第十九話:最後の賭けと、召喚の理由
カエサル公爵からの「最後の賭け」のメッセージは、ユリウスによってすぐにアメリアの元へ届けられた。
キィィィィィン……
昇降機が書庫に降り立ち、扉が開くと、中には幻の薬草図鑑のスケッチが収められた箱が一つ、静かに置かれていた。ユリウスは箱をアメリアに手渡し、カエサルの伝言を忠実に伝えた。
「アメリア様。公爵は、『これを届けるのが、昇降機の最後の仕事だ。あとは、君の意志で私に会いに来い』と仰せでございました」
ユリウスは、アメリアの顔を注意深く観察した。彼女のヘーゼル色の瞳は、いつものように冷静だったが、その奥には激しい動揺が渦巻いていることを、長年の公爵の側近は見て取った。
アメリアは、箱を開け、中に入っていたスケッチを静かに取り出した。それは、彼女が何年も探し求め、一度は諦めていた、中世の修道院で描かれた薬草の精密な描写図だった。彼女の知的な探求心にとって、これ以上の贈り物はない。
「ユリウス様。公爵は、私の引きこもりの夢を、完全な形で叶えてくれました。そして、私に会うという彼の夢を、私自身の意思に委ねました」
「はい。そして、公爵は、貴方様からの自発的な行動を待つという、彼自身にとって最も苦痛な時間に耐えておられます。これは、もはや支配ではありません。純粋な愛の要求でございます」ユリウスは、疲れた声で核心を突いた。
アメリアは、スケッチをそっと抱きしめた。彼女の理性は、「彼を召喚する必要はない。データは揃った。静寂を維持すべきだ」と命じていた。しかし、彼女の胸の奥で、微かな「恋のノイズ」が、理性的な命令をかき消していた。
(彼は、私の孤独を理解し、私の夢を資金と権力で守った。そして今、自分の傲慢さを一時的に捨て、私の意思に、彼の孤独を埋めるかどうかを委ねた……)
アメリアは、この「最後の賭け」に、カエサルのナルシストの鎧の下にある、脆弱な人間性の全てが込められていることを感じた。彼をこのまま無視すれば、彼の自己愛は崩壊し、彼の孤独は永遠のものとなるだろう。
「ユリウス様」アメリアは、決意を込めた顔で言った。「カエサル様を、召喚します」
ユリウスは、静かに頷いた。「かしこまりました。昇降機は、いつでも動かせます」
「いえ、昇降機は使いません」アメリアは、きっぱりと言った。「公爵の命令は『私に会いに来い』です。そして、昇降機は物資輸送で、最後の仕事を終えました」
アメリアは、幻のスケッチを大切に胸に抱いたまま、ユリウスに指示を出した。「ユリウス様。公爵の執務室の暖炉に、最高の香りの良い薪をくべてください。そして、最も度数の強い、私の瓶底眼鏡を、公爵にお渡しください」
ユリウスは、困惑しながらも頷いた。「眼鏡を、ですか?」
「はい。そして、『これが、貴方の孤独を分析するための、私の研究道具です』と、お伝えください」
数分後、アメリアは、中央書庫の正式な扉から外に出た。彼女が向かったのは、公爵の執務室だった。
カエサルは、窓の外の雪景色を眺めていた。彼の隣のテーブルには、ユリウスが持ってきた瓶底眼鏡が、不気味な光を放って置かれている。
コンコン。
控えめなノックの音に、カエサルは驚き、振り返った。扉を開けて立っていたのは、アメリアだった。彼女は、王都の服ではなく、城塞での普段着—古いウールの地味なドレス姿だった。
「アメリア! 君が、君から……私に会いに来てくれたのか!」カエサルの声は、珍しく動揺していた。彼は、彼女の行動に、自己愛を超えた真の感激を感じていた。
「はい、公爵様」アメリアは、一歩執務室に入り、幻のスケッチを抱いたまま、カエサルの前で深々と頭を下げた。
「貴方が、私の究極の逃避を、究極の資金と最高の贈り物で完成させてくださったことに、感謝いたします」
カエサルは、彼女の頭をそっと持ち上げ、彼女の瞳を見つめた。「感謝……それが、君の私への愛の定義か?」
アメリアは、「研究道具」としてカエサルの元に届けられた瓶底眼鏡に目を向けた。
「違います、公爵様」アメリアは、正直に答えた。「私の愛は、まだ未完の書物です。しかし、貴方が、私の孤独を理解し、貴方自身の支配欲を乗り越えて、私に最高の静寂を与えようとした。その人間的な脆弱さに……私は心を動かされました」
アメリアは、カエサルの簡素なシャツに手を伸ばし、優しく触れた。
「貴方は、私の静寂を破るテロリストであると同時に、私の孤独を埋める唯一の共鳴者です。私は、貴方を研究対象としてだけでなく、私の書庫に永遠にコレクションしたい」
カエサルは、アメリアの頬に、微かな赤みが差しているのを見た。それは、計算でも皮肉でもない、純粋な感情の色だった。
カエサルの瞳に、強い光が宿った。彼は、アメリアを抱きしめた。
「アメリア……! 君は、私に最高の勝利を与えてくれた! 君の心を、私の美学と愛の支配で、完全に手に入れたのだ!」
カエサルはそう宣言したが、彼の声は、歓喜だけでなく、安堵と真の愛情に満ちていた。彼のナルシストの鎧は、アメリアの知的な情熱によって、微かなロマンスの光を浴びたのだった。




