魔の心
「……ここだ」
軋む音を立てながら、私は慎重に扉を押し開けた。中へ一歩踏み込んだ瞬間、カビと古紙が混ざった匂いが鼻を突いた。
「ここも、変わらないな」
崩れた棚の間を進んでいると、不意に足が止まった。壁の一角――何もないはずの場所が、かすかに揺らいでいた。
「……何だ、これ」
指先で触れる。その瞬間、空間が静かに裂けた。
「……これはスパティアの」
罠かもしれない。けれど、ここまで来て引き返すわけにはいかなかった。私は短く息を吐き、その裂け目の中へ足を踏み入れた。
次の瞬間、視界が切り替わった。
中は広い部屋になっていた。一面に、小さな木製の碑が無数に並んでいた。どれも同じ形をしているが、近づいてみるとそれぞれに名前と日付が刻まれていた。
私はゆっくりと歩いた。足音だけが、静かな空間に響いた。何気なく碑を見ていたその時、見覚えのある名前が目に入った。
――運命神モイラ。
思わず足が止まった。指先でその碑に触れる。冷たい木の感触。だが、それ以上のものは何も感じない。もしかすると、この碑は魂が宿る依代なのかもしれない。それでも、私にはただの木片にしか感じられなかった。
再び歩き出した、その時だった。コツッ、と足先が何かに当たった。視線を落とすと、そこには一冊の本が落ちていた。
拾い上げ、表紙に刻まれた文字を読む。
――【禁忌気魂書】
「……これが」
これは、私達が探していた本かもしれない。ページをめくる。そこにはこう書かれていた。
魔の心を持つ魂を体に取り込むことで、術者は一時的に絶大な力を得る。
ページの余白に目をやると、誰かの手による書き込みが残されていた。
魔の心に似たものは、特別な条件によって魔の魂に生まれる。
一つ目。72回神を殺す――神業を成すこと。
二つ目。悔恨、あるいは罪悪感を他者に対して抱くこと。
「……」
胸の奥が冷たく沈んだ。ネブラは、この条件を満たしてしまったのだ。
私は無言のままページをめくり続ける。その時、大量の付箋が貼られたページが目に留まった。付箋に目を通す。そこには、走り書きのような文字が残されていた。
力を得ることには成功した。しかし、ハデスを完全に消滅させることができず、結果として封印に留まった。その代償として、力の大半を使い果たした。
――それだけが記されていた。
ネブラの魂は……すでにスパティアの中にある。だとしたら、スパティアはいつからこの計画を企んでいたんだ?
私はしばらく付箋を見つめたあと、静かに息を吐き、本を閉じた。
周囲を探索してみたが、それ以上分かることは何もなかった。私はモイラの碑を手に取った。それを握りしめたまま、振り返る。
もしかすると、この場所に並ぶ魂もモイラのように奪われたものなのかもしれない。だが、肉体がどこにあるのか分からない以上、元に戻せる保証はない。
だからこそ――救える命は、せめてこの手の届く範囲だけでも救わなくてはいけない。
私は静かに空間を後にした。
「……大丈夫かな」
女悪魔は小さく呟き、溜息をついた。その時だった。空間が、静かに裂けた。すると、そこにわらわらと魔が集まった。
「スパティア様、お元気ですか?」
「スパティア様、何かご命令は?」
次々と魔たちが口を開く。騒がしい声の中、一体の魔が前へ出た。
「スパティア様。人間を匿っていた無法者を見つけました」
そう言って、魔は女悪魔を指差した。
「えっ……」
思わず声が漏れる。その瞬間――女悪魔の目の前で、空間が裂けた。裂け目の奥に、一人の男の姿が見える。スパティアだった。
「君……ネブラと仲が良かった子だよね。我が子の友達に手を掛けるのは、少し心苦しいよ」
スパティアがそう言った瞬間、女悪魔の周囲に、いくつもの空間の裂け目が現れた。その瞬間、背後から魔が女悪魔の背を押した。
「まっ――」
その体が裂け目の中へと押し込まれる。次の瞬間、空間が閉じた。空間に挟まれた四肢が、ばらばらに切断され、床へと崩れ落ちた。血が地面に広がる。
やがて、スパティアのいる空間もまた、音もなく閉じた。
「ふふ……事態は思っていたより深刻だったみたいだね」
女悪魔はかすれた声で呟き、どこか遠くを見るように目を細めた。
「……君の健闘を祈るよ」
女悪魔の体はやがて形を保てなくなり、崩れていく。そして――音もなく消えた。




