協力してほしいの」
「……何を?」
「私の分霊は、今や私を超えた力を持ち、正面からでは確実に勝てないわ」
淡々とした声で、だが確かな重みを込めて言う。
「そこで、貴方に“陽動”になってほしいの」
「陽動……? 私が?」
「ええ。貴方に命の危険はないはずよ。その隙に、私が分霊を取り戻すわ」
私は、はっきりと首を振った。
「人を殺して信用を示す神に、命を預けろって?
それに――そもそも、私にメリットがない」
モイラは一瞬、言葉に詰まったように目を伏せる。
「……それは、ごめんなさい。私は、信用の取り方をそれしか知らなくて」
少し間を置いて、彼女は続けた。
「それに――モイラの逸話は、聞いたことがあるでしょう?」
「……ある本で読んだ。あんたの神託に振り回されて、男が破滅した話だ」
「……ええ。起きた出来事自体は、本当よ」
モイラは、静かに言った。
「でも、それを行ったのは私じゃない。――分霊よ」
「人の世界に多く知られていない神も、貴方が思っている以上に存在しているわ」
そして、少しだけ声音を落とす。
「……貴方も、犠牲者を増やしたくはないでしょう?」
私は、しばらく黙り込んだ。
「……分かった」
そう答えると、モイラはほっとしたように微笑んだ。
「ありがとう」
「それじゃあ――」
彼女は立ち上がり、翼を静かに揺らす。
「私の分霊、“パルカ”がいる《霽月池》へ参りましょう」




