魂
「ここだ」
ネブラが足を止めた先には、
【魔本屋】と書かれた看板を掲げた店があった。
「前から思ってたけど……人間文化って、魔界にも意外とあるものなんだね」
「まぁな。ハデスが魔界を管理しているから、その影響も大きい」
「それで、スパティアの手がかりって?」
「それは入ってから説明する」
そう言われ、店の中へ足を踏み入れた瞬間だった。風を切る音とともに、一本のナイフが視界を横切る。
ネブラは即座に反応し、飛んできたナイフを叩き落とした。
「ずいぶん物騒な挨拶じゃないか」
そう言って、彼は余裕のある笑みを浮かべる。
すると、店の奥から店主らしき魔が姿を現した。
「またお前か。立ち入り禁止だと、何度も言っているはずだ」
ネブラは一歩下がり、私の後ろに回った。
「……その子は人間か。ついに拉致でもしたか?」
その言葉と同時に、店主の周囲に無数のナイフが浮かび上がる。
「えっと、違います。私は自分の意思でここに来ました」
慌ててそう言い、私は小声でネブラに尋ねた。
「スパティアとアニムスのこと、店主に話した?」
「……話してないが?」
――どうやら、ネブラは何も説明していなかったようだ。私は小さく息を吸い、店主の方を見た。
「実は……」
事情を一通り説明すると、店主はしばらく黙り込んだ。
「なるほど……それで、商品を見たいと」
「お願いします」
そう頭を下げると、店主は一度だけため息をつき、手を振った。
「……いいだろう。ただし、勝手な真似はするなよ」
「助かる」
店内を見渡すと、並んでいるのはほとんどが古い本だった。
「本ばっかりだね……ここに、スパティアの手がかりがあるの?」
「あぁ。我が幼き頃、まだ店主が別の者であった時に、ここで見た本があってな」
「そこで見た本が、確か……」
ネブラは一冊の黒い本を手に取った。
表紙に記されていた題名は――【魂について】
ページをめくると、魂の性質や構成などについて書かれている。さらに読み進めた先で、私は息を呑んだ。
黒い影のような、不定形のイラスト。
「……やはりな」
ネブラが低く呟く。
「これは、アニムスに酷似している」
イラストの横には、こう記されていた。
――魂の集合体。
「アニムスと呼んでいたものの正体は、複数の魂を集めて形成されたものだ」
「じゃあ……」
「スパティアが作ったのは、これだろうな」
さらにページをめくる。
次に書かれていたのは、一時的に飛躍的な力を得る方法について。
「……でも、肝心の方法が書かれてない」
「あぁ。意図的に消されてるか、別の書物に書かれてるかだろう」
ネブラは本を閉じ、しばらく考え込んだ。
「スパティアは、この力を求めている可能性が高い」
「でも、どうして?」
「さぁな」
ネブラはそう言って、本を棚に戻した。店を出ると、外の空気がやけに冷たく感じた。
「とりあえず、ホテルに戻るぞ」
こうして私たちは、まだ全貌の見えない力について考えながら、一度、ホテルへ戻った。
ホテルに戻ると、やけに静かだった。人の気配がない。その代わりに、鼻を突く腐敗臭が漂っている。
嫌な予感を覚えながら廊下へ出ると、足元に赤黒い血溜まりが広がっていた。視線を上げた先には、多くの人が倒れている。……死体だ。
近づいて確認すると、その多くは体を切断され、無残な姿で絶命していた。
「我は天使を呼びに行く。お前は生存者を探せ」
そう言い残し、ネブラはその場を離れた。
私は部屋を一つずつ確認していく。どの部屋も鍵は開いており、中には例外なく死体があった。
そして、どの部屋にも魔の姿はない。魔は死ねば消える。つまり――ここにいた魔たちは、すでに全員殺されている。
廊下に戻り、倒れている人々の顔を改めて見た瞬間、胸が締めつけられた。見覚えがある。
サクスム。フランマ。イネプト。
皆、確かに生きていたはずの者たちだ。
しばらくして、ネブラが戻ってきた。
「天使はいなかった」
そして、静かに続ける。
「もう、死んでいる可能性が高い」
その時だった。
「ルイーナ!」
声に気づいて振り向くと、紙袋を抱えたモラがこちらへ駆け寄ってくる。生きていた。その事実に、思わず胸を撫で下ろす。
だが、彼女が私のそばまで来た瞬間、廊下の惨状に気づいたのだろう。顔色が一気に青ざめ、目に涙が浮かぶ。
「えっ……それって……」
彼女の手から紙袋が落ち、床に転がる。中から、割れたクッキーの入った小袋がこぼれ出た。
次の瞬間、周囲の光が歪む。世界が暗転し、視界が完全に閉ざされた――かと思った、その直後。ふっと、視界が晴れる。
そこにいたのは、金髪に赤い目をした――男だった。
「スパティア……」
ネブラが低く呟き、目の前の男を鋭く睨んだ。
「久しぶり、ネブラ」
――あれが、スパティア……。
「お前……何をするつもりだ」
ネブラが一歩、距離を詰めた瞬間だった。
二人の足元から闇が滲み出し、床を這うように広がっていく。
「――っ!」
次の瞬間――ネブラとスパティアの姿は、そこにはなかった。
「……っ!」
私は思わず声を上げ、周囲を見渡した。そこに残っていたのは、私とモラ、そして――静まり返った《魔界ホテル》だけだった。
「ネブラは……どこに……?」
私は慌てて入口へ向かい、扉を押す。だが、びくともしない。
「開かない……?」
嫌な予感が胸をよぎる。周囲を改めて見回すと、違和感はすぐに確信へと変わった。
先ほどまであったはずの死体も、血の跡も、破壊の痕跡も――何一つ残っていない。
「……おかしい」
作られた空間のように、整いすぎている。まるで、最初から“そういう状態”だったかのように。
「空間操作……?」
もしそうなら――
「ここは、異空間……」
「えっと……何がどうなってるの……?」
モラが不安そうにこちらを見る。私は短く息を吸い、分かっていることを整理して伝えた。スパティアの存在、アニムスのこと、そしてネブラとの関係について。
「……スパティアに、アニムス……」
モラは眉をひそめる。
「なんだか、すごく大変なことになってるね」
「うん。でも、ここに閉じ込められてる以上、出口を探すしかない」
こういう異空間には、必ず脱出のための条件がある。私たちは警戒しながら、ホテルの中を探索し始めた。
視界が戻った瞬間、ネブラは息を整えながら周囲を見渡した。そこはホテルだった。
だが、先ほどまでいた場所とは決定的に違う。
血の匂い。壁に残る破壊の痕。
「……なるほど」
スパティアが周囲を見回し、静かに笑う。
「戻ってきたわけか」
ネブラは視線をスパティアへ戻した。悪魔の象徴であるはずの黒い翼は、スパティアの背には存在しなかった。――天啓の罰則、か。
「少し話がしたくてね」
スパティアは淡々と言った。
「あの二人は、一時的に閉じ込めさせてもらったよ」
「お前は、何を企んでいる?」
「ネブラならもう分かってるだろ?」
スパティアは肩をすくめる。
「力を手に入れるためだよ」
「力の入手方法は?―それは一体、何の力だ」
「それは教えられないな」
「目的は何だ」
一瞬の沈黙。
「奪われた世界を、取り戻すためさ」
スパティアは真顔でそう言った。
「……奪われた?」
――同じ頃。
探索して分かったことが二つある。メインホールからも、出口からも外へは出られないこと。ここは、本来のホテルではないこと。
「ルイーナ、これ机に入ってて……」
モラが差し出したのは、コンパスのような道具だった。針の示す先にあったのは、特別変わった様子のないホテルの壁だった。ただ一つ違ったのは、そこから微かに魔力が滲んでいたことだ。
「もしかしたら、ここから出られるかも」
「でも……壁だよ?」
私は壁にそっと手を伸ばす。次の瞬間、指先は抵抗なく壁をすり抜けた。
「えっ……私たち、幽霊だったりする?」
動揺した様子で、モラが言う。
「異空間だからね」
私は首を振る。
「私にも分からないことは多いけど……ここからなら、出られそう」
嫌そうな顔をするモラの手を引き、私達は真っ暗な道を歩き出した。
足音だけがやけに大きく響く。空気が重く、魔力の流れが不安定なのが分かった。その瞬間、視界が歪んだ。
「っ……!」
足元が消え、身体が強く引きずられる感覚。次の瞬間、私達は床に叩きつけられた。
「痛てててて……」
私達が顔を上げると、そこは見覚えのある光景だった。崩れた床、焦げた壁、血の匂いが残る空気。
そして――そこには、ネブラとスパティアがいた。スパティアは、にこやかに手を振った。
「そろそろ頃合いかな」
スパティアがそう言って、真上を見上げる。
次の瞬間――天井が砕ける轟音と共に、眩い光が落ちてきた。その直後――白い影、天使がスパティアを吹き飛ばした。
「この一連は、お前の凶行だな」
天使は血相を変え、スパティアを睨みつけた。その声には怒りと憎しみがはっきりと滲んでいる。
吹き飛ばされたはずのスパティアは、すでに身を起こしていた。服の埃を払うように立ち上がり、余裕のある笑みを浮かべる。
「…せいぜい足掻けよ」
軽い調子でそう言うと、スパティアは指先で空間を裂き、そのまま立ち去ろうとした。
「見逃すとでも思っているのか」
天使が静かに言うと同時に、スパティアに向かって雷が落ちる。眩い閃光がその場を貫いた。
だが、そこに、スパティアの姿はなかった。代わりに立っていたのは――あの本で見た挿絵と酷似した、悍ましい黒い影。
「……アニムス」
天使は怯まず、次々と雷を放つ。だが、どれもアニムスに触れた瞬間、霧散するように消えた。
――効いていない。
焦りを滲ませながら、天使は大きく息を吸った。その全身に、これまでとは比べものにならない神々しい光が集まっていく。
「ルーメン・スペイ」
低く、確かな声でそう告げると、圧倒的な輝きが一条の光となって放たれた。空間そのものを浄化するかのような、純白の光。それは確かに、アニムスを正面から捉えた――はずだった。
だが、アニムスは微動だにしない。光は闇に呑まれるように歪み、やがて霧散した。
次の瞬間、天使の身体は両断され、そのまま床へと崩れ落ちた。アニムスは、役目を終えたかのように空間を裂き、こちらを一瞥することもなく、静かに姿を消した。
私たちは同時に駆け寄った。大量の血液が床に滴っていた。天使の呼吸は浅く、今にでも止まりそうだ。
「だ、大丈夫ですか……?」
モラの声は震えている。天使はわずかに目を開き、私達を見た。
「……聞いてください……」
その視線が、私を捉える。
「……さっき悪魔は……きっとあの“書物”を……狙っています……」
息をするたびに、声が途切れる。私は思わず身を乗り出した。
「書物……?」
天使は、かすかに首を振った。
「飛躍的な力を得られる術が書かれた書物です。ハデス様の腹心が……はるか昔……その書物を……封印しました……誰にも……触れさせぬために……」
天使の指が、床を弱々しく掴む。
「あの悪魔が……気づく前に……破壊してください……ここから東へ……約1200km先にあります……」
「……封印を解くものは……」
天使の言葉はそこで途絶えた。やがて形を保てなくなり、音もなく消えていった。私達は言葉を失ったまま、その場に立ち尽くした。
「お前らは、人間界に帰れ」
ネブラはそう淡々と言い放った。
私は思わず眉をひそめた。
「……は?」
ネブラは表情一つ変えない。
「お前らは、足手まといだ」
「帰らない。それに言ったでしょ。これは利害の一致だって」
私はきっぱりと言い返した。
「……勝手にしろ」
ネブラは短く吐き捨てる。
「行くぞ」
そう言うと、私の方を一瞥し、そのまま歩き出した。
「あの……私も、ついていっていいんですか?」
モラが遠慮がちにネブラへ問いかける。
「お前は、我々に付き添う理由がないだろ」
「……でも」
「邪魔だと言っている」
「ちょっと言い過ぎじゃ――」
そう言いかけた瞬間、モラが静かに口を開いた。
「大丈夫。私は、自分で決めるから」
そしてネブラを真っ直ぐ見つめ、はっきりと言った。
「ついていきます。たとえ、あなたにとって邪魔だとしても」
ネブラは何も答えない。
ただ一言だけ言った。
「……封印についての情報を探すぞ」
そして私達は、ネブラの後を追うように歩き出した。




