旧糾縄集落跡
平癒の加護。それは一度だけ、いかなる災厄からも守る力。つまり、あの悪魔の攻撃を、一度だけ耐えられるということだ。だが、耐えるだけだ。防げても、倒せるわけではない。生き延びられても、勝てるとは限らない。
あいつには――このままでは勝てない。
私は再び、《神の伝承》の内容を思い出す。次に記されていた神は、ここからかなり遠い場所にいる。「鬼神ダイモーン」運命や守護を司り、善悪の両面を持つとされる存在。神でありながら、精霊に近い性質を持つという。その神は、《旧糾縄集落跡》に鎮座しているらしい。
さらなる力を得るために私は、《旧糾縄集落跡》へと向かった。
集落は静まり返っていた。自然だけが、異様なほど豊かだ。かつてこの地に、多くの人が住んでいたのだろうか。建物は崩れ落ち、木々も根こそぎ倒れている。周囲を探索すると、一つの小さな祠がひっそりと佇んでいた。――やはり、ここにも神はいるのだ。
だが、神が姿を現す気配はない。半壊した建物の中を見回すと、天井一面に大量の御札が貼られていることに気づいた。
古びた椅子を足場にして、御札を間近で確認する。何かが書かれているようだが、紙は劣化し、文字は判読できない。
私は、ほんの出来心で一枚を剥がした。その瞬間――建物全体が激しく軋んだ。天井から土埃が舞い落ち、柱が悲鳴のような音を立てる。
「まずい――」
私は咄嗟に外へ飛び出した。背後で、建物が崩れ落ちる音が響く。
前を向くと、赤い翼。頭には巨大な角。鬼にも似た異形の神がいた。――本の挿絵で見た姿。間違いない。鬼神ダイモーンだ。
「封印を弱めたのは、貴様だな」
低く、重い声が空気を震わせる。次の瞬間、地面から黒い影が滲み出た。その影は蛇のようにうねり、私を取り囲む。
「――っ」
影は一斉に跳ね上がり、首元へと襲いかかった。
避けきれない。黒い牙が、喉元へ迫る。その瞬間――体の奥から、光が弾けた。胸の内に宿っていた何かが、反応する。魔力が奔流となって放たれ、影を弾き飛ばした。
影は悲鳴のような音を立て、霧散する。私は荒い息をついた。危なかった。もし今の一撃が直撃していれば、首を断たれていたかもしれない。
平癒の加護が――発動したのか。
「そんなつもりはない。話を――」
言いかけた、その瞬間。再び影が現れようとした。だが、私を見たダイモーンが、動きを止める。
「……貴様」
その瞳が、細められる。
「貴様、あやつの末裔か」
空気が、変わった。さきほどまでの殺意が、探るような視線へと変わった。
「話はできるか?」
警戒を解かず、私は質問した。ダイモーンは静かに答えた。
「ここはかつて、多くの人間が住んでいた集落だ」
低い声が響く。
「だが、ここで神同士の争いが起き、戦に巻き込まれ人間は死に絶えた」
「……お前が殺したのか」
ダイモーンの口元が歪む。
「威勢が良いのは結構だが、仕掛けてきたのは向こうだ。それに俺は何とかあの凶悪な神を封印したからな」
赤い翼がわずかに揺れる。
「それに、俺は戦っただけだ。人間など、戦の余波で消えただけにすぎん」
冷たい言い方だった。
「それに封印を弱めたのは貴様だ。危険分子として、今ここで抹殺してもよいのだぞ」
圧がヒリヒリと伝わる。それでも、私は問い返した。
「なら、なぜ殺さない」
「……あやつの末裔だからだ」
声が、わずかに低くなる。
「恩を仇で返すわけにはいかん」
陰陽師の血――あの女神の言葉が脳裏をよぎる。
「誰のことを指している?」
「昔、この人間界を災いから守った陰陽師だ」
「お前は、人間を大切に思っているのか?」
ダイモーンは鼻で笑った。
「生憎、違うな。俺は元々魔の存在だ。人間に興味はない」
その瞳は冷たい。
「だが天啓がある。神は、明確な意思をもって人間を殺してはならない」
「さっき、殺したと言っていただろう」
「巻き込んだだけだ。故意ではない」
淡々とした返答。やがて、ダイモーンは口を開けた。
「それで、貴様はなぜここへ来た」
「力を求めに」
即答だった。鬼神はしばし私を見つめ――そして言った。
「残念だが、俺から与えるものはない」
赤い翼がゆっくりと広がる。
「力が欲しいなら、移譲神にでも会いに行け」
「移譲神……」
考える暇もなく、ダイモーンは口を開いた。
「……二度とここへは近づくなよ。後始末くらいはしといてやる」
そして、鬼神ダイモーンは祠へと姿を消した。私は周囲を見渡した。静まり返った大地。その下に、名も知らぬ命が幾重にも眠っている気がした。それにしても、勝手に御札を剥がしたのは軽率だった。命を落としかけたのだ。
私は再び、《神の伝承》の内容を思い出す。「移譲神ダーレ」圧倒的な力を司り、能力を与える存在。その神は、《窮鳥崖》の頂上に鎮座しているらしい。
鬼神の言葉に従い、私は《窮鳥崖》へと向かった。




