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Frange ruinam   作者: S
神様編
14/38

遁走

気がつくと、私達は悪魔の城の中へと戻っていた。――ここはネブラと出会い、私の運命が動き出した場所だ。


「運命神がいる霽月池へ向かう」


ネブラが淡々と言った。私達は霽月池へと歩き出した。


霽月池へ辿り着くと、目の前には広大な水面が広がっていた。――この景色に、懐かしさを感じる。水面は月光を映したように澄み渡っている。


「綺麗だね」


モラは目を輝かせ、池の周囲を見渡す。そして、そっと水面を覗き込んだ。次の瞬間、小さく悲鳴を上げる。


「ひゃっ……池の中に、人が!」


私達が慌てて駆け寄ると、水面が揺らぎ、祠の奥から一人の女神が姿を現した。長い髪を揺らしながら、水の上に立つ。


「――あら、ルイーナ。遊びに来たの?」


モイラだった。一瞬、嬉しそうに微笑んだが、すぐに視線が鋭くなる。


「……そこの悪魔は」


彼女はネブラを睨みつけた。


「久しぶりだな。もうパルカではなくなったんだろ?」


ネブラが静かに言う。


「えぇ。お陰様でね」


モイラは皮肉を込めて返した。


「二人、何かあったの?」


モラが首を傾げる。


「……昔からの悪縁だ」


ネブラはそれだけ言った。モイラは腕を組み、冷ややかに問う。


「それで? 何の用かしら」


「コアについて何か知らないか?」


ネブラが切り出す。


「コア……魔の心のことかしら?」


「魔の心? 魔って心とかあるの?」


モラが無邪気に言う。モイラはくすりと笑った。


「いいこと言うわね、お嬢ちゃん。確かに、魔は碌でもない奴が多いわ。そこの悪魔みたいにね」


そう言って、再びネブラを見る。ネブラは無言のままだ。


「それで、どうすれば魔の心は手に入る?」


「そんなの知らないわ」


モイラはあっさりと言い捨てた。そして、少し考えるように目を細める。


「そこまで気になるなら、移譲神にでも聞いてみたらいいわ」


そう言うと、彼女は私の方へ歩み寄った。


「ねえ、あの悪魔抜きで……私達三人だけでお話ししない?」


「……遠慮しておきます。私には、やらなければならないことがあるので」


私の声は、自分でも驚くほど迷いがなかった。モイラはしばらく私を見つめ、それからふっと微笑む。


「そう。事情は分からないけど……応援するわ」


そう言い残し、祠の方へと歩いていった。私は、ふと思い出したことを口にする。


「あの……私、ここに何年ぶりに来ましたか?」


モイラは振り返る。


「そうね……確か38年ぶりかしら。どうして?」


「いえ、何でもありません」


私は小さく頭を下げた。38年。私を置き去りにして、季節は38回も巡っていた。


池を離れたところで、モラが心配そうに顔を覗き込む。


「大丈夫? ルイーナ」


「うん。大丈夫だよ」


私はそう答えた。ネブラが前を向いたまま言う。


「移譲神がいる窮鳥崖へ行くぞ」


窮鳥崖。……あそこは、行くのが本当にしんどかった気がする。


「めんどくさい……」


思わず本音が漏れる。ネブラは呆れたようにこちらを見た。


「行くぞ」


そう言うと、彼は迷いなく歩き出す。私達は顔を見合わせ、小さく息をついてから、その背中を追った。――38年の空白を抱えたまま。



切り立った岩肌がむき出しの、細い山道。吹きつける強風に足元をすくわれそうになりながら、私達は崖沿いを進んでいた。


ふと、以前から気になっていたことをネブラに問いかける。


「……ねえ、前に神が言ってた神域外での縁って、何か知ってる?」


ネブラは前を見据えたまま、淡々と答えた。


「神域の中なら、神は誰とでも関われる。だが、神域外に出れば話は別だ。縁を結ばない限り、互いを正しく認識することはできない」


私の困惑を察したのか、彼は言葉を継ぎ足す。


「縁を結べば、互いの姿がはっきり見えるようになる……それだけの話だ。結んでいなくとも存在はしているがな」


その時だった。背後に冷たい気配を感じ、私は息を呑んで振り返った。そこには、祠に戻ったはずのモイラが、音もなく立っていた。


「……どうしたんですか?」


モラが不思議そうに駆け寄った、その瞬間――

凄まじい衝撃波が走り、モラの体が横へと弾き飛ばされた。


「モラ!」


岩壁に叩きつけられ、もうもうと土煙が舞う。先ほどまでの穏やかな空気は一変し、そこには禍々しい殺気が満ちていた。


「……お前、何者だ?」

ネブラが低く、険しい声で呟く。


「ネブラ、モラをお願い!」


私は叫ぶと同時に地面を蹴った。目の前のモイラは微動だにせず、その瞳からはいつもの優しさも光も消えていた。


「おい、待てルイーナ!」


その声が届くより早く、腹に激しい衝撃が突き刺さった。


「がはっ……!」


視界が上下に反転し、岩肌に肩を強く打ち付けた。激痛が走るが、私は、歯を食いしばり立ち上がった。ここで倒れれば、全員死ぬ。


「……モイラ、さん……」


絞り出すようにその名を呼んだ刹那、私の体が突然、何かに掴まれたように浮いた。次の瞬間、地面へと叩き落とされる。背中の骨が軋む。


「ルイーナ、逃げるぞ!」

ネブラの鋭い声が響く。


「モイラさんを置いていけと――」


言いかけた私の言葉は、轟音にかき消された。さっきまで私がいた地面が、跡形もなく抉れている。


「この状況を分かっていないのか?」


ネブラはそうこちらに言い放った。


「旧糾縄集落跡へ向かう。そこにいる鬼神を巻き込み、協力を仰ぐ。今、我々にできるのはそれだけだ」


「……私達じゃ、勝てないの?」


私の問いに、ネブラは冷徹に、そして迷いなく断言した。


「そうだ。分かったら、モラを担げ。行くぞ」


再び放たれた不可視の攻撃を、反射的に横へ飛んで回避する。直後、背後の岩壁が粉砕され、石礫が雨のように降り注いだ。


私は意識を失ったモラの元へ駆け寄り、その体を抱え上げる。彼女の呼吸は安定している。


「グズグズするな」


ネブラが先導し、私は岩壁すれすれを猛スピードで駆け抜ける。


「右だ」


指示通りに体を捻った瞬間、すぐ横の岩壁が爆ぜた。頬をかすめた破片が肌を裂き、血が伝う。


「速い……!」


背後からは、モイラが正確にこちらを追い詰めてくる。


「アルテル・エゴ」


ネブラが低く呟いた瞬間、ネブラの影が裂けるように二つに分かれた。次の瞬間、そこからもう一人のネブラが這い出る。


「今のは……?」


「分身だ。見ている暇はない、走れ」


囮となった分身が時間を稼いでいる隙に、私達はその場を脱出した。


「……少しは距離を稼げたが、長くは持たないだろうな」


「他の人は巻き添えにならない?」


「あの気配は我々だけを追っていた。巻き添えは出ないだろう」


肩で息をしながら、私は目的地を反芻する。

「旧糾縄集落跡……だね」


「ああ。鬼神を戦いに巻き込むぞ」


胸の奥に冷たい不安を抱えたまま、私達は決死の逃走を続けた。



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