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Frange ruinam   作者: S
神様編
8/38

明鏡の滝

――私はもう、時間に殺されることはない。


「次は……」


握りしめた拳に、力がこもる。


「必ず、あいつを殺す」


そう呟いたが、このままではあいつに勝てない。それだけは、はっきりと分かっていた。


力が足りない。知識も、経験も――すべてが。


まずは、情報を集める必要がある。組織の人間に見つからないよう細心の注意を払い、私は街外れの図書館へ向かった。


薄暗い館内を歩き、古い書架を一つひとつ眺めていく。そのときだった。数多の本の中で、一冊だけ妙に目を引くものがあった。


【神の伝承】


表紙に刻まれた文字を見つめ、私はその本を手に取る。ページを開くと、そこには各地に伝わる神々の特徴、居場所、そして数々の逸話が記されていた。


――神、か。正直、半信半疑だった。だが、悪魔が実在するこの世界で、神だけが虚構だと断言できる理由もない。


ページをめくる指を止め、私はある一節に目を留めた。この国に存在するとされる神々――破壊神、運命神、移譲神、鬼神、女神。


その中で、現在地から最も近いと記されていた名があった。「運命神モイラ」未来視ができる存在。その神は、《明鏡の滝》に鎮座しているという。


胸の奥が、わずかにざわついた。私はモイラについて、さらに詳しく知るため書架を探し回る。

やがて、一冊の本が目に入った。


【運命の人形】

不穏な題名に引かれ、私はその本を手に取った。

物語の内容は、幸福に暮らしていた一人の男が、モイラと出会ったことをきっかけに、少しずつ人生を狂わされていくというものだった。


選択を誤り、抗おうとするほど絡め取られ、最後にはすべてを失い、破滅する。救いのない、胸糞の悪い話。気づけば、外は夕暮れに染まっていた。本を閉じ、私は図書館を後にする。


――都市伝説のような話だ。だが、それでも。


「……行ってみるか」


興味本位。そう言い聞かせながら、私は歩き出した。向かう先は、《明鏡の滝》


運命神モイラがいるとされる場所へ。

 

滝の水流から、かすかに虹が立ち上っていた。

水音は静かなのに、胸の奥に響くような迫力がある。滝のそばには、小さな祠がひとつだけ佇んでいた。


だが、魔力は感じられない。神はいないのかもしれない。それでも、ここは確かに空気が澄んでいて、悪くない場所だと思った。


しばらく景色を眺めたあと、帰ろうとした、その瞬間。滝の音が――止んだ。違和感を覚え、振り返ると、そこに立っていたのは一人の女だった。


青い瞳。紫色の髪。背には、大きな白い翼。――先ほどの本の挿絵で見た姿。間違いない、運命神モイラだ。


「迷える子羊よ。貴方の運命を教えてあげよう」


直感で理解した。この存在は、私より何千倍も強い。発せられる魔力が、皮膚を刺すようにひりつく。それでも――本で読んだ話のせいだろうか。どうしても、モイラに対して良い印象が持てなかった。


だが、もし運命を知ることができるのなら。あの悪魔に勝つ道が、見えるかもしれない。


「……私の運命は、どうなっている?」


「不敬な態度は、許してあげるわ」


そう言って、モイラは距離を詰めた。その瞬間、周囲に人の形をした何かが、いくつも現れる。


「それは……?」


「幽霊よ」


淡々と、モイラは言った。


「神は天啓により、幽霊を葬らなければならないの。でも、使役することもできるわ」


私が疑問の表情を浮かべると、モイラは小さく息をついた。


「……貴方には、関係のない話だったわね」


幽霊たちは意味をなさない奇声を上げるだけで、言葉を発しなかった。モイラは一瞬だけ困ったような顔をしたが、すぐに微笑み、私を見つめる。


「貴方、このままだと死んでしまうわ」

笑顔で、そう言い切った。


「大切なものはすべて壊され、最終的には、何もかも失って――破滅してしまう」


……大切なものなんて、もう残っていない。それでも、この言葉は胸の奥に引っかかった。この神は、嘘をついているのだろうか。


「でもね」


モイラは続ける。


「貴方は、運命を変えることができる。私の神託によって」


私の疑わしげな表情を見て、モイラは小さく肩をすくめた。


「信じていないのね。だったら……」


彼女は、少し離れた場所を歩いてくる男を指差した。観光客だろうか。こちらには気づいていない。


「あの人、死んでしまうわ。岩が落ちて」


その言葉と同時に、地面が激しく揺れた。次の瞬間、岩が崩れ落ち、男は声を上げる暇もなく押し潰された。


「言ったでしょう?私は未来を見ることができるの」


――違う。わずかだが、確かに感じた。これは予知ではない。意図的に起こされたものだ。


「……本当は、未来なんて見えてないでしょ」


私は、そう言い放った。


「何を言っているのかしら。貴方も見たでしょう? あの男が死んだのを」


「それが、あんたの力か」


そう告げると、モイラは一瞬驚き、やがて悲しそうに目を伏せた。


「不快な思いをさせたのなら、ごめんなさい」


静かな声で、彼女は言う。


「実は私……未来視が、できなくなってしまったの」


「……できなくなった?」


「ええ」


少し間を置いてから、モイラは微笑んだ。


「少し、話を聞いてくださらない?」


彼女は近くの石に腰を下ろし、こちらを手招きする。私は警戒しながらも、隣に座った。


「……いや、そもそも神って――」


私が言いかけたところで、モイラはハッとしたような顔をした。そして、少し考える素振りを見せてから、静かに口を開く。


「そうね。順を追って話したほうがよさそうね」


モイラは、神と天啓について説明を始めた。


「神格化……か」


話を聞くほどに、知らないことばかりが増えていく。


「それで、私達、神々はね――戦争をするの」


「……どうして?」


問いかけると、モイラは淡々と答えた。


「神は、すべての人に忘れられ、存在しないものとして認識されてしまった瞬間、消滅してしまうのよ」


「消滅……?」


「ええ。だから自分の存在を、色濃く証明し続ける必要があるわ」


一拍置いて、モイラは苦笑した。


「まあ、中には戦闘そのものを楽しむ、常軌を逸した神もいるけどね」


冗談めかした口調だったが、その笑顔の奥には、人の尺度では測れない何かが潜んでいる気がした。


「……それで、400年前だったかしら」


モイラは遠くを見るように語り始める。


「ある神が、私に攻撃を仕掛けてきたの。追い詰められて、逃亡するしかなかったわ」


「その時、私は“分霊”を出したのよ」


「分霊……?」


「簡単に言えば、魂を分けたものね」


モイラは笑って言った。


「分霊を逃がし、その間に私は神と戦った。……本当に、ぎりぎりだったけれど、勝つことはできたわ」


だが、と彼女は続ける。


「その分霊が、意思を持ってしまったの」


胸の奥が、わずかにざわつく。


「私は未来視の力を持っていた。けれど、年月を越えるごとに、その力は弱まっている」


「それって……」


私が言いかけた言葉を、モイラは静かに受け取るように頷いた。


「ええ。分霊に、力を奪われているのでしょうね」


「本来なら、あの幽霊たちを通して未来を聞くことができるの」


「じゃあ……さっきは?」


「ええ。できなかったわ」


モイラは、真っ直ぐに私を見つめた。


「だから、貴方に協力してほしいの」


「……何を?」


「私の分霊は、今や私を超えた力を持ち、正面からでは確実に勝てないわ」


淡々とした声で、だが確かな重みを込めて言う。


「そこで、貴方に“陽動”になってほしいの」


「陽動……? 私が?」


「ええ。貴方に命の危険はないはずよ。その隙に、私が分霊を取り戻すわ」


私は、はっきりと首を振った。


「人を殺して信用を示す神に、命を預けろって?

それに――そもそも、私にメリットがない」


モイラは一瞬、言葉に詰まったように目を伏せる。


「……それは、ごめんなさい。私は、信用の取り方をそれしか知らなくて」


少し間を置いて、彼女は続けた。


「それに――モイラの逸話は、聞いたことがあるでしょう?」


「……ある本で読んだ。あんたの神託に振り回されて、男が破滅した話だ」


「……ええ。起きた出来事自体は、本当よ」


モイラは、静かに言った。


「でも、それを行ったのは私じゃない。――分霊よ」


「人の世界に多く知られていない神も、貴方が思っている以上に存在しているわ」


そして、少しだけ声音を落とす。


「……貴方も、犠牲者を増やしたくはないでしょう?」


私は、しばらく黙り込んだ。


「……分かった」


そう答えると、モイラはほっとしたように微笑んだ。


「ありがとう」


「それじゃあ――」


彼女は立ち上がり、翼を静かに揺らす。


「私の分霊、“パルカ”がいる《霽月池》へ参りましょう」


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