目醒め
スパティアの棲家を後にした私は、女悪魔が最初にいた場所へ戻った。そこには、もう誰もいなかった。風が土を巻き上げ、静けさが広がっているだけだ。
足元に目をやると、大きな血溜まりが地面に広がっていた。その近くには、血濡れた小さな手鏡が落ちているのが見えた。
――あの手鏡。女悪魔が持っていたものだ。表面は赤黒く染まり、血がべっとりとこびりついていた。まだ乾ききっておらず、生温かかった。嫌な予感が、胸の奥を冷たく締めつけた。
「……行こう」
ゆっくりと膝をつき、震える指で手鏡に触れた。
冷たい金属の感触。そして、血の生温かさ。
次の瞬間、鏡の表面が水面のようにゆらりと波打ち、私は鏡の中へと吸い込まれた。
気がつくと、私は悪魔の城の中へと戻っていた。
広間には、モイラが静かに横たわっている。10年もの間、魂を抜かれたまま放置されていたはずなのに……肉体は驚くほど崩れていなかった。
私は手にしていた碑をモイラのそばへと近づけた。だが――何も起こらない。もしこの碑に魂が宿っているのだとしたら、魂を解き放たなければならないはずだ。
だが、その方法が分からない。考えても答えは出なかった。ならば、知っている者に聞くしかない。
今、私が会える神は三柱。鬼神、女神、そして移譲神だ。鬼神は……聞いたところで答えてくれるとは思えない。女神は山頂にいるが、もうそこには行きたくはない。
残るのは、移譲神。だが、移譲神は姿を現さない。会えない可能性の方が高いだろう。
それでもモイラが助かるのなら、どれだけ時間がかかっても構わない。そう決めた私は、移譲神ダーレがいるという窮鳥崖へ向かった。
窮鳥崖でいくら待っても移譲神は現れなかった。やはり、別の神に聞くべきか――そう思い、立ち去ろうとしたその時だった。手にしていた碑を、祠の前に落としてしまった。
拾おうと身を屈めた瞬間、ふと気配を感じて顔を上げる。目の前には、白髪の少年が一人立っていた。
――本の挿絵で見た姿。間違いない。移譲神ダーレだ。
「これ、問題になってるやつだよね」
ダーレはそう言って碑を拾い上げた。私はすぐに問いかけた。
「それから……魂を解き放つことってできますか?」
「できるよ。神体を持ってきてくれたら」
ダーレは無表情のまま、淡々と答えた。私は一度城へ戻り、モイラを背負って再び窮鳥崖へと向かった。険しい岩を登り続け、ようやく祠の前に辿り着いた。
「……疲れた」
思わずそう呟くと、祠の前にダーレが姿を現した。ダーレは何も言わず碑を手に取り、モイラのそばへと近づける。
次の瞬間――モイラがゆっくりと目を開けた。
「ここは……」
モイラはゆっくりと体を起こし、周囲を見渡した。
「大丈夫ですか?」
「……ルイーナ。なるほどね、少し話をするわ」
そう言うと、モイラはダーレに手招きをした。
「来なさい」
ダーレは無表情のまま、静かにモイラのそばへ歩み寄る。
「貴方達が霽月池から去った後、翼のない悪魔が私の前に現れたの」
翼のない悪魔――スパティアだ。
「その悪魔が、私に攻撃を仕掛けてきてね。あの悪魔にも未来視はできなかったわ。けれど、大きな攻撃をする割には、避けるのは容易だったから良かったのだけど……」
「何かあったんですか?」
「呪物よ。かなり強力で古い物だったわ。多分、効果は――六回その呪物を見ると、魂を抜き取られるものね。そこで私の意識が途絶えたわ」
「……なるほど」
「それで、その間に何かあったかしら」
私はスパティアのことや、あの戦い、ハデスの封印、魔界のことなどを話した。
「それで……協力してくれませんか?」
「分かったわ。……このことはきっと他の神々も知っているのだと思うけれど、一応報告に行くわ」
モイラはそう言って、ダーレへ視線を向けた。
「もちろん、貴方も」
二人がその場を立ち去ろうとした時、私は思わず口を開いた。
「あの……私はどうすれば?」
モイラは振り返り、わずかに微笑んだ。
「別に何かをする必要はないわ。これは、私達神々の仕事だもの……でも、もしまた何かあったら、いつでも来てちょうだい」
そう言い残すと、二人は静かにその場を去っていった。




