霊峰御稜威山
神は、いる。それはもう疑いようのない事実だった。運命を司る神と対話したのだ。ならば――他の神も、本当にいるのだろう。
私は、あの図書館で見た《神の伝承》の内容を思い出す。次に現在地から近いと記されていた神は「女神パナケイア」癒しと治療全般を司る存在。その神は、《霊峰御稜威山》の頂に鎮座しているという。その標高は、2,823mだ。
だが私は、山に登ったことがない。登山の知識も、装備もない。天候の読み方すら分からない。
……それでも。
「行ってみるか」
私は、ほとんど思いつきのように山へ向かうことにした。
登山口まで、私は歩いて向かった。舗装された道を抜け、やがて土と石の匂いが濃くなる。視界の先に、御稜威山がそびえ立っていた。
「……疲れた」
思わず、声が漏れる。足取りが重い。だが、不思議なことに――空腹も、睡魔も感じない。胸に手を当てる。鼓動はある。呼吸もある。
あのとき、私は時間を壊した。老いから外れたのだとしたら、肉体の欲求にも変化があってもおかしくはない。……考えても答えは出ない。
私は改めて山を見上げた。岩肌は切り立ち、頂は雲に隠れている。とても、素人が思いつきで登れるような山には見えなかった。このまま登れば、遭難する未来しか想像できない。
そのとき、ふと思い出す。あの悪魔もパルカも、モイラも空を飛んでいた。
「……できるかもしれない」
私は、小さく呟いた。
自分の身に、魔力を纏わせる感覚を思い出す。
戦闘のとき、何度もやってきたことだ。魔力を、外へ。体の周囲に、薄く、均等に。
その瞬間――ふわり、と。体が、地面から離れた。
「……!」
確かに浮いている。だが次の瞬間、視界が傾いた。
上下の感覚が掴めない。足場がないという事実が、思った以上に恐怖を呼び起こす。重心がぶれ、体が横倒しになる。
「っ――」
すぐに魔力が乱れ、私は地面に尻もちをついた。
「……なるほど」
できないわけではない。
制御ができていないだけだ。歩くことだって、最初からできたわけじゃない。なら、飛ぶことも同じだ。
私は周囲を見回す。人気はない。山の麓は静まり返っている。ここで練習すればいい。神に会うために、死ぬつもりはない。そして、無謀な挑戦もするつもりはない。
私はそれから、山の裏手の人目につかない場所を拠点にした。一ヶ月、私は一度も横にならず、一度も目を閉じなかった。確実に技術は積み上がっていった。
ある日。私は、何の反動もなく、静かに宙へ浮いた。風に煽られても、ぶれない。視界が傾いても、恐怖はない。
「……飛べる」
その言葉は、驚くほど静かだった。一ヶ月前とは違う。
私は、山を見上げるのではなく同じ高さまで、目線を上げていた。御稜威山の空へと、真っ直ぐに飛び立った。
頂上に辿り着いた、その瞬間だった。急激な頭痛が、こめかみを貫いた。
「……っ」
視界が歪む。吐き気が込み上げ、膝が震える。
立っていることすら、困難になる。何だ、これは。魔力を使いすぎたせいか。それとも――頭と肩の傷が悪化したのか。
呼吸が乱れる。肺に空気が入らない。足元が揺れる。
(まずい……)
意識が、落ちる。その刹那、霞む視界の奥に、誰かが立っているのが分かった。逆光の中、輪郭だけが浮かび上がる。
ゆっくりと、こちらへ歩み寄ってくる。その途端、まるで霧が晴れるように、頭痛が消えた。
吐き気も、眩暈も、嘘のように引いていく。呼吸が整う。心臓の鼓動が静まる。
視界が、完全に戻った。目の前に立っていたのは、黄金の髪。背には大きな白い翼。白いベールを被った女が、一人立っていた。――本の挿絵で見た姿。間違いない。女神パナケイアだ。
「――其方は、天命に見初められた」
声が、静かに響いた。ふと気づくと、頭にあった鈍い痛みも、肩の裂傷も、跡形もなく消えている。確かにあったはずの傷が、消えている。
「其方は……あの陰陽師の血筋の子か」
「あの陰陽師?」
思わず問い返す。女神は、わずかに目を細めた。
「其方は、能力を持っているのだろう」
「なぜ、そう思う?」
女神は穏やかに言った。
「昔はな、呪術を扱う者が多く存在した。だが時と共に、その血は薄れ、やがて途絶えた」
静かな風が吹き、白い羽根が揺れる。
「そして形を変え、残ったものが其方だ」
「……だから、私に力があると?」
「そうだ」
「其方は選ばれた」
その声音には、重みも威圧もない。
「平癒の加護を授けよう」
女神パナケイアが一歩、こちらへ近づく。彼女が歩くたび、足元の枯草が芽吹いた。温かな光が、胸元に触れた。やがて光は消える。
「……終わったぞ」
そう告げられる。
だが、何かが変わったような感覚はない。力が増した実感も、魔力の感覚もない。私には感じ取れない類のものなのかもしれない。
「平癒の加護って?」
本で読んだはずだが、思い出せない。
「一度だけならば其方を、いかなる災厄からも守ろう」
問いかけようとした、その瞬間。女神の姿は、消えていた。改めて周囲を見渡すと、雲海の向こうまで広がる、澄み切った景色があった。
神が姿を現したということは――ここは神域なのだろうか。先ほど女神が立っていた場所を見る。そこには、小さな祠がひっそりと佇んでいた。古びているが、どこか清浄な気配を放っている。
まだ、聞きたいことがあった。天命とは何か。
陰陽師とは誰なのか。だが、どれだけ待っても、女神は再び姿を現さなかった。風だけが、静かに吹き抜ける。
私はしばらく、その景色を目に焼き付けた。この場所を、忘れないように。頂を後にし、私は山を下りた。




