第一話:世界の中心と壁のシミ
王都の社交クラブ「エトワール」の大広間は、熱狂と宝石の光に満ちていた。深夜の帳が下りるにつれ、貴族たちの興奮は最高潮に達する。
アメリア・フォン・グリムにとって、この場所は耐え難い苦痛だった。
(あと、四十分でこの地獄から解放されるわ……)
彼女は、会場の一番奥、巨大な観葉植物の深い影に身を潜めていた。地味な薄茶色のドレスを纏い、猫背気味に背を丸めている。その顔の半分は、度数の強い分厚い「瓶底眼鏡」に隠されていた。周囲の喧騒と華やかさから逃れるため、彼女は壁の装飾を凝視することに集中した。
侯爵家令嬢として、アメリア(22歳)は家族から「早く結婚相手を見つけろ」と強く迫られていた。だが、彼女の唯一の夢は、結婚でも社交でもない。一生分の不労所得と、人里離れた広大な書庫を手に入れ、誰にも邪魔されず、ひたすら本を読んで引きこもることだった。
「お見合いも舞踏会も、なんて無駄で非効率的なのかしら。早く帰って、先日手に入れた稀躯本の香りを嗅ぎたい」
アメリアの心には、今日この場に集まったどの貴族よりも、明確で切実な、そして世間から見れば奇妙な「野望」があった。
そのホールの中心には、この国で最も注目を集める男が立っていた。
カエサル・オーギュスト・ド・ヴェルサイユ公爵(25歳)。
黄金色のプラチナブロンド、夜明けの空を閉じ込めたアイスブルーの瞳。彼は自らが神の創造した芸術品であると信じて疑わない、徹底したナルシストだった。
「公爵様、今日のマントの刺繍は、いつにも増して公爵様の神々しさを引き立てていますわ」
「ええ、知っている。私という存在こそが、この国で最も美しい装飾品なのだから」
カエサルは優雅に微笑み、周囲の女性たちの熱狂的な賛美を浴びていた。しかし、その内側は、極度の退屈に支配されていた。
すべての賞賛は、彼が過去何年にもわたって聞き飽きた定型句に過ぎない。女性たちの視線は、彼という豪華な獲物を手に入れようとする、計算され尽くした欲望だ。彼は、自分の人生が、この退屈な賛美のループから永遠に抜け出せないのではないかと、密かに絶望していた。
「神よ、私に新しい刺激を。私という美の極致を前にして、驚き以外の反応を見せる人間を」
そう心の中で呟きながら、カエサルはふと、視線をホール全体へと滑らせた。
彼の完璧な表情が、一瞬、凍り付いた。
視線の先、シャンデリアの光が届かない隅。観葉植物の陰に、一人の令嬢が立っていた。分厚い瓶底眼鏡をかけた、地味な薄茶色の髪。そして、他の全ての人間が彼に視線を注ぐ中で、彼女だけが、彼を見ていない。
彼女の視線は、熱狂の中心であるカエサルではなく、壁の装飾、あるいは影に落ちた壁のシミに向けられていた。
無関心。
カエサルの美貌に、無関心。この事実は、彼のナルシストとしての絶対的なプライドを激しく傷つけた。それは、彼が築き上げてきた「世界の中心」という信念に対する、初めての明白な拒絶だった。
「ありえない。私を前にして、感情を持たないだと?」
カエサルは、これを己への最大の挑戦だと解釈した。彼の退屈を打ち破る、唯一の手立てかもしれないと。
彼は、その場の会話を打ち切り、優雅だが迷いのない歩調で、アメリアが潜む影へと向かった。公爵の行動に、ホール全体が静まり返る。
黄金色の髪とアイスブルーの瞳を持つカエサルが、アメリアの前に立ちふさがった。彼の影が、彼女の小さな体を覆い尽くす。アメリアは、ようやく彼の存在に気付いた。
(ああ、最悪。よりによってこの方に捕まるなんて。帰るタイミングを完全に失ったわ)
アメリアの心には、目の前に立つ非現実的な美しさを持つ男への賛美や動揺など、微塵もなかった。あるのは、引きこもり計画への障害に対する、深い苛立ちだけだった。
「令嬢」
カエサルは、響くような低い声で彼女を呼んだ。
アメリアは猫背のまま顔を上げ、分厚い瓶底眼鏡越しに、彼を見つめた。その視線は遠く、彼の感情を読み取らせない。
「公爵様。何か、御用でいらっしゃいますか?」アメリアは、事務的に、淡々と尋ねた。
カエサルは、彼女の態度に、さらに確信を深めた。他の女性なら、ここで歓喜の声を上げるか、緊張で声が震えるはずだ。しかし、この女は彼を前にしても、まるで**「私に話しかけるな」**と無言で訴えているように見える。
「私が、君に用がある」カエサルは、挑戦的な笑みを深めた。「君は、私を見ていない唯一の女性だ。それは、私の美貌を前にして、君が極度の動揺を隠そうとしている証拠か、それとも…」
彼の視線が、アメリアの瓶底眼鏡の奥を射抜こうとする。
「…私の退屈を殺す、挑戦状かね?」
アメリアは、カエサルの言葉に心の中で深くため息をついた。
(何て面倒な人。そして、恐ろしく暇なのね。退屈を殺す挑戦状、か……)
その瞬間、アメリアの頭の中で、彼の言葉が、彼女自身の長年の野望と結びついた。
「公爵家」—それは、この国で最も強力な富と権力。
「退屈を殺す」—それは、彼が彼女に**「干渉しない」環境と、「有り余る資金」**を提供する可能性があるということ。
アメリアは、静かに、そして真剣に考えた。これは、彼女の究極の引きこもり計画を実現するための、唯一にして最大の賭けかもしれない、と。
「いいえ、公爵様。私はただ…退屈で、そろそろ帰りたいと思っていただけです」
アメリアは、この上なく正直な、そして、ナルシスト公爵の心を完全に打ち抜くことになる言葉を、静かに告げた。
ナルシスト書くの楽しいー!




