色のない真実
気がつくと、目の前には殺風景な景色が広がっていた。空はどこまでも灰色に染まっている。足元に目を落とすと、浅い水が静かに流れていた。足は確かに水の中に入っているはずなのに、濡れる感覚がない。
ここが――冥界なのだろうか。
ふと視線を向けると、少し離れた場所に二つのものが落ちているのが見えた。水晶のネックレスと、赤鉄鉱石だ。神々が送ってくれた魔具だろう。
私はそれらを拾い上げ、水晶のネックレスを首に掛けた。その時、自分の手がわずかに透けていることに気づいた。
……肉体がない。指先を動かしてみる。感覚はある。触れることもできる。だが体は半透明で、まるで幽霊のようだった。
普通なら、幽霊は物に触れられないはずだ。だがここは冥界だ。魂のままでも、こうして干渉できるのかもしれない。
周囲を見渡す。すると、遠くから無数の人影がゆっくりと歩いてくるのが見えた。人も、魔も同じ方向へと歩き続けている。
誰もこちらを見ることはない。表情もなく、ただ真っ直ぐに歩き続けている。その視線の先を見ると――遠くに、淡く光を放つ場所があった。
あそこへ向かっているのだろう。ここにいる魂たちは、おそらくもう意識を持っていない。自我もなく、ただ導かれるままに進んでいるだけなのだろう。……私に意識があるのは、神々の力でそのまま送られたからかもしれない。
私はその光の方へと歩き出した。流れる魂の群れの間を抜けながら、静かに進んでいく。そして、光の近くまで来たとき――一人の男が立っているのが見えた。
灰色の世界の中で、ただ一人こちらを見ている。その姿を見た瞬間、胸の奥がわずかに冷たくなる。間違えるはずがない。スパティアだった。
「君、どうして意識があるんだい?」
スパティアは不思議そうに私を見つめた。
私はこいつに勝てない。それは分かっている。だが、今この光景は神々に見られている。少しでも情報を落とせれば、それでいい。それでも――恐怖はあった。
「……君、どこかで見たことがあるね」
スパティアはそう言って、しばらく上を向いて考え込んだ。やがて、ふっと目を見開く。
「思い出した。ネブラと一緒にいた子だろう。……それなら、どうして生きている?」
ネブラの名前を聞いた瞬間、あの戦いの記憶がよみがえる。胸の奥から怒りが湧き上がってきた。私が黙っていると、スパティアは口を開いた。
「まあ、どうでもいいか」
私は睨みつける。
「お前……一体いつから企んでいた?」
「何のこと?」
「惚けないで。魔の心を得るために、私達を利用していたんでしょ」
スパティアは少しだけ口角を開けた。一瞬の沈黙のあと、あっさりと言った。
「そうだね。最初からだよ」
「最初から……?」
「正確には、600年ほど前かな」
私は息を呑んだ。
スパティアは続ける。
「禁忌気魄書。その様子だと、君も見ただろう?我は最初から、あの本の内容を知っていた」
「そんなはずない……それなら、わざわざ持ち去る必要なんてないじゃないか!」
「君達に見せたくなかっただけさ。それに――」
スパティアはくすりと笑う。
「君達は、まんまと親交を深めてくれたじゃないか」
「……どういうこと?」
「我は目的の為、ハデスを殺してその力を得るつもりだった。だが力が及ばなかった。だから禁忌気魄書に書かれた術を使う必要があったんだ」
「その術に……魔の心が必要だった」
「そうだね。前に言った通り、魔の心は存在しないから、魔の心に似た物を作ることにした。条件は、もう知っているね?」
スパティアはそう私に問いかけた。
「神業を成すこと。そして、他者に対して悔恨を抱くことでしょ?」
「何度も実験したさ。だけど、問題があった。72回も神を殺すのは簡単じゃない。だから、魂の集合体を作った。最も弱い土地神にしてね。そうすれば、神を殺すのは簡単になる」
私は息を呑む。
「昔、一度だけ成功したんだよ。だけど、失敗だった」
「……どうして」
「悔恨を抱かなかったからさ。その魔は他者に対してそうした感情を抱かなかった」
スパティアは淡々と言った。
「そこから50年、実験を続けた。だが上手くいかなかった。強い魔ほど、感情がないんだよね」
「だから、自分で作ることにした」
私の背筋が冷えた。
「……まさか」
スパティアは微笑んだ。
「そう――ネブラだよ」
頭の中が真っ白になる。
「親のいない強い魔を育て、天啓に叛き、人間界に留まらせる。そうすれば我も魔界で活動ができる。そしてアニムスを送り込み、魔界に行かざるを得ない状況を作る」
スパティアの声は、どこまでも冷静だった。
「さらに、人間を巻き込ませるために細工もした。魂の集合体の情報を置いた店の店主を、悪魔嫌いで人間好きな魔にしておいたんだ」
私は呆然とした。
「……そんな」
「そして君達は情報を見つけ、戦い、力をつけ、親交を深める」
スパティアは満足そうに言った。
「上手くいくかは分からなかったけど、君達が仲良くなってくれて良かったよ。ネブラは君達を巻き込んでしまったことで、罪悪感を抱いた」
私は拳を握った。ネブラは――利用されていた。殺されたのも、全部こいつの計画だった。
「天啓に叛いてから500年間、何をしていたんだ?」
「この為の準備と、成功しなかった時の保険を掛けておいたのさ。……話はそれだけかな」
スパティアがそう言った。私は動けなかった。すべてが、こいつの計画だった。
「じゃあ――消えて」
その瞬間、スパティアの手に、先端が二つに分かれた槍が現れた。次の瞬間には、もう目の前にいた。だが、槍が私の首元で止まる。
――違う。止まったんじゃない。パキッと小さな音が響いた。私はポケットに手を入れる。赤鉄鉱石が、粉々に砕けていた。
その瞬間、私は魔力を込めて腕を振るう。槍が砕け散った。スパティアが、初めて驚いた顔をして口を開いた。
「……壊せるわけがない」
やはり魂でも、能力は使える。魔力も残っている。
「まだ力が馴染んでいないからか……」
スパティアは小さく呟いた。
神々がこの状況を見ているなら、ここに来るはずだ。神が攻め込めば、いくらスパティアでも――その時だった。
「さすがに、神が攻め込んでくると厳しいね」
スパティアがそう言った。
「だから、手を打たせてもらう」
「……何をする気?」
「知らないのかい?ハデスは、魔界と人間界の境界の管理権を持っている」
私は息を呑んだ。
「まさか……」
スパティアは静かに言った。
「境界を消すことができる」
背筋が凍る。
「すると、人間界は魔で溢れかえる。そうなれば、神々は我に構っていられない」
そして、ぽつりと呟いた。
「……それに、あの神も見つけやすくなる」
次の瞬間、光が私の腹を貫いた。私はその場に崩れ落ちる。腹部には、ぽっかりと穴が空いていた。
だが――痛みや出血はなかった。
視界がゆっくりと暗くなっていく。そして、意識は深い闇の底へと引き込まれていった。




