第十話:ナルシストの核心
北方の旧城塞での攻防が始まって数週間が経った。カエサル公爵による昇降機テロは、アメリアの引きこもり生活を完全に破綻させたが、同時に彼の莫大な資金提供は滞ることなく続いており、中央書庫には新たな稀覯本が次々と運び込まれていた。アメリアは、この状況を「高額な騒音税を支払わせている」と解釈することで、精神的な平静を保っていた。
ある日の夕暮れ。カエサルは、書庫の暖炉の前に特注させた豪奢な椅子に座り、鏡磨きのように光る靴のつま先を眺めていた。アメリアは、その数メートル離れた、日の当たらない隅で、古文書の修復作業に没頭している。
昇降機での突入を終えたカエサルは、満足いくまでアメリアの驚きと困惑を堪能すると、あとはただそこに存在しているだけだ。彼は、自分の美しさが書庫の静謐な背景と対比されることに、喜びを感じているらしい。
その静寂を破ったのは、アメリアだった。彼女は手を止め、瓶底眼鏡越しに、暖炉の炎を反射して輝くカエサルをじっと見つめた。
「公爵様」
「何だ、アメリア? 私の美しさに、ついに言葉を失ったか?」カエサルは、目を閉じながら答えた。
「いいえ。そうではありません」アメリアは静かに続けた。「貴方は、毎日欠かさず私の静寂を破るテロを実行します。それは、私のことを愛しているからだと仰いました。でも、どうやら貴方の愛は、私という対象よりも、貴方自身に向けられているように見えます」
カエサルは、目を開けた。彼の鮮やかなアイスブルーの瞳が、アメリアを射抜く。
「当然だろう。私の美しさを理解し、最も愛せるのは、私自身しかいないのだから」カエサルは傲慢に答えた。
「では、どうして貴方は、そんなにも自分自身を愛することができるのですか?」アメリアは、その問いに純粋な学術的な好奇心を込めていた。「私は、自分の内面、自分の思考、自分の趣味は深く愛していますが、自分の容姿に対して、そこまでの熱狂は抱けません。貴方のその自己愛の源が知りたいのです」
カエサルは、アメリアの問いかけの真剣さに、いつもの軽薄な笑みを消した。誰も、彼にそんな核心的な質問をしたことはなかった。誰もが彼のナルシストぶりを嘲笑するか、賛美するだけだった。
彼は椅子から立ち上がり、アメリアの前に立った。暖炉の光が、二人の間に長い影を落とす。
「ふん。面白い質問だ、アメリア。貴様には、私が鏡の中の虚像を愛しているように見えるのだろう」
アメリアは否定しなかった。「貴方は、いつも鏡を見ています」
カエサルは、壁に飾られた、彼自身の壮麗な肖像画を指差した。
「あれを見ろ。誰もが、あれを見て、私の美貌を讃える。だが、彼らは私という存在の孤独を知らない」
「孤独、ですか?」
「そうだ。私は幼い頃から、常に世界の中心だった。私の美貌、才能、権力。全てが頂点にある。だが、頂点とは孤立を意味する。誰もが私に憧れるが、誰も私を理解しようとしない。彼らが愛するのは、ヴェルサイユ公爵という、彼らの欲望を映し出す偶像だ」
カエサルの声には、微かな、しかし確かな影が宿っていた。
「そして、私は気づいたのだ。この私という完璧な存在を、誰よりも深く、誰よりも真剣に、そして誰よりも独占的に愛せるのは、この世で私自身しかいない、と。鏡の中の私は、私を裏切らない。鏡の中の私は、常に私を美の極致だと賛美し、私に飽きることがない」
カエサルはアメリアの瓶底眼鏡を指で軽く叩いた。
「だが、君は違った。君は、私の美貌を無視した。君は、私に飽きているように振る舞った。その時、私は思ったのだ。この女こそ、私の飽きない自己愛を、さらに刺激してくれる唯一の存在だ、と」
カエサルは、再び優雅な笑みを浮かべた。影は消え、ナルシストのオーラが戻る。
「だから、アメリア。私が君を愛するのは、君が私に与える『挑戦』を愛しているのだ。君が私を愛でる以上に、私が私を愛せるように、君は私を刺激する最高の道具だ。これで、君の知的な好奇心は満たされたか?」
アメリアは、その言葉に微かな戦慄を覚えた。彼の自己愛は、単なる虚栄心ではなく、自己の存在証明のための孤独な哲学なのだと理解したからだ。
「……はい、公爵様。貴方の自己愛の構造は理解できました。貴方の愛の対象は、飽きることのない**『美の維持』**そのものなのですね」
「よく理解したな。」
カエサルは、新たな計画に興奮し、上機嫌で昇降機へと向かった。
アメリアは、彼の背中を見送りながら、彼が残した**「孤独」**という言葉を反芻した。
(彼は、自分が愛されることを諦めたからこそ、自分自身を完璧に愛することに逃げたのね。そして、私の引きこもりも、ある意味、社会との繋がりを諦めた逃避。私たちは、孤独という哲学で繋がっている……)
アメリアは、カエサルの孤独と、自分の孤独の間に、契約結婚とは違う、微かな共鳴点を見つけた気がした。それは、彼女の無関心という防壁に、初めて生じた微細な亀裂だった。




