表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/8

【第五章】欠けていく日常

あれから、薬を手に入れるたびに、俺は記憶を売った。


幼少期の断片、誰かと交わした何気ない会話、旅先で見た景色――


少しずつ、俺の過去は削られていった。


だが、セレナの笑顔を見るたびに、またひとつ、何かを差し出す覚悟ができた。


昼下がりの桜並木は、風にそよぐ新緑が透きとおるように美しかった。


セレナはすっかり元気で、薬のおかげか、体の重みも呼吸の乱れも感じさせない。


「すごい、また歩けるようになったな。」


俺が両手をそっと彼女の腰に添えると、セレナは照れたように笑った。


「こうして歩けるだけで、すごく幸せだよ。」


その笑顔は、春の陽気よりも優しく、胸に温度を灯すようだった。


通り沿いの露店で、セレナが小さな串焼きを買って、少しずつ分け合いながら食べる。


ひとくち、またひとくち。口にするたびに小さな幸せが広がる――そんな日常の一コマだった。


セレナは元気そうだった。まるで薬がすべてを癒したかのように。


頬には生気が戻り、足取りも軽い。笑い声が春の風と共に広がっていく。


「ねえ、今度さ……桜の木の下でお弁当、食べない?」


唐突にそう言ったセレナが、俺の袖を引いた。


「弁当か。」


「うん、私ね、昔お母さんとよく食べたの。焼き団子と、根菜串……それと、クロイ芋の揚げ物。」


「クロイ芋か。」


「そう。ちょっとスパイスの効いたやつ。子供のころ、カイルも好きだったって言ってたよね。」


その言葉に、俺は立ち止まった。


「……俺が?」


「うん。ほら、屋台の話してたときに……覚えてない?」


俺は眉をひそめ、目を伏せる。


「……ああ、そうだったかもな。」


曖昧に返しながらも、胸の奥にひやりとしたものが走った。


まるで、その“好きだった記憶”が、自分のものではないような感覚。


(なぜだ……覚えていない。)


ほんのささいな会話の中に、ぽつりと空いた穴。


そこから、じわりと黒い不安が染み出してくる。


だがセレナは、気づいていないように笑っていた。


「そしたら今度、私が作るね。味は保証しないけど。」


「……ああ、楽しみにしてる。」


その刹那、俺の心にひとひらの不安が忍び寄る。


幸せなのに、どこかで「欠けているものがある」という感覚が、ふと溢れる。


だけど俺はそれを胸にしまい、セレナの存在にすべてを託すように、もう一度そっと抱き寄せた。


「……急に、どうしたの?」


「なんでもない。」


俺は短くそう返しながら、腕の中の温もりを確かめるように力を込めた。


そのとき、春の風がそっと吹き抜けた。


柔らかく、あたたかく、まるで季節そのものが二人を包むように。


空から、ひとひらの桜の花びらが舞い降りる。


それに気づいたセレナが、小さく息を呑んで手を伸ばした。


けれど、指先に届くことなく、花びらはひらひらと踊るように舞い落ち、地面に静かに降り積もる。


「……掴めないじゃないか。」


俺がぽつりと呟いた。


「なにをお願いしたんだ。」


その問いに、セレナは一瞬だけ目を細めたあと、小さく笑った。


「……秘密だよ!」


そして、俺の腕に身体を預けるように寄り添いながら、心からの声で続けた。


「ああ、私いま……すっごく幸せ!ほんとにありがとう、カイル。」


その言葉が、胸の奥に深く染み込んでくる。


「……そっか。なら、よかった。」


「うん。今日、ここに来てよかったね。」


「俺もそう思う。」


セレナは少しの間、風を見つめるように空を見上げた。


そのまま、ふっと笑って――


「ねえ、私、ずっとこうしていたいなって……それだけなんだ。」


俺は返す言葉を探したが、ただ小さく頷くことしかできなかった。


(どうか、この時間がいつまでも続いてくれ。)


祈るような願いが、心の中で静かに繰り返される。


桜の花びらが、空から舞い、風に乗って流れていく。


淡い光の中で、俺たちはただ、静かに寄り添っていた――。


だが、その瞬間の幸福は無情にも、あとに控える闇を覆い隠すにすぎなかった。




それから数週間。


穏やかな朝日が差し込む台所。


俺はいつものように皿を洗いながら、背後にあるセレナの声に応じていた。


「カイル、お茶淹れたよ。」


「ありがとう、助かる。」


湯気の立つティーカップを音もなくカウンターへ置く。


それは毎朝の、ほんの小さな光景だった。


「なあ、セレナ。今日の昼は、あの桜並木でも……。」


言いかけて、ふと首をかしげる。返事がない。


いつもならすぐに「うん。」と笑って返してくるはずの声が、聞こえなかった。


「……セレナ?」


俺は手を止め、声の調子を少し変えてもう一度呼んだ。


だが、それでも沈黙は続く。


嫌な予感を感じ、隣の部屋へ駆け込む。


「セレナ!」


足先の冷たい床に思わず視線を落とすと、そこにはセレナが静かに倒れていた。


「セレナ!」


駆け寄り、抱き上げる。体の温もりは少しだけ感じる。


「セレナ……しっかりしてくれ!」


彼女の名を何度も呼びながら、胸の奥に広がっていく恐怖を、必死に押し殺す。


その温もりが、消えてしまわないうちに――と、願いながら。


静寂の中、俺の声だけが響いていた。


窓の外で桜が揺れ、散りゆく花びらが一枚、玄関の敷居に落ちた。


その淡い色だけが、やけに鮮やかに目に残った。

流瑠々と申します。

5章目でございます。

薬を手に入れ、幸せの日常が戻ったと思いきや……の回でした。

次回はクライマックスに向けて転がっていきますのでぜひ見ていってください。

よければ感想やレビュー、ブクマで応援していただけるとすごく励みになります

続きも頑張って更新していきますので、また読みに来てくださると嬉しいです

前作の【春の丘で出会った日傘の少女と、十年に一度咲く風鈴草に(完結)】も見ていってください。

以上。流瑠々でした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ