【第二章】重なる日々と儚い予感
朝の光が、窓から差し込んでいた。
カーテン越しの陽が部屋の中にやわらかく広がり、木の床に淡い模様を描いている。
この町に来て、もうしばらくが経つ。
最初は通りすがりだったはずなのに、気づけば俺は、毎日この部屋で朝を迎えるのが当たり前になっていた。
セレナと一緒に暮らすようになって、日々の流れも少しずつ穏やかに変わっていった。
俺は木の椅子に腰を下ろし、パンをかじりながら、ゆっくりとした時間を感じていた。
目の前では、セレナが忙しなくキッチンを行き来している。
「カイル、目玉焼き、焦げてない? ちゃんと見ててって言ったのに!」
「……見てたよ。でもさ、返すのって、タイミング難しいな。」
笑いながら、セレナは器用にフライパンをあおる。
ぱちぱちと油の跳ねる音が、小さな朝の音楽のように響いた。
「ほら、できた。」
テーブルに並べられたのは、焦げ目のついた目玉焼きと、焼き立てのパン、そしてスープ。
どれも特別な料理ではない。けれど、胸の奥がほっとする、そんな朝食だった。
「いただきます。」
セレナが手を合わせ、俺もそれにならってパンに手を伸ばす。
「……こういう時間って、なんか幸せだよね、」
「ん?」
「朝ってさ、なんでもないけど、なんかいいよね。カイルとこうして過ごせるの、好き。」
その言葉に、俺は少しだけ視線を落とした。
「……俺もだよ。だいぶ、この町にも馴染んできたしな。」
二人分の食器が並ぶだけで、部屋が少し広く感じる。
たったそれだけのことなのに、ずっと前からこうしていたような気がした。
食器を片付けようと立ち上がったとき、セレナが勢いよく立ち上がった。
「ねえ、今日って大道芸の日だよね? お昼に広場でやるって、昨日のおばあちゃんが言ってた!」
「……あんまりはしゃぐなよ。」
「へーき、へーき!」
その声は明るくて、表情も元気そのものだった。
けれど、次の瞬間――ふと、彼女の身体がふらりと揺れた。
「……っ」
「セレナ?」
「……ちょっと、目が回っただけ。ほんとに、なんでもないよ。」
セレナはすぐに体勢を戻し、笑顔を作って手を振る。
「だから行こ? もう外は春でいっぱいだよ。あったかいうちに歩かなきゃもったいない。」
その笑顔に、俺は一瞬だけためらって――
「……ああ。なら、少しだけな。」
頷いて、コートを手に取った。
外に出ると、町はまさに春の空気に包まれていた。
桜の花びらが風に乗って舞い、通りを歩く人々の肩にふわりと落ちる。
小さな屋台が並び、子どもたちの笑い声が響く。
俺たちは並んで歩いた。
町の広場では、青年が炎の玉を使った大道芸を披露していた。
セレナが目を輝かせながら立ち止まる。
「わあ……ほんとにやってる。」
「中に魔石でも仕込んでるんじゃないか?」
「えー、それじゃちょっとズルい気がするね。」
彼女は俺の腕を軽くつかんで笑った。
その笑顔は、本当に楽しそうで――
俺も自然と、肩の力が抜けていくのを感じた。
その後、焼きたてのパンを買って分け合ったり、町の裏通りを散歩したり。
どこか特別なことをしているわけじゃないけど、そんな時間が愛おしかった。
でも、帰り道――また、セレナの足がふらりと揺れた。
「っ、おい、大丈夫か?」
「うん……ごめん、ちょっと立ちくらみ。」
彼女はすぐに体勢を立て直して笑ったが、俺は彼女の肩を支えたまま動かなかった。
「……もう帰ろう。無理することねぇよ。」
「……うん。ごめんね。」
その声は小さくて、少しだけ悔しそうだった。
昼下がりの空は、どこまでも青く澄んでいた。
俺はセレナを家に送り、町の門近くに立ち、剣を腰に下げながら辺りを見回していた。
警備の仕事は静かなものだった。事件もほとんどないし、町の人々も温厚だ。
これといった不満はない――ただ、給金は安い。
家賃と食費、そしてセレナとの生活に必要なものをそろえると、ほとんど手元には残らない。
「まあ、金がないのは今に始まったことじゃないか……。」
つぶやいた声は、春風に溶けるように消えた。
それでも不思議と、心は穏やかだった。
あの木の下で彼女と出会ってから、俺の旅は少しずつ変わり始めている。
それまでの俺は、ただ歩き続けるだけだった。目的もなく、理由もなく。
でも今は、帰る家がある。待っている人がいる。
そんなことを思いながら、俺は空を見上げた。
舞い落ちる桜の花びらが、まるであの日の景色をなぞるように風に揺れていた。
「……大丈夫、か。」
ふと、今朝のセレナの様子が胸をよぎる。
元気そうに振る舞っていたが、あのふらつき方は、どうにも気になる。
そのときだった。
「カイル!」
門の方から駆けてくる声が聞こえた。振り向くと、警備仲間のレオンが顔色を変えて走ってくる。
「セレナさんが……倒れたって!」
瞬間、時間が止まったような感覚に襲われた。
「……なんだって?」
「今朝、近くの人が見つけて、今治療院に運ばれたらしい!」
「……っ、ありがとう!」
言い終わるより早く、俺は門を飛び出していた。
石畳の道を走る。人混みを避け、角を曲がるたびに心臓が締め付けられる。
頭の中は真っ白だった。ただ、セレナのもとに行かなければ、それだけが俺の全てだった。
朝、無理させるべきじゃなかった。
ちょっとくらい平気だ、そう笑う顔に安心してしまった。
俺は、あの時――何を見ていた?
「セレナ……!」
治療院の前に着いた時、扉が少しだけ開いていた。
扉を開けると、そこには薬師がいて、セレナがベッドに横たわっていた。
「どういうことだ……」
俺が問いかけると、薬師は静かに答える。
「倒れていたところを、ご近所の方が……。幸い発見が早くて、大事には至っていませんが、しばらく安静が必要です」
セレナは目を閉じたまま、わずかに眉をひそめている。
その顔は、朝の笑顔とはまるで別物で、白く、痛ましかった。
「セレナ……。」
手を取ると、指先は冷たかった。
けれど、その手が小さく握り返してくる。
「……カイル……?」
弱々しくも、俺の名を呼ぶ声。
その声に、胸が締めつけられた。
「無理するな。もう、何も言わなくていい」
「……うん……」
目を閉じたまま、彼女はうっすらと微笑んだ。
その微笑みが、どこか遠いものに見えて――
俺の中に、じわじわと恐ろしい予感が染み込んでいった。
俺たちの静かな日常に、ひとひらの影が差し始めていた。
流瑠々と申します。
2章目でございます。
今回は、カイルとセレナが少しずつ距離を縮めていく様子、そして彼女の“異変”を描きました。
ゆるやかに始まった日常が、少しずつ不穏な色を帯びていく展開でございます。
次回は、セレナの病と、それを巡る決意が動き出す重要なシーンへと続いていきます。
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続きも頑張って更新していきますので、また読みに来てくださると嬉しいです
前作の【春の丘で出会った日傘の少女と、十年に一度咲く風鈴草に(完結)】も見ていってください。
以上。流瑠々でした。