遁走
気がつくと、私達は悪魔の城の中へと戻っていた。――ここはネブラと出会い、私の運命が動き出した場所だ。
「運命神がいる霽月池へ向かう」
ネブラが淡々と言った。私達は霽月池へと歩き出した。
霽月池へ辿り着くと、目の前には広大な水面が広がっていた。――この景色に、懐かしさを感じる。水面は月光を映したように澄み渡っている。
「綺麗だね」
モラは目を輝かせ、池の周囲を見渡す。そして、そっと水面を覗き込んだ。次の瞬間、小さく悲鳴を上げる。
「ひゃっ……池の中に、人が!」
私達が慌てて駆け寄ると、水面が揺らぎ、祠の奥から一人の女神が姿を現した。長い髪を揺らしながら、水の上に立つ。
「――あら、ルイーナ。遊びに来たの?」
モイラだった。一瞬、嬉しそうに微笑んだが、すぐに視線が鋭くなる。
「……そこの悪魔は」
彼女はネブラを睨みつけた。
「久しぶりだな。もうパルカではなくなったんだろ?」
ネブラが静かに言う。
「えぇ。お陰様でね」
モイラは皮肉を込めて返した。
「二人、何かあったの?」
モラが首を傾げる。
「……昔からの悪縁だ」
ネブラはそれだけ言った。モイラは腕を組み、冷ややかに問う。
「それで? 何の用かしら」
「コアについて何か知らないか?」
ネブラが切り出す。
「コア……魔の心のことかしら?」
「魔の心? 魔って心とかあるの?」
モラが無邪気に言う。モイラはくすりと笑った。
「いいこと言うわね、お嬢ちゃん。確かに、魔は碌でもない奴が多いわ。そこの悪魔みたいにね」
そう言って、再びネブラを見る。ネブラは無言のままだ。
「それで、どうすれば魔の心は手に入る?」
「そんなの知らないわ」
モイラはあっさりと言い捨てた。そして、少し考えるように目を細める。
「そこまで気になるなら、移譲神にでも聞いてみたらいいわ」
そう言うと、彼女は私の方へ歩み寄った。
「ねえ、あの悪魔抜きで……私達三人だけでお話ししない?」
「……遠慮しておきます。私には、やらなければならないことがあるので」
私の声は、自分でも驚くほど迷いがなかった。モイラはしばらく私を見つめ、それからふっと微笑む。
「そう。事情は分からないけど……応援するわ」
そう言い残し、祠の方へと歩いていった。私は、ふと思い出したことを口にする。
「あの……私、ここに何年ぶりに来ましたか?」
モイラは振り返る。
「そうね……確か38年ぶりかしら。どうして?」
「いえ、何でもありません」
私は小さく頭を下げた。38年。私を置き去りにして、季節は38回も巡っていた。
池を離れたところで、モラが心配そうに顔を覗き込む。
「大丈夫? ルイーナ」
「うん。大丈夫だよ」
私はそう答えた。ネブラが前を向いたまま言う。
「移譲神がいる窮鳥崖へ行くぞ」
窮鳥崖。……あそこは、行くのが本当にしんどかった気がする。
「めんどくさい……」
思わず本音が漏れる。ネブラは呆れたようにこちらを見た。
「行くぞ」
そう言うと、彼は迷いなく歩き出す。私達は顔を見合わせ、小さく息をついてから、その背中を追った。――38年の空白を抱えたまま。
切り立った岩肌がむき出しの、細い山道。吹きつける強風に足元をすくわれそうになりながら、私達は崖沿いを進んでいた。
ふと、以前から気になっていたことをネブラに問いかける。
「……ねえ、前に神が言ってた神域外での縁って、何か知ってる?」
ネブラは前を見据えたまま、淡々と答えた。
「神域の中なら、神は誰とでも関われる。だが、神域外に出れば話は別だ。縁を結ばない限り、互いを正しく認識することはできない」
私の困惑を察したのか、彼は言葉を継ぎ足す。
「縁を結べば、互いの姿がはっきり見えるようになる……それだけの話だ。結んでいなくとも存在はしているがな」
その時だった。背後に冷たい気配を感じ、私は息を呑んで振り返った。そこには、祠に戻ったはずのモイラが、音もなく立っていた。
「……どうしたんですか?」
モラが不思議そうに駆け寄った、その瞬間――
凄まじい衝撃波が走り、モラの体が横へと弾き飛ばされた。
「モラ!」
岩壁に叩きつけられ、もうもうと土煙が舞う。先ほどまでの穏やかな空気は一変し、そこには禍々しい殺気が満ちていた。
「……お前、何者だ?」
ネブラが低く、険しい声で呟く。
「ネブラ、モラをお願い!」
私は叫ぶと同時に地面を蹴った。目の前のモイラは微動だにせず、その瞳からはいつもの優しさも光も消えていた。
「おい、待てルイーナ!」
その声が届くより早く、腹に激しい衝撃が突き刺さった。
「がはっ……!」
視界が上下に反転し、岩肌に肩を強く打ち付けた。激痛が走るが、私は、歯を食いしばり立ち上がった。ここで倒れれば、全員死ぬ。
「……モイラ、さん……」
絞り出すようにその名を呼んだ刹那、私の体が突然、何かに掴まれたように浮いた。次の瞬間、地面へと叩き落とされる。背中の骨が軋む。
「ルイーナ、逃げるぞ!」
ネブラの鋭い声が響く。
「モイラさんを置いていけと――」
言いかけた私の言葉は、轟音にかき消された。さっきまで私がいた地面が、跡形もなく抉れている。
「この状況を分かっていないのか?」
ネブラはそうこちらに言い放った。
「旧糾縄集落跡へ向かう。そこにいる鬼神を巻き込み、協力を仰ぐ。今、我々にできるのはそれだけだ」
「……私達じゃ、勝てないの?」
私の問いに、ネブラは冷徹に、そして迷いなく断言した。
「そうだ。分かったら、モラを担げ。行くぞ」
再び放たれた不可視の攻撃を、反射的に横へ飛んで回避する。直後、背後の岩壁が粉砕され、石礫が雨のように降り注いだ。
私は意識を失ったモラの元へ駆け寄り、その体を抱え上げる。彼女の呼吸は安定している。
「グズグズするな」
ネブラが先導し、私は岩壁すれすれを猛スピードで駆け抜ける。
「右だ」
指示通りに体を捻った瞬間、すぐ横の岩壁が爆ぜた。頬をかすめた破片が肌を裂き、血が伝う。
「速い……!」
背後からは、モイラが正確にこちらを追い詰めてくる。
「アルテル・エゴ」
ネブラが低く呟いた瞬間、ネブラの影が裂けるように二つに分かれた。次の瞬間、そこからもう一人のネブラが這い出る。
「今のは……?」
「分身だ。見ている暇はない、走れ」
囮となった分身が時間を稼いでいる隙に、私達はその場を脱出した。
「……少しは距離を稼げたが、長くは持たないだろうな」
「他の人は巻き添えにならない?」
「あの気配は我々だけを追っていた。巻き添えは出ないだろう」
肩で息をしながら、私は目的地を反芻する。
「旧糾縄集落跡……だね」
「ああ。鬼神を戦いに巻き込むぞ」
胸の奥に冷たい不安を抱えたまま、私達は決死の逃走を続けた。




